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鋼鉄乙女のモン・サン=ミシェル戦闘記(62)

終章 白い闇の向こうに

 一九四一年十二月八日。アメリカ合衆国による対独伊宣戦。
 一九四二年十一月。スターリングラードのドイツ軍降伏。ドイツ軍の敗退が始まる。
 一九四四年六月六日。連合国軍、ノルマンディーに上陸成功。
 同八月二十日。パリ開放。
 一九四五年三月。米英軍によるベルリン空襲。米軍、ライン渡河。
 同五月。ベルリン陥落。
 同月七日。ドイツ降伏。
 
 ヨーロッパ戦線はここに終結する。
 
 だが、それはまだ先の話。
 一九四〇年十一月、ノルマンディー。
 この時期、この地はまだ完全にドイツ軍の支配下にあった。
 

 彼方の海──太陽の光に輝く痛烈なまでの青を眺める女の表情は、苦虫を噛み潰したようなものであった。
 
「どうしろってんだよ、まったく……」
 
 ぼりぼりとかきむしる髪は、見事なまでの赤毛だ。
 女医・マディー・グリフィンは自らの病院(城)を振り仰ぐ。
 いつまでもこんな庭先で、頭抱えて海を見ていても仕方ないのは分かっている。
 
「だからって何もこのタイミングでなぁ」
 
 一大決心をして病院を畳む段取りを済ませたところに、これだ。
 
「こりゃしばらく辞めらんねぇか」
 
 閑古鳥の鳴いていた医院に、入院患者が一気に三人。
 その中には相当な重傷者も含まれる。
 本来ならば唯一の医師である彼女に、呑気に海を愛でる余裕なんてないはずだ。
 
「先生、こんな所にいたか」
 間の抜けた声に呼ばれ、マディーは振り返る。そこには銀髪の短い髪を風に逆立てた少女が立っていた。
「薪割りはすんだ。荷物運びも。ほかにやることは、あるか?」
 
「も、もう出来たのか。早ぇな」
 
 感心してみせると、少女はニマッと笑った。
 
「先生には世話になってる。でも、わたし金持ってない。だから、せめて働くよ」

 
 金がないというところで、マディーの微笑が苦笑に変わる。
 彼女が怪我人を抱えてここに転がり込んで来たのは、二日前の夜中のことだ。
 この近くには他に病院がない。
 だからだろう。この間から妙な患者ばかりがやって来るのは。
 
 少女を見た瞬間、一目で「アミ」だと分かった。
 ラドムが言っていた人物だと。
 
 自身も負傷と、何より不適合な義手を無理矢理装着しているせいで生じる不具合に悩まされながらも、しかしこの少女──よく働く。
 看護や調理など繊細な仕事は不向きなようだが、薪割り、荷物運び。
 力仕事なら何でもこなす。
 
「掃除した。洗濯も。ほかにすることはあるか?」
 
 慣れぬ仕事に肉刺がきた手をさすりながらも、忠実な番犬のように真っすぐこちらを見つめる薄灰の瞳。

 少々考えた後、マディーは手を振った。
 
「もういいよ。怪我人のとこにでも行ってやれ」
 
「わかった」
 
 生真面目に、しかし嬉しそうにうなずいてアミは建物の中へと駆けていく。
 その後ろ姿を見送ってマディーはもう一度、頭をかいた。
 
 悪い子じゃない。それは分かる。
 しかし本当に金を持っていない。信じられないことに一フランだって持っていないのだ。
 彼女がどんなに肉体労働に勤しもうとも、病院滞在の日数が増えるにつれ赤字が嵩んでいくという図式は覆しようがない。
 
「何とかなんねぇか……」
 
 何とも情けない呟きは、空しく空へ消えたのだった。
 
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