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半人前の読書家

最近、読書家を名乗るにはまだまだ未熟だなと感じています。

というのもつい最近読んだ草森伸一氏の『随筆 本が崩れる』内にて、

「なまじ本を読んでいて偉ぶる人間とか、読書の量を誇る人には、いっさいのひけめを感じない。」(P.283)

と書かれていたからです。

これを読んだとき、まさに目の覚める思いをしました。それこそ著者のいう本を読んで偉ぶり、読書の量を誇る人間に自分がなっていたのですから。

ましてや、蔵書目録なんぞを作って自分の蔵書までもひけらかそうというのですから、目も当てられないような”自称読書家”ぶりです。

確かに、これまでの私は読書の内容よりも読書・蔵書の量にこだわっていた節がありました。自身の読書量がどれほどのものかを知るために読書メーターを利用しているのですが、いつも気にしているのは今月何冊読んだか、今まで私は何冊の本を読んでいるのかでした。

読書の量ばかり気にしていたのは学生の頃が最も顕著だったと思います。当時は同じく”読書家”の友人と読書の量を競い合い、その友人より読んだ冊数が少なければ悔しがって次はより多くの本を読めるよう1ページでも多く本を読むようにしていました。

読書の内容ではなく読書の量にこだわることは本の著者に対しても大変失礼な行為であるとも思います。速読ができるわけでもないのにパラパラと内容を斜め読みしたものを「読了」としていた過去の自分を張りたおしてやりたいほどです。

さらには積み本も、よくよく考えてみれば自分の読書量に見合わない量を積んでいます。今のわたしは積み本も全て読み切る気概でいますが、その気概すらなくなり延々と積み続けるようになってしまったら?

いずれにせよ、今のわたしの読書スタイルは読書家にあこがれている形だけのモノでしかないのだと考えます。読書家と呼ばれたくて自分の読書量・蔵書量をアピールしているだけの半端モノだと。

それではいけないと思っていますが、学生時代から根付いてしまっている読書スタイルですからそう簡単に治せるものでもないでしょう。むしろ治すモノではなく、自然と周囲の評価が変わっていく必要がありそうなので、自分から能動的にどうにかできるものでもないような気がします。

ですのでこれからも半人前の”自称読書家”として、いずれ他者から読書家と思われればいいなと頭の片隅にでも起きながらこれからも本を読みこんでいきたいと思います。他人に見られることを意識せず、自然とそうなっていることがホンモノの”読書家”なのだと理想の自分を描きながらより深い本の世界へと進んでいければいいなと思います。

参考文献:草森伸一『随筆 本が崩れる』中公文庫刊

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