鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(43)
第三章 戦うことが、運命
夜の空気は、どこまでも冷たく沈んでいた。
ノルマンディーの暗い海は、呑みこむ闇の如く眼前に立ち塞がっている。
まるで、果てしない絶望に行く手を阻まれたかのように。
海岸線に一定距離をおいて、明かりが灯っているのがこの内陸部からでも見える。
ドイツ軍のサーチライトだ。
奇襲を警戒しているのか、ロンドンへ空襲を行う味方空軍のために海岸線を示しているのか、あるいは大量殺人犯たる《鋼鉄の暗殺者(アイゼン・メルダー)》を捜索しているのかもしれない。
サーチライトの光線から、わずかに逸れた所にも光る一点が。
月の雫がひとつ落ちたようなその銀色は、少女の姿をしていた。
夜風にたなびく銀色の長い髪。
灰色の瞳に表情はない──生気がない、と評しても良い。
夜の中に、ひとり立ちすくむ隻腕の少女──アミは口の中で何か呟くと、闇の向こうに身を隠した。
自分の姿が、闇夜に随分目立つものだということは分かっている。
このあたりは、低い草原が広がるフランス特有の風景が広がっていた。
ただし、景色にどこか違和感を覚えるのは、草の丈があまりにもきれいにそろいすぎている故だろうか。
それもその筈だ。
草地の下には、巧妙に造られた地下室が隠されているのだから。
慣れた仕草で草むらにうずくまってからアミは一瞬、動きを止めた。
この前ここに来たのは──日にちを数える間もない。
昨日の昼過ぎだ。
それが遥か昔のように思える。
わずか一日半の間に多くの仲間たちを亡くし、この手でロムを殺した。
怪我を負ったガリル・ザウァーが今、どういう状態なのかも分からない。
そして、ラドムも……。
「……考えたってしかたないな」
少女は力なく首を振った。
草の中に巧妙に隠されたハッチを開けて、地下への梯子を滑り降りる。
湿った空間には、血の匂いが充満していた。
己が殺したユージン・ストナーの血液が未だ乾いていないのだろう。
僅かに小鼻を動かしただけで、アミの表情は変わらない。
きょろきょろと周囲を見回して、不審気に顔を顰めただけだ。
その辺に転がしていた武器職人の死体がない。
誰かに発見されたのだろうか。
他に人のいない地下室で、アミはひとり呻いた。
「2、7、7か……?」
H(フランキ).アッド・オンの差し金なのだろうか。
あのドイツ兵、まるで全てを見通しているかのような態度だった。
──第277部隊とか言っていたっけ……。
それがユージン・ストナーと通じていて、それで死体を発見したのだろうか。
「……うーん、そういうこともあるかもな」
深く物事を考えて推察することは苦手だ。
他に心当たりもないので、彼女は不可思議な現象をすべてドイツ兵の仕業だと、曖昧に結論づけた。
そんなこと、今はどうでも良かったのだ。
片腕のない彼女がたった一人でこんな所にまでやって来たのには、即物的な理由がある。
即ち、右腕。
──右手があれば、ラドムは助けられただろう。
Hとも、互角に渡り合えたはずだ。
激しく首を振って、苦い思いを余所へ追いやる。
とにかく片手のままでは、これからの行動に支障が生じるのは確かだ。
「バランスも悪いし……」
言いながら左手はそこらの棚を漁っている。
新しい義手は、昨日シュタイヤーが撃って壊してしまっていた。
武器職人となにか揉めていたらしいことは気配で察せられたが、なにも腕を壊すことはなかったんだとアミはぼやく。
冷静なシュタイヤーの行動としては違和感が残るが、考えたところで腑に落ちる答えを思いつくわけでもない。
ともあれ、ここは武器職人、そして曲がりなりにも義手製作者の工房だ。
ピッタリのサイズ(もの)はなくても、今のアミに使用可能な義手くらいあるだろう。
そのために、わざわざこんなところにまで戻って来たのだから。
あちこち漁っていくうちに、アミの態度とその表情が次第に焦りを帯びる。
「なんで、無いんだっ……」
見付からない探しものに苛ついたか、棚を蹴り飛ばして中の物を床にぶちまけてしまった。
銃器の部品や、ホルダーが床に散乱する。
「銃なんていらない。ほしいのは腕だ! 腕さえあれば……」
荒い呼吸がひとつの名前を紡ぎ出す。
「ラドム……義手さえあれば、ラドムを守ってやれたのに……」
大切な命が、自分の不注意であっさりと手の平から零れ落ちた感覚。
──僕が、あなたを守るから。
アミを見上げるようにして、少年は実に生意気な口を叩いたものだ。
あんなに弱々しい細い腕で、どうやって《鋼鉄の暗殺者》を守るというのか。
アミとしては笑ってしまう言い草である。
だが、あのとき彼女は笑わなかった。
腹の奥で優しいあかりが灯ったような、不思議な感覚に戸惑ったのだ。
それは、喜びという感覚であったろうか。
──だが。
ふと生じる違和感。
これまで、養い親のガリル・ザウァーの言うがままに何人ものドイツ兵を殺した。
敵を殺すのは当然だ。数を競うわけではないが、足元に重なる死体を前に、誇らしい気持ちにもなったものだ。
アミは思う──ラドムに守られるのは、きっと心地が良いものなのだろう、と。
でも、自分は守られるべき人間ではない。
人をたくさん殺した──その事実に、はじめて手足が凍える。
失った右手の付け根が、氷のように冷たく感じられた。
もう遅い。守ることも、守られることも最早ない。
だって、ラドムとはもう会えないのだから。
まんまと罠にはまってしまった。
あるポイントに爆弾を仕掛けておいて、そこに獲物を追いこむ──少数で動くゲリラ戦では基本の作戦だ。
そんなものを小気味良いくらいに見事に喰らってしまったのは、やはり自分の責任なのだとアミは思っていた。
挙句、彼が自分を庇って銃弾の餌食になるなんて……。
色の失せたその貌を思い出す。
一気に体温が失われていく身体と、大きく見開いた硝子球のような眼。
痙攣する彼の身体を引きずるように抱えてその場を抜け、アミは廃墟の街に火を放った。
それを煙幕代わりにして撤退できたのは、奇跡的なことだと言えよう。
言われるがままに人を殺し続けた。
敵だから構わないと、ずっと思っていた。
だが、仲間(ロム)を殺した時ですら心は痛まなかったのだ。
自分は罪を犯している。
きっと心が死んでいるんだ。
だから仕方がないのだろうか。このまま全てを失っていっても……。
カラン。
無駄な思考を破るかのように、一本の腕が足元に転がった。
「わたしの……?」
小さく声をあげ、それを拾いあげる。
右手用義手……であることは間違いない。
それは彼女専用の義手(うで)だった。
筋肉繊維や骨組みが、通常より丈夫に造ってあるのが目視でも分かる。
使用者の肩の骨を削って、そこに喰いこませるように装着することで安定感を得る造りだという。
つまり、肉弾戦向きに造られた義手であった。
ただし、それは幾分小ぶりだ。
おそらくアミ自身が、昨年に使用していたものであろう。
よく見ればあちこちに小さな傷が付いているのが分かる。
交換したものが、未だ保管されてあったようだ。
「仕方ない」
ポイと放り出したいところをこらえて、四苦八苦しながら肩口にそれを突っ込んでみる。
「やっぱり小さいな……」
これでは左右の腕の長さも違うし、アンバランスであることには変わりない。
だが、無いよりましである。
腕さえ手に入れればこんな所にもう用はないとばかりに、少女は入口の梯子を駆けるように登る。
地上に戻ると、空の色は変わっていた。
月は地の果てに消え、ノルマンディの大地を太陽の光が照らし始める。
「まぶしい……」
光から顔を背ける。
身を隠せる闇が去ってしまったことにたまらなく不安を覚えながらも、アミはある一点目指して歩き始めた。
一刻も早くガリル・ザウァーの元に帰りたい。
──でも、その前に……。
彼女にはやるべきことがあった。
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