鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(59)
短髪が首筋をくすぐる感触に、アミは我に返った。
──ガリル・ザウァーの為なら腕がどうなろうと構わない。ずっとそう思っていたじゃないか。うん、大丈夫……。わたしは大丈夫だ。
己に言い聞かせる。
その行為が、自分でも少々情けなく感じられた。
「アーミー、これ以上は聞くな」
いつのまにか側に来ていたシュタイヤーが、黒手袋で彼女の耳を塞いだ。
アミは首を振ってそれを払い除ける。
何を聞いてもわたしは大丈夫だ。
「邪魔されてたまりますか!」
ガリル・ザウァーが吐き捨てる。
「ドイツ人を殺すために……ドイツを潰すために十年近くこうやって力を蓄えてきたんですから!」
何を聞いても大丈夫。
嘘を付かれたり、酷いことを言われたり……。
それでも絶対大丈夫だと己に言い聞かせていたアミの心が《帝国の狼》の次の言葉で、萎えた。
「ドイツを潰す? ザウァー、貴様とてドイツ人だろうが! これ以上祖国(ドイツ)を裏切るな」
黒手袋が痛いくらい耳を押さえつけるも、男のよく通るその声が遮断されることはない。
「……ドイツ人だって? ほ、本当なのか? ガリル・ザウァー」
余程酷い顔をしていたのだろう。
ちらりとこちらに視線を送ったガリル・ザウァーが小さな笑みを零した。
呆れたような、諦めたような複雑な微笑。
「……だから貴女は馬鹿だと言われるんです。気付くものでしょう。《武器庫》も《鋼鉄の暗殺者》もドイツ語ですよ」
「あっ……」
「貴様の妻を殺した事は悪かったと思っている(イッヒ グラオベン ユーベル、イーレ フラウレン テーテン)。しかし俺も任務だった(イッヒ カン エス、ニヒト ウンターラッセン)。祖国を脱走した貴様に否がある(ドゥー シュレヒト、デン ラント フリーエン)」
単語一つ一つを吐き出すよう喋ってから、ザクソニアは全くその言葉(ドイツ語)を解さないらしいアミに気付いて言葉を迷った。
「先日は気付かなかったが……」
結局、選んだ言語は、この場にいる全員にとって理解可能なフランス語であった。
「その二人はあの時の子供なのか? 貴様の妻が祖国の機密と共に持ち出した……例の?」
そこでガリル・ザウァーは吠えた。
「全員生かして捕らえるという約束だった。なのに貴様は話も聞かずに私の妻を殺して!」
ぎくしゃくと関節を鳴らし、尚も相手につかみ掛かろうと不自由な義手を伸ばす。
「あの日以来、貴様……いや、ドイツを撃ち滅ぼすためだけに生きてきたんです! さぁアーミーさん、貴女もこの男を仕留めて……!」
無意識のうちに後ずさりかけた足を止めて、アミは養い親を見詰める。
これ程うろたえ感情を滾らせたガリル・ザウァーは彼女の記憶にはなく、恐れと違和感、そして不審に胸は張り裂けそうに痛んだ。
「なに、ガリル・ザウァー? わたし、意味が……」
よく聞き取れなかった彼の言葉を問い返す。
だが、怒声とMG42の銃声に消され、少女のか細い声など届きはしない。
ならば、と今度は《帝国の狼》に向き直る。
「ド、ドイツで何が? ガリル・ザウァーが何をしたって?」
アミの耳を塞いでいた手が外れた。
素早い動きでライフルを発砲しながらシュタイヤーが叫ぶ。
「会話をするな! こいつは時間稼ぎをしているだけだ」
少女ははっと息を呑む。
そうだ、今は一対三で分が悪いが、別行動を取っている部隊の兵士が来ればたちまち戦力は逆転するではないか。
それが《帝国の狼》の常套手段であることは、アミも骨身にしみていた。
シュタイヤーのライフル。長めの銃声が立て続けに鳴る。
まるで、周囲の雑音をアミに聞かせるまいとするかのような撃ち方だ。
狙いを定めていないのか、
弾は敵の足元の地面を穿つのみ。
銃弾から逃れようと横に飛びながら、ドイツ人偉丈夫はMG42の引金に指を掛ける。
それを目立つ銀色に向けて撃ち放った。
「危ないっ!」
突然地面に引き倒され背中をしたたかに岩に打ち付けて、アミは咳込んだ。
「うっ……シュタイヤー?」
胸に圧し掛かるシュタイヤーの額から音立てて血の色が失せていく様に、彼女は慌てて飛び起きる。
「シュタイヤー? シュタイヤー、しっかりしろ!」
激しく首を振ると黒ずくめの男は顔を顰め、苦しげな息を吐き出した。
抱き起こした手が鮮血に濡れるのを感じ、アミは青ざめる。
MG42が弾切れで沈黙している今のうちにと、彼を岩陰へ引きずって行った。
兄貴分の名を叫びながら何とか応急処置を施そうにも、肩から背中一面染められた赤い血は、傷口が複数に渡っていることを証明している。
「シュタイヤー、シュタイヤー!」
呼んでも反応はない。
白目を剥いて身体は激しく痙攣を始める。
ショック症状だ。
痙攣で舌を噛み切らないように顎を押さえて、少女は唯一の頼みの綱である武器商人を見上げた。
「ガリル・ザウァー……」
泣き出しそうなその声は、しかし容赦ない一言に遮られる。
「アーミーさん、早く《帝国の狼》を殺しなさい」
「で、でもシュタイヤーが……。早く病院に運ばないと死んでしまう!」
冷たい視線が彼女を射抜く。
「足手纏いになるようなら、その男を殺しなさい」
──ガリル・ザウァー……?
自分の声が、相手に届かないことをアミは知った。
たとえ何があったとしても、ガリル・ザウァーはそんなことを言う人物ではなかった。
腕と一緒に、まるで心まで失くしてしまったかのような物言いに、彼女は絶望する。
──シュタイヤーを殺しなさい。
躊躇いなく従えると思っていた。
ガリル・ザウァーに命じられれば特別な仲間であれ、この手で殺せる。
「でも……」
少女は黒衣の男を庇うように自分の胸に抱き締める。
こういうとき、言葉を上手く操れたらいい。
きちんと考えることが出来たら。
或いは逆に一切考えることが出来なければ、心は傷つかないのかもしれない……。
中途半端すぎて何も出来ない自分が、たまらなく情けなかった。
収集のつかない感情が、涙となって溢れ出る。
「相変わらず肝心なところで役に立たない子ですね」
呆れ果てたようなその呟き。
──わたしは見捨てられたのか?
少女は泣き濡らした顔を上げた。
ガリル・ザウァーがこちらを振り向く。
物騒な気配に、アミは身を縮めた。
「シュ……シュタイヤーは嘘つくとき、眸を伏せるんだ。知ってたか?」
「……何を言ってるんです?」
冷たい視線から隠すように、自ら父と名乗った男の身体を抱き締める。
「い、いくらわたしがボンヤリでも分かる。シュタイヤーがわたしの父親のわけない。この人がそんな嘘をつく理由は一つだけだ」
それはガリル・ザウァーを庇ってのこと。
少女は顔を上げた。頬は濡れたままだが、瞳はもう乾いている。
薄灰色のそれは真っすぐ武器商人を見据えていた.
「わたしの本当の父親は、ガリル・ザウァー……あなただろう」
男は一瞬、たじろいだ様子を見せる。
口の中で何か呟いたものの、しかしそれは声にはならなかった。
足だけがユラリ……。こちらへ一歩踏み出す。
──その時だ。
軽い銃声が周囲を襲った。
《帝国の狼》が装填を終えたのだ。
MG42の連射音は小気味良いくらいに彼女たちの間を引き裂いた。
ガリル・ザウァーは地に伏し、アミは意識を失くしたシュタイヤーの上に覆い被さる。
銃弾は容赦なく彼女の髪を焼き切り、肌を翳めた。
こちらが動きが取れないことを見越して、移動しながら撃っているようだ。
敵の技量(うで)は確かで、いつ急所に直撃してもおかしくない。
迫る死を確実に意識しながらも、絶望に沈んだ精神に恐怖の宿る隙間はない。
そっと瞳を閉じたその時──。
耳を劈く轟音。
強烈な火薬の臭いに、彼女は恐る恐る顔をあげる。
岩場の向こう──海を背に、見覚えのある小柄な姿が立っていた。
煙を吐く獲物を手に、金髪の少年は少女の名を呼ぶ。
「アミ、随分サッパリしたね、その髪!」
第一声がそれか……。
全身血まみれの少年を見て、アミは泣き笑いのように顔を歪めたのだった。
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