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「昇華」について

挨拶

おはようございます、こんにちは、こんばんは😊

菅原健吾です

以前ツイッターの魔力で11ツイートにも及ぶロングツリーの作成を盛大にやらかしたかので、こちらに大人しくそれを加筆修正したものを書いていきたいと思います。

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いきなり「手放す」をしようとすることの間違い

何かを昇華する際に「手放す」は勿論大事です。

しかしながら、
巷でそこだけがやたらクローズアップされてるような感じがある気がするので

そこに関する僕の見解を述べていきたいと思います。


手放すとは


「手放す」は昇華という働きの一部分で花形となる部分でありながら、途中からの行程部分(許容→包括→昇華)の段階を指します。

結論から言いますが、

そもそもいきなりそれをやろうとしても、寧ろ逆効果でしょう。

なぜなら

昇華のプロセスとは

「(負の感情の)認知→受容→許容→包括→昇華」

となっているからです。

勿論、昇華したい対象である負の感情部分を受容済みの方は、
その事柄に関しては認知や受容が済んでいますので、手放しをはじめていける段階に入れます。

手放しとは許容→包括→昇華の段階のことです。

ですが、
自分の負の部分への認知が甘かったり、
負があるのは知っていても、
それがなぜそのままだと不味いのかということがわからない(受容が済んでいない場合の)人には、
まず自分自身でその負が持つ想念的な毒性なり悪性なりを、
身を以て理解する体験が先に来るといったことが往々にしてあります。

例え話ですが、人間というのは自分がいかに

危険な爆弾

を抱えているかを知らないと爆弾を手放せなかったりします。

なぜなら危険爆弾だという認識がないからです。

…もしかしたら、人によってはその爆弾を自分本体と勘違いしている人もいるかもしれません。

でもそれは言い換えればPCに刺さってるUSBみたいなもので、
自分といえば自分だし、違うといえば違う。

ちなみにそのUSBには本体の機能を低下するウイルスファイルが入っています。

そいつは健全なファイルに擬態しています。

タチの悪いウイルスほど危機感や自己肯定感というシステムの根本原理を破壊してくることもあります。

人によってはそれによりUSBを引っこ抜けなくなる人もいるでしょう。


だからこそ

認知→受容→許容→包括→昇華

の1セット

で昇華となります。

受容と許容はまとめて変容とも言えます。

許容の部分のフェイズから所謂「手放す」が行われていきます。

ただこれはかなり青写真的なイメージの話で、
細分化していけば、
実際には個々人ごとにその感情の負の濃さや深さなどに当然ながら違いがあるものです。

昨今の量子力学的な見方においては意識はグラデーションとされていて、それが関連しているのではないかと僕は見ています。

またそもそも、
脳の使い方などにおいては固有体験の積み重ねによる情報処理のパターンが性格となって個人の人格を形成する大事な要因となっていますので

個人により違いがあるのが当然となります。

ただ一方で、
素粒子の波側(意識や情報空間側)から自分を観測すると自分はいつでも更に抽象度の高い自分によって情報認識されていて、そこに意識をフォーカスすることで自分をメタ認知することも可能です。

その在り方を顕在意識という物理空間のフィールドで、
どこまで体現できるかなどは個人差があります。

また、
それにより昇華をなめらかに行える人とそうでない人が分かれてくるといった要素もあります。


昇華がうまくいかない一因にはこうした背景などもあった上で、
昇華と手放すが同義的な意味で混同されて使われていたりすることもあるのかもしれないと僕は見ています。

話は変わりますが、「統合」に関しても思うところがあります。

「統合」について

統合という概念がなぜか分離の対立軸に置かれていたり

分離(ジャッジ)がその有用性(物事の比較判断)や、
統合の中途過程として捉えた際における重要性を無視して、やたらと悪視されていることには違和感を感じます。

人間は一朝一夕では変わりません。

統合とは分離の反対ではなく、分離(ジャッジ)かつ非分離(非ジャッジ)の両体験が前提にあり

非分離=統合ではありません。

統合するための材料が出揃ってない段階でなにを統合しようというのでしょうか。

結果にばかり拘って過程を軽視するのはやめましょう。

原因と過程と結果があるのが物事の有り様です。

先の話の「非分離=統合」がどれだけおかしいかというと

例えるなら

H2Oとは水、氷、水蒸気ですね。

水だけでH2Oそのものとはなりません。

無論、氷のみでも水蒸気のみでも

氷・水蒸気のみ
水・氷のみ
水蒸気・水のみ

H2Oは語れません。

これと同様に分離体験のみ、
非分離体験のみでは統合は成り立たず

それではもう片方を理解できない苦しみは終わりません。

両体験が必要です。

また、それによって昇華も滑らかに行いやすくなります。

なぜなら両体験をしようとすれば

相反する概念の間に意識があることで人間は沢山葛藤をすることになります。

そしてそこで様々な自分を知り、様々な状況下で現実と精神のバランスを取ることを要され、それにより人格は多様性を帯びて豊かな人間性が育まれていきます。

また、それ自体が昇華における認知と受容にも通じてきたり、基礎的かつ応用体験だったりもします。

「手放す」や「統合」や「分離」や「ジャッジはダメなこと」の背景を見据えて自分なりに情報整理しながら、
概念図みたいなものを自分用でイメージして、
それらの概念をまとめていくと情報混乱せずに済みます。

いきなり「全部愛なんだ」と究極的な結論だけで完結させるのではなく(愛を否定しているわけではありません)、

地続きの論理などにも目を向けて、自分の感性を何らかの知の体系越しに表現するも出来るという手数を自己表現の手段の一つとして持っておくと、

それに連動して脳の内部表現も自己表現のフィードバックにより書き換わっていきます。

自分を一番ダメにするのも育めるのも自分なんです。

だからこそ、

結論までの過程や中身や密度もまた、
僕は大事にしたいと感じております。

それが「この記事を書く」という「昇華運動」を通じて僕が気づいた

菅原健吾なりの

今ここでただ愛である

の境地かもしれません。




↑↑内容はここまで↑↑

終わりに



とまぁこれが僕が今のとこ感じる「昇華」というものです。

人間が内的にレベルアップするのに大事な価値観だと感じましたので、書き記しました。

長文を最後までご覧いただきありがとうございます✨

それではまた次の記事でお会いしましょう。

ばいばーい👋

(有料エリアでは入院生活のことを綴っていますので、もしよかったらご覧ください✨)



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