鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(13)
犠牲者たち
惨劇の記憶。
潮と混ざった血の匂い。
それは噎せ返るような生々しさで今も鼻腔の奥に残っていた。
あの夜見た全てが、彼の精神を蝕んでいく。
男の名はブレーザー。ドイツの軍人である。
自分の指先が細かく震えていることに気付き、彼は拳を握りしめた。
不意に巨きな影がブレーザーの全身を覆う。
見上げた上空。
ドイツ空軍メッサーシュミットMe262A─1a──通称『シュワルベ』の機影が過ぎる。
味方の機体を見て、彼の精神は僅かに落ち着きを取り戻した。
ここは自分達(ドイツ)の場所だ。
あのような惨劇、二度と起こる筈がない。
「あの女……あの女が追って来る。いや、馬鹿な。そんな事あるわけがない」
ドイツ軍西方海軍・海軍部隊所属を示す軍服はボロボロで血に汚れていた。
ホルダーにも銃はない。すべて失ってしまった。
目を血走らせ、額には血管が浮いた幽鬼のような男。
まだ若いが、その貌は既に死相に侵蝕されている。
鋼鉄(メタル)の少女による船での殺戮──あの事があった翌日、幽霊船のようにブルターニュ沿岸部に流れ着いたドイツ船。唯一の生き残りであるブレーザーは農村の作物を盗みながら命を永らえ、逃げ続けていた。
人に出くわさなかったのは運が良かったと言えよう。
手負いの敵国(ドイツ)兵士。
現地(フランス)人に見付かれば嬲り殺されるに違いない。
だからと言ってドイツ軍服を着ていなければ味方に合流する際、問答無用で射殺されかねないのでそれを捨てる訳にはいかなかった。
いくらこの国(フランス)を味方(ドイツ)が占領し、各所に基地と砲台を設けているとはいえ、闇雲に大地を進んで、それで仲間に遭遇出来るかといえばその可能性は限りなく低い。
初冬のフランス──空の透明な青にすら怯える始末。
もうすぐ夜が来る。
夜が来れば月が出る。
今宵は丁度三日月の筈だ。
細い銀の光──。
それは今の彼にとって悪夢のような色彩だった。
震える指。握り締めた拳も激しく痙攣し始めた。
ブレーザーの全身を恐怖が支配する。
十月二十四日──あの夜、彼はフランス沖で商船襲撃の任に就いていた。
民間商船に偽装した英仏の貿易船、或いは密航船に近付いて襲撃を行うのは、ドイツ兵にとってはいわば格好の小遣い稼ぎとなっていた。
大砲一発で走行不能にし、あとは乗り移って虐殺と略奪を繰り広げるという海賊行為である。
もちろん、ドイツ兵とて私利私欲だけで動いているわけではない。
敵勢力の海を支配下に置くことは難しい──だが、支配下に置き続けることはもっと難しいのだ。
頻繁に軍船を出して警戒していなくては、土地勘を持つフランス軍ががじわじわと海域を回復しようとしてくる。
それが誇り高いドイツ海軍軍人の仕事かと問われれば、確かに疑問の湧く任務ではある。
だが、ブレーザー自身も、彼の直属の上司であるK(コルト).アッド・オンもそんな声は気にも留めなかった。
上層部の命令に素直に従うことの何が悪い?
時にはこんな役得だってあるのだから。
初めは何故こんな所に女の子がいるのか、気にも留めなかった。
大方船倉に隠れていた密航者が、甲板の虐殺騒ぎを聞きつけて様子を見に上がって来たのだろう。
商船にはよくあることだったからだ。
ドイツ兵達は顔を見合わせ、下卑た笑い声をあげたものだ。
甲板に佇む女は、少女と呼んでも差し支えない年代であると見受けられた。
夜の空に靡く銀色の長い髪が、絵画のように幻想的な色彩を描き出している。
幼さの残る顔立ちはブレーザーの好みであったし、容貌に似合わぬ成熟した肢体、とりわけ豊かな胸に兵士達の視線は釘付けになっていた。
海の上の作戦が続いていたため女に飢えていた彼等は、少女の無防備な双丘を強引にもみしだく幻想を描き頭に血が昇るのを感じたものだ。
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