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硝子の棺と赤い夢(4)

「私も……」
 
 光照らされるように。
 シェイラの顔は明るく輝いていた。
 
「私もメネスと同じように……」
 
 その言葉に男は漸く自身の調子を取り戻したのか、いつものように優雅に微笑すると片手を上げた。
 まるで一夜限りの恋人に愛を注ぐかのような傲慢な、それでいて優しげな目付き。
 
 二人の手が触れ合わんとする正にその瞬間──そして今にもシェイラも親友と同じ運命に見舞われんとする直前──肉の軋む音が二人の甘い静寂を破る。
 
 信じられない光景。

「メネ……」
 
 息を飲む。
 シェイラの目は一点に釘付けになっていた。
 
 ゆらり。
 
 土に塗れた黄金の髪が蠢いているのだ。
 ゆっくりと……酷くゆっくりした動作で白い腕が空をつかむ。
 死者の上体が静かに起き上がり、そしてもう一方の手が今度は驚く程の速さで空を凪ぐ。
 
 足首に骨が絡み付く。
 その感覚に、シェイラの瞳孔が大きく見開かれた。
 
 声にならない悲鳴と共に足元に目をやる。
 信じられない、と言うように少女は何度も首を振った。
 
 死んだ筈のメネスが、そこに居たのだ。
 シェイラの足にその腕を絡めて。
 
 見上げる顔は恐ろしく白い。
 色を失った唇が未だ幸福の微笑を崩さないことに、彼女は今夜初めての恐怖に襲われた。
 
 恐怖は更に続く。
 メネスの唇が奇妙な動きで捲れ上がったのだ。
 そして、それがゆらゆらと動く。
 
 ──喋っているの?
 
 血の気をなくした真っ白な喉の奥から、ごろごろと火山の胎動のような音が連続してもれ出る。
 シェイラは必死に恐怖を追い払い、耳を澄ませた。
 
「……に、ちか……いで…………」
 
「何、何なの……メネス?」
 
 シェイラの視界が霞む。
 涙が溢れた。
 友人が何を言っているのか、全く分からなかった。
 
 ──つい先刻(さっき)迄生きていたのに。
 ──今でもこんなに綺麗なのに。
 
 それなのに彼女と自分は、言葉の通じない世界に引き離されてしまったのか。
 
「か……に、ちかづ……で」
 
 堪らず男を振り仰いだ。
 彼はメネスの言葉の分かる世界に一歩だけ足を踏み入れているような気がしたから。
 しかし男は半眼を閉じ冷たい眸で二人を見下ろすだけ。
 
「メネ……、分からないわ。何言ってるの……」
 
 親友は何を伝えようとしているのだろう。
 彼はどうして黙ったままなのであろうか。
 如何ともしがたい二つの思いが鬩ぎ合う。
 しかし親友の死体は地獄のように低い轟を発するだけだし、愛しい男は薄い唇を閉じたままでその喉は一向に震える気配すらない。
 
 為す術もなくシェイラはその場にしゃがみ込んだ。
 足をつかんだままのメネスの顔を見るため、そしてその手を自らのそれによって包み込むために。
 
 さきほどの恍惚は失せていた。
 目の前にいる哀れにも変わり果てた親友の姿、常軌を逸した出来事。
 
「どうしてこんなことに……メネス」
 
 しかし差し延べた手は振り払われた。
 
「……ちかづ……な、いで……」
 
 死者の爪が生者の肌を裂く。
 怯んだシェイラの前に屍は立ちはだかった。
 
「彼に近付かないでっ!」
 
 顔面に吹き付けられる生々しい呼吸と低い声。
 黄金の髪を逆立てて、死者は少女につかみかかる。
 
「メネ……、やめて……」

 一瞬前、彼になら殺されても良いと思った筈のシェイラが必死で抵抗を試みる。
 彼に殺されるなら良い。
 しかしメネス──あんなに美しく憧れだった親友──に触れられることに反射的に嫌悪感を抱いたのだ。
 
 弾けるように笑っていたメネスの太陽の如き明るさは最早なく、支配に甘んじた従属者の密やかな喜びの貌は、シェイラには到底理解できないものであった。
 死者(メネス)の冷たい手がシェイラの喉を捻る。
 それだけでまだ成熟していない少女の命は儚く消え去る筈であった。
 
 そうはならなかったのは、男が女の腕をつかんだから。
 片手だけでメネスの両の手を握り締めると、途端に女の動きは止まった。
 その両手が小刻みに震えていることから、メネスが必死に力を込めて彼の手を払いのけようとしているのだと分かる。
 
 しかし男の表情は変わらない。
 冷たい双眸は瞬きもせずに自らが支配した女の屍を見下ろしている。
 そのくせ開いている左手はメネスの肩を優しく抱き寄せるのだ。
 
 いたたまれなくなってシェイラが顔を背けた時だ。
 
「……うっ」
 
 小さな悲鳴が少女の耳を劈いた。
 反射的に振り返ったのは、その声が男のものだったから。
 
 初めに飛び散る赤が見えた。
 次いで、彼が片膝をつく。
 紫の眼が爛々と光り輝く。

 目を背けることも出来ない少女の前で、白い手が振り下ろされて男の衣服を破った。
 肉にめり込む爪。
 そして血飛沫。
 狂ったように、少女の屍はかつて愛した筈の男を傷付けていく。
 
「メネス、止めてっ!」
 
 お願いだからと懇願してもこの地獄絵図は閉じられない。
 高音の叫び声と共に、とどめの一撃。
 
 メネスの手が振り上げられる。
 思わず両者の間に割って入りかけたシェイラの眼前で、血塗れの男の手が屍に差し延べられた。
 その頬を、首を優しく撫でると彼はメネスを抱き締める。
 
 ゆっくりと髪を愛撫しながら、死者の耳元で何を囁いているのだろうか。
 断片的に聞こえる「大丈夫だ」とか「わたしを見ろ」だとか……。
 それはまるで愛の囁き。
 
 シェイラの上体が揺らぐ。
 こんなものを見るくらいなら私が彼を庇って殺された方が良かった。
 とめどなくなく涙が溢れ、絶望に心が震える。
 
 死体になってさえ、メネスは私を圧倒するのかという絶望に心が震える。
 所詮自分は何をやってもメネスには敵わないのだと。
 
 彼の愛を失った──そんなもの、初めからなかったというのに──恐怖に狂いそうになる。
 彼に拒絶されたら、私の心は壊れてしまう。
 
 だから途中で少女はそこから目を背けた。
 決定的な何かを見てしまう前に、愛する男に背を向けたのだ。
 
 小さな足音が走り去って行くことに、果たして男は気付いたろうか。
 
 それから僅かな時が過ぎた後のこと。

 恐ろしく簡単に村に辿り着いたことに、シェイラはおののいていた。
 森の中であんなに迷ったことが、まるで目覚めたばかりの悪夢のように信じ難い。
 
 村の夜明けは霧に包まれ、夢幻の世界を醸し出している。
 誰も──村ですら──このまどろみから脱け出したくはないのだろうか。
 広場に踊る色とりどりの布だけが祭りの喧騒を僅かに思い起こさせるものであった。
 
 シェイラは唯一人、広場の外れに立って風の中にその身を晒していた。
 時折駆け抜ける突風が髪を引き千切らんばかりに揺さぶっても、心臓の鼓動は緩みそうもない。
 
 まだ喉の奥が熱を持っているよう。
 吐き出す息が熱い。
 
 震える足取りで彼女は村外れの自分の家へと戻った。
 堅い木の寝台に転がり込んで、一気に眠りの世界に引きずり込まれてしまいたい。
 
 そうすれば砕けてしまった自分の想いを忘れてしまえる。
 そればかりでなく、目覚めたら側にはメネスの安らかな寝顔までありそうな。
 いつのまに私の寝台に潜り込んできたの、狭いじゃないのと楽しい口げんかが始まるかもしれない。
 
 もしかしたら彼のことすら忘れてしまえるのではないかと、祈りを込めて。


【1~6話へはコチラから ↓】


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