鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(40)
《狂気の刃》(ヴァーンズィニヒ・クリンゲ)
首筋から後頭部にかけて痙攣が走った。
体中の毛が逆立つ感覚に、ラドムは声を張りあげる。
「アミ、逃げろっ!」
咄嗟に彼女の前に身を滑りこませ、隻腕の少女を守るように両手を広げた。
「おヒメさまを守るナイトのつもり? ムカツくな」
ビリビリした殺気を、恐らくアミも感じているのだろう。
肩に置かれた左手に力が込められる。
「ラドム……」
少年の耳元で何事か囁く銀髪の少女をちらりと見やって、充血した双眸が細められた。
「小汚いガキだな。まさか《鋼鉄の暗殺者(アイゼン・メルダー)》がこんなクソガキとはね」
そう言うHだって、相当汚い格好(ナリ)をしている。
ドイツ軍服は土と埃で汚れ、胸の辺りには血や吐瀉物がぶちまけられていた。
嘔吐することで体内に入った毒を排出したのだろう。命の危険に晒されながらの咄嗟の判断は、さすがと言えようか。
「聞いたコトくらいあるでしょ? 自分で言うのもナンだけど、ボク《狂気の刃》」
腰には軍刀(サーベル)。唇には憎悪の呟き。
二人から芳しい反応は見られなかったものの、自分に毒を盛った小僧を探し当てた嬉しさか、男の表情はしまりなくニヤニヤ崩れている。
《鋼鉄の暗殺者》の四肢を裂き、小僧を食い殺す夢想でもしているのだろうか。
いやらしく顔を歪めながら、軍刀の柄に手をかけたその時だ。
「今だ、ラドム!」
舌足らずな声が、しかし予想外の鋭さで周囲に響いた。
瞬間、少年の小柄な姿が地面に滑り込む。
先程アミが消した焚き火の木切れをつかむと、突然の闖入者に目がけ投げつけたのだった。
咄嗟に軍刀を抜いてそれを払った《狂気の刃》は刹那、己へ向かって飛来する銀の弾丸を見た。
アミだ。
ラドムと連動した動きで不意をついて、男の脳天に左踵を打ちおろす。
更に胸部に左拳を叩き込み、鮮やかな流れで右膝で男の腹を穿った。
片腕を失った人間とは思えない、驚異的な身体バランスだ。
「ガ……ハッ!」
毒のダメージが抜けていないHは、まともに攻撃を喰らってその場に崩れ落ちた。
「アミ、逃げよう!」
なおも男に蹴りを見舞わそうと足を振りあげていた彼女が、ラドムの声に我に返ったように身を翻す。
二人は廃墟の塀の影に飛び込み、路地を曲がった。
「わたし、さっきヘビと戦ってるとき、考えたんだ」
「蛇と……何?」
さすがに片腕がなくてはバランスが悪いのか、それともラドムのスピードに合わせてくれているのか。
《鋼鉄の暗殺者》にしてはゆっくりした速度で走りながら、アミはこう言った。
──ラドム、わたしたちはここで別れよう。
「えっ?」
唐突に告げられたその言葉に、さすがのラドムも虚を衝かれたように身体を強張らせる。
「何してる、走れ」
ドイツ兵が立ちあがって追って来る気配と、そこから立ち上る殺気を感じるのだろう。
アミが少年の背をつつく。
「この辺(ノルマンディー)はいずれ最前線になるってシュタイヤーが言ってた。だから、ラドムは今のうちにイギリスかアメリカに逃げろ。もともとそのつもりだったんだろう。港までわたしが送る。だから……」
まるで追い立てるような早口に、ラドムは反発した。
「あ、危ないってんならアミだって一緒だろ。逃げるならアミも……」
しかし少女は、固く唇を結んで首を振る。
「わたしは人をいっぱい殺した。だから、ラドムはわたしなんかと一緒にいちゃいけない。危ないことに巻き込む」
「アミ?」
どこか様子がおかしい。
追い詰められたような早口で彼女は続ける。
顔を歪めているのは、今更ながら右腕を失った苦痛ゆえだろうか?
「ロムはガリル・ザウァーのせいで武器庫(ヴァッフェン・カマー)が空爆されたって言ってたけど、それは違う。わたしがドイツ偽装船を襲ってたせいだ。わたしを狙ってドイツ軍が……」
息が上がってきたのは走っているせいではあるまい。
「……アミ、聞いて」
「わたしのせいで、みんな死んだ。だからラドム、キミとはこれ以上一緒には……」
「アミ、聞いて!」
「イヤだ、聞かない! とにかく逃げろ!」
立ち止まってしまった少年を抱え、アミは路地沿いの民家に視線を走らせた。窓が開いているのを確認したのだ。
踊るような身のこなしで跳躍すると、片足で窓枠を蹴り室内へ飛び込む。
振り向きざまに急いで窓を閉め、玄関扉の前にタンスを運んでバリケードを作る。
この間、僅か数十秒の早業である。
一つしかない部屋の、できるだけ隅で二人は身を縮めた。
これで、H(フランキ)からうまく身を隠すことができれば良いのだが。
「な、何言ってんだよ、アミ。自分の状態考えろよ。そんな手で……僕のことにまで気を回すなよ」
焦ったような彼女の行動につられたように、ラドムも小声になる。
「病院に行こう、アミ。義手(て)を何とかして、先のことはそれから考えよう」
病院?
今度はアミが声を張りあげ、慌てて己の左手で口を押さえる。
「ダメ! 病院はダメだ。病院はマズイ」
「何だよ、それ。犯罪者じゃあるまいし……」
「わたしは犯罪者だ。それに、病院がドイツ軍に押さえられてたらどうする」
彼女にしては真っ当な意見に、ラドムは口ごもる。
「だ、だからってこのままじゃどうしようもないだろ」
「…………」
アミは反論しなかったが、不服そうにそっぽを向いた。
「病院がマズイなら、とにかくモン・サン=ミシェルに帰ろう。僕も一緒だ」
「…………」
返事をしないアミだが、今度は小さな声で何事か呟く。
早口のフランス語は聞き取れなかったが、恐らく悪態だろう。「何?」と問うと必要以上に激しく首を振ったから。
呆れ果てたような沈黙が流れるものの、ラドムは努めて前向きに事態に対処しようと心の中で己に言い聞かせた。
さしあたっての問題があのドイツ兵であることは間違いない。
奴から逃げ切るのが最優先事項だ。
「あいつ、行ったかな? そろそろ出ようか。何か息苦しくなってきた」
ラドムが咳き込みながら立ち上がる。
「そうか? 気をつけろ」
アミはヘソを曲げたか、仏頂面で少年の方を見もしない。
だが、何となく異変を感じたのか、頻りに周囲を見回している。
「何か焦げ臭くないか、ラドム?」
アミにそう言われ、少年もクンと鼻を動かす。
乾いた木が爆ぜて、火花と白煙をあげている──明らかな異変に鼻腔が反応した。
「火事か?」
慌てて窓を開けようとしたその時だ。
分厚い窓硝子の向こうから白い何かが迫る。
息を呑んだラドム。ただ、見つめるだけ。
高く澄んだ音を響かせて硝子が砕け、伸びた二本の腕に顔と首をつかまれた。
グイと引っ張られ、少年の小柄な身体はなすすべなく宙を舞う。
「ラドムッ?」
アミの叫びが、やけにゆっくり耳の中で反響した。
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