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鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(14)

 キレた上官は殺戮を求めてナイフを振り上げ船中を散策しているし、この船の乗組員は既に全員血祭りに上げている。
 彼等の楽しみを邪魔するものは何も存在しない。
 
「お譲ちゃん、お名前は?」
 
 猫撫で声で誰かが言った。
 少女は大きな瞳を機械的にそちらに向ける。
 
「なに(パルドン)?」
 
 ドイツ語を解さないのだろう。
 フランス語での疑問の単語を少女の唇は紡いだ。
 しかし男たちには言葉の意味などどうでもいい。
 少々舌足らずな高い声は、久々に聞く女の音色だった。
 
 船の舳先に座る少女に手招きする。
 
「こっちへおいで」
 
 言葉というより、その動き(ジェスチャー)につられたように鋼鉄の少女はユラリ……身を傾けた。
 
 次の瞬間。

 刃を髣髴とさせる銀の軌跡が、一瞬の時間差をおいて随所で煌めいた。
 銀と共に、鮮血の赤が海上に撒き散らされる。
 
 常人離れした速さ(スピード)で、少女の拳が同僚達の左胸を穿ったのだ。
 
 目の前で起こったその事態に、ブレーザーの脳は数瞬間思考を停止する。
 何かの拳法の構えだろうか。
 正確な突きが、有り得ないことに大の男の胸筋を破り、心臓そのものを貫いたのだ。
 そいつが倒れるより早くに強引に腕を抜き、甲板を蹴って跳躍し次の獲物に襲いかかる。
 
 倒れ込む同僚の下敷きになり、ブレーザーは甲板の血溜まりに突っ伏した。
 命を守るための戦略ではなかった。
 恐怖に縛られピクリとも動けない。殺戮の中、ただ息を殺すのみ。
 彼はその夜の惨劇を体感した唯一の生存者となったのだった。
 

 《鋼鉄の暗殺者(アイゼン・メルダー)》という名が脳裏を過ぎったのは、甲板に立っていた最後のドイツ兵が倒れた時だ。
 ドイツ偽装船ばかりを狙う殺戮者の噂は、ブレーザーも聞いたことがある。
 
 鋼鉄の腕でドイツ兵を皆殺しにする悪魔──それは船乗特有のありきたりな怪談話ではなかったのか。
 
 いや、待て。
 
 ブレーザーは思う。《鋼鉄の暗殺者》の話が下らない怪談として処理されているのは、誰もその姿を見た者がいないからだ。
 つまり、遭遇した人間は確実に死んでいるからに他ならない。
 
 僅か十数秒の間に十人のドイツ兵を虐殺した少女。
 それが《鋼鉄の暗殺者》でなくて何だというのだ。
 
 最後の犠牲者はKだった。
 人望がなく、横暴でキレやすく、恐ろしい上官。
 だが誰よりも腕の立つはナイフ使いは見たことがない。
 
 それが一瞬で殺された。
 少女の細腕に胸を貫かれて、だ。
 

 瞼を閉じれば、あのときの「赤」が蘇る。
 
 少女が腕を抜いた瞬間のことだ。
 上官の傷口からドクン……ドクン……潰れた心臓の鼓動に合わせるかのように断続的に血液が噴き出したのは。
 大量の血は甲板に倒れ伏したブレーザーの顔面を叩き、彼は恐怖と衝撃にようやく意識を手放せたのだった。
 
 気付けばフランス、ブルターニュの海岸。
 中世より建つ修道院モン・サン=ミシェルの姿が意外と近くに見えて、ブレーザーは現在地を悟ることができたのだ。
 
 操縦する者のいない軍船だが、海流の影響で運良くこの場所へ流れ着いたのだろう。
 無残な死体を乗せた船は今尚、湾に打ち捨てられたままであろうか。
 あるいは、波にさらわれて幽霊船のように近海を漂っているかもしれない。
 
 生きのびた奇跡を神に感謝することも忘れ、幽鬼のような面持ちでブレーザーは立ち上がった。

 歩き続けて三日。
 ようやく正常な思考が出来るようになったのはその頃だ。
 
 早く味方に合流したい。
 だが、所属部隊を失ったことを一体どうやって説明すればいいのだ。
 一人の少女に殴られて皆死にました、などと真実を報告して一体誰が信じると?
 いずれにしろ自分の軍人生命はお終いだ。
 
 ならば、ここからどこかへ逃げるか──?
 
「いや、しかし……」
 
 躊躇を繰り返した後、彼はある事に思い至った。
 
 ドイツ国防軍第277歩兵部隊。
 今年の夏に結成され、今は一旦解散された部隊である。
 その主力が確か今もまだこの近くに駐屯している筈だ。
 指揮官の名は忘れた。
 しかしその副官の名は良く知っている。
 
 H(フランキ).アッド・オン──《狂気の刃(ヴァーンズィニヒ・クリンゲ)》の異名を持つ有名な殺人狂は、彼の上司K(コルト).アッド・オンの双子の兄であった。
 
 そこに唯一の希望を見出したかのように、ブレーザーは一点を見詰め歩き出した。
 彼方にはモン・サン=ミシェルの壮麗な影が、今しも夕闇の中に消えようとしている。
 
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