うつわは、お金持ちだけが楽しめる娯楽なの?
うつわについて、最近ずっと考えていることがある。
それは、『うつわは、お金持ちだけが楽しめる娯楽なの?』ということだ。
うつわと言っても種類は色々あるけれど、ここでは「陶芸家さんがつくったうつわ」、つまり「作家もののうつわ」について考えたいと思う。
やっぱり、陶芸家さんがつくったうつわって結構なお値段がする。材料の調達から始まって、食卓で使えるようになるまでの工程で、人の手が盛大にかかっている。こだわりが強ければ強いほど必然的に価値があがる。相対的に見れば、機械で大量につくられるうつわより高い。
たまに家に遊びにきた友だちが、私が愛用するうつわを見て、「素敵だけど、自分では買わないな..」とぼやくことがある。そのたびに、その気持ち分かるなぁ、と思いながらも少しモヤっとするのだ。
そもそもお金をどんなことに費やすのかは、使う人の自由だ。
現実は毎月決まった支出でいっぱいいっぱいの人が多いだろうと思う。食費、通信費、家賃、光熱費..それだけでほぼ使ってしまうから、貯金すらできないなど。私も東京で暮らしていたときはそうだった。家賃がもんのすごく高かったし、交際費もかさんで、娯楽に使えるお金って雀の涙くらいだった。家計簿をつけながら、なんとかギリギリでやりくりしていた。
でも、そんななかでも毎月うつわを買うお金を捻出していた。
給料が入るとまず5千円を封筒に入れて、毎月少しずつ貯めていき、ほしいものに出会ったらどーんと買う。そのおかげで月の後半には苦しくなることもあったけど、うつわ欲が勝って面倒なことになっていた。
なぜ、そうまでしてうつわが欲しかったのか。
なぜ、うつわじゃなきゃだめなのか。
その答えは、「さみしい気持ち」に関係してくるなぁと思う。
一人でいても、誰かといても、さみしさってふとしたときにやってくる。「さみしい」と強く自覚していなくても、なんとなく物足りないときはぬくもりが枯渇してカラッカラになっている。
私が迎え入れるうつわには、どれもちゃんと思い出がある。
あそこに行ったなぁとか、あのときこんな気持ちで陶芸家さんいい人だったなぁとか、出会った人や見た景色ぜんぶが、小さな面積に詰め込まれている。うつわが、旅の続きをしているような気持ちにさせてくれるのだろう。
たとえば、このうつわを使うと、
この場所で、話したことや食べたものを思い出す。
このうつわを使うと、
旅先で見た景色や二人のおだやかな空気を思い出す。
一つひとつから、まるでロードムービーのように溢れ出してくる。
それは、くっきりはっきりじゃなくて、ぼんやりしているし、ブツブツ切れながらも、その切れ端が映像や感情となって頭のすみっこで心地よく回り出す。これって日記を書いたり、読み返すときの気持ちに似ているなぁと思う。
そのこと自体に、どんな意味があるの?と聞かれてしまうと困るけど、そこには「お母さんがつくった手料理」のような安心感が存在している。
つくってくれた人の顔や性格がわかるから、安心して使える。
売ってくれた人の気持ちがわかるから、大切に使おうと思える。
なにも思い入れのない無機質なものよりも、格段に「人のあたたかみ」がそこには宿っている。使うたびにほっこりするし、なぜか自分が肯定されたような気持ちにすら、なる。
そもそも「ご飯を食べる」って、毎日必ずすることだ。
どんなに忙しくて料理する時間がなくっても、コンビニやスーパーで買ってなんらかしら口に入れる。
そんなときに、安心できるものを側に置いて、触れながら見ながら感じながら、食べることができたら。おいしい以上の栄養を、心に入れ込むことができるのではないだろうか。
そう考えると、その役割はうつわでなくてもいいと思う。
洋服だって家具だって、なんでもよし。くどいようだけど、大事なのはその人にとって、安心できる居場所があるということ。さみしさの埋め合わせを、外にばかり求めないで、内からつくりだすことができるということ。これがいかに大切で、健やかに過ごす秘訣かということを、私はうつわから教えてもらったような気がする。
これからうつわ屋さんをはじめるにあたって、こんな気持ちを大事にしていきたいし、一緒に時間を過ごす人たちとも共有できたらいいなと改めて思ったのです。
ではでは、冒頭の話に戻って、
『うつわは、お金持ちだけが楽しめる娯楽なの?』
イエスでもあるし、ノーとも言える。
大事なのは、どんな形であっても好きなものを側に置きたいという、純粋な気持ちなんじゃないかな。
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