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「向いていない」と言われたけれど、ポンコツだったけれど、それでも自分なりの「軸」を見つけた

もう十年以上も前の話になる。

高校を卒業した私は、田舎を飛び出し、東京の美容専門学校へと通うこととなった。

初めての一人暮らし。期待に胸を躍らせながら、ずっと憧れていた東京生活がついに幕を開けた。

学校生活はまぁ普通に楽しく、刺激の多い毎日だったのだが、一つ不安要素を抱えていた。

それは、アルバイト。私は中学も高校もアルバイトをしたことがなかったため、東京で初めて経験することになる。

私が目指していたのは美容師であり、そして美容師というのはつまり接客業なのだけれど、私には接客というものの経験がない。

また、美容師を志したのは「髪をいじるのが好きだから」という理由のみで、コミュニケーションが得意ということでもなかった。中学も高校も友達が決して多いわけではなかったこともあり、自分自身、かなり不安だった。

そこで、私はまずアルバイトを通して接客を経験しようと考え、コンビニで求人誌を入手し、都内の飲食店で働けそうな場所を探した。そして見つけたのが、原宿にある和食屋だった。

学校が代々木だったから通いやすさもあるし、なにより田舎から出てきた私は、「原宿で働く」ということに強い憧れを抱いていた。

そして実際に応募し、面接を受け、働かせてもらえることになった。ついに初めてのアルバイトが始まるわけだが、正直なところ、不安しかない。自分にまともな接客など、できるのだろうか。


実際に働き始めるとやはり思った通りで、接客というものが本当にうまくできない。店長も厳しい人で、「声が小さい」と毎日怒られた。基本中の基本である「いらっしゃいませ」すらまともに言えず、自分が本当に情けなく思えた。食事をテーブルに運ぶだけでも一苦労で、覚えが悪いからメニューを把握することも時間がかかる。「何ならできるのか」と聞かれても、たぶん、答えられなかっただろう。

生まれて初めてのアルバイト経験がそのような環境で、まぁ、できない自分が悪いといえばそうなのだけど、メンタルがえげつないほど弱い私にとって、それは結構しんどいものだった。シフトが入っている日が、本当に憂鬱だった。

ある日のことだ。いままでに経験したことのないほどのストレスにさらされた私の頭部には、ついに丸みを帯びた肌色の模様が出現した。そこにだけ、本来あるはずの髪がない。いわゆる「円形脱毛症」というやつだ。

これは本当にショックだった。よりにもよって美容師を目指していて、「髪」というものに大きな価値を見出している自分にそういったものが現れるのは、ただただ悲しい。

まぁ不幸中の幸いか、髪で隠せる大きさだったから、治るまでの数ヶ月間は髪をピンで止めて隠しながら過ごした。


結局、限界を感じてそのバイト先は辞めることになり、やめ際に店長からこんな言葉をいただいた。

「お前は接客に向いていない」と。

自分でもある程度わかっていたことではあったが、改めて言われるとやはりショックは大きい。もちろんそんなことで美容師を諦めるつもりなどまったくなかったのだが、「接客」というのはやはり今後もまた、自分の前に大きな壁として立ちはだかることになる。

和食屋を辞めたあとは、家の近くにあったコンビニでバイトをすることとなった。そこは比較的ほどよい緩さで、なんとか続けられた。

そのコンビニで数ヶ月バイトをしながらも、学生生活は徐々に後半へと差し掛かり、いよいよ就職活動を始めることになる。

私は田舎から出てきたこともあり、働くなら渋谷や原宿の雑誌にも載っているような有名美容室で働きたいと考えていた。だからヘア雑誌やファッション誌を読み漁り、気になったお店を調べ、応募した。

そして、芸能人も多く通う超有名店の面接を受けることになった。そこは私が美容学生をしていた当時では都内に4店舗ほどを構える大型店で、面接を受ける前にまず、4店舗のうち2店舗をそれぞれ見学しなければならない。

そこで、麻布と銀座の店舗を見学。東京に来て2年近く経とうとしていたわけだけど、麻布や銀座などさすがに行くことは少なかったこともあり、そのきらびやかな街並みを歩いているだけで刺激的だった。

特に印象に強く残ったのが、銀座だ。街並みはもちろん、その街の光に負けず劣らず、人々も輝いて見えた。この中の一員に、自分もなりたい。そう考えながら面接に挑んだ。

面接は麻布にある店舗で行われた。いわゆる集団面接といやつで、こちらは6人ほど。面接を担当するのはその美容室のスタイリスト数名だ。中には雑誌でも引っ張りだこで、美容業界で知らない人はいないであろう有名美容師の姿もあり、一気に緊張感が増す。

とにかく緊張しやすい私は、正直このときはいっぱいいっぱいで、どんな質問が飛び交い、自分がどんな言葉を発したのかはほとんど覚えていない。

だけど一つだけ、この面接から10年以上経ったいまでも強く覚えている出来事がある。

それは自己PRのときだった。自己PRと共に、「入社したらどの店舗で働きたいか」を述べるようにとのこと。

私の一つ前に自己PRをした学生は、自分のことを伝えつつ、特技として「お手玉」を披露した。「なぜお手玉?」とは思ったものの、なぜかそのときの空気感とお手玉の相性が互いにピタリとはまり、思いのほかウケがよく、その場が笑いに包まれた。

私は焦った。自分の手前でこの空気になってしまっては、私の自己PRが薄くなってしまう。なんとかして私もウケなければならない。だが、これといった特技もギャグも私は持ってはいない。

少しでも印象に残る言葉を発さなければいけないと少ない時間で必死に考え、「入社したらどの店舗で働きたいか」という問いに対し、ウケるのではないかと思い、苦し紛れにこう答えた。



「銀座店ですね。そ、その…綺麗な女性が多かったので…へへっ…w」



もちろんスベっているし、キモい。というかこんなもの、なんのギャグにもなっていない。シンプルに気持ちが悪い。

だが、焦りに焦った私は「面接でこういうこと言っちゃう僕、面白くない?」といった気持ちにでもなっていたのだろう。面接官の引きつった顔が、いまでもはっきりと思い出せる。十数年経ちましたが、いかがお過ごしでしょうか。


私の一つ前の学生によるお手玉で温まった空気は、すぅっと音を立てて一気に冷え切った。本当に、「すぅっ」と音がした。

地獄だった。

これまで地獄という言葉からは、地の遥か奥底で灼熱のマグマを思わせる血溜まりに魑魅魍魎が住み着いているような絵を連想させられていたのだが、意外や意外、それは地の底などではなく、麻布にあったのだ。

それも灼熱ではなく、極寒だ。

こんな地獄はもう二度と味わいたくはない。絶対に嫌だ。絶対にこの扉を今後二度と開けてはいけない、と強く誓い、厳重に鍵をかけて閉じた。


当然、この面接は落ちた。


その後、たび重なる就職活動の末、なんとかありがたいことに渋谷の美容室に就職が決まった。何度も面接に落ち、もしかしたらこのまま就職できないのではないかと思っていたから、ホッとした。

数ヶ月経ち、私は美容専門学校を卒業して国家試験にも合格。美容師免許を取得し、ついに美容師のアシスタントとして社会に出ることとなった。

だがここで、再び大きな壁が立ち塞がった。「新人歓迎会」だ。

私はただでさえそういった飲み会が苦手なのだが、なんと、新卒生はその新人歓迎会で”一発芸”を披露しなければならないという。

最悪だ。一発芸などしたことはこれまでに一度もない。何をするのかも自分で考えなければいけないのだけど、まったく思い浮かばない。新卒生の同期は私を含めて3人いて、どうするか皆で相談したが、これといった解決策は見当たらなかった。

そしてついに当日。特にアイデアが浮かばないまま出勤することになる。渋谷の街をこんなにもソワソワとした気持ちで歩くことになるとは思わなかった。

映画館の前を通り、ふと立ち止まる。様々な新作映画の看板が目に入った。中には子供の頃から好きだったアニメもあり、「あぁ、いまはあのアニメの新作映画をやっているのだな。この試練を乗り越えたら、今度の休みにでも観に来るか…」などと考えながら、また職場へと歩みを進めた。

就職してからというもの、あまり余裕がなく、アニメに関する情報にも映画に関する情報にも、少し疎くなっていたように思う。

職場に着き、仕事が始まるも気が気でない。頭の中は営業後の新人歓迎会でいっぱいだった。自分が歓迎されるはずの会だが、正直まったく楽しみではない。

そしてついに営業が終わり、片付けを済ませて近くの居酒屋にスタッフ全員が移動する。恐怖の時間が近づいてくる。そしてついに、その瞬間が訪れた。

もう後がない。これしかないと腹をくくり、やったことはないがモノマネをすることに決めて、そのとき頭にふと浮かんだ、今朝映画館の前で見た、今度の休みに観に行こうと決めた、大好きだったあのキャラクターのセリフを、声を少し枯らすようにしながら叫んだ。




ぼくドラえもんです」と。




ほんの数ヶ月前、固く閉ざしたはずのあの忌々しい扉が、ぎぃ〜っときしむような音を立てて再び開かれた。

極寒だった麻布のそれよりもさらに温度は下がり、まさに氷原に一人ぽつんと立っているかのようだ。灼熱の血溜まりすらも氷りつき、穴を開ければワカサギ釣りでも楽しめたのではないだろうか。

麻布にあったはずの地獄が、いつの間にか事業規模を拡大して渋谷に移転していた。できることなら、そのまま北上してどこか赤羽のはずれ辺りでじっと息を潜めていてほしい。そして移転の際は、事前に連絡をください。


とにかくもう、スベったどころの話ではなかった。もはや初めて挑戦したそのモノマネは、モノマネにすらなっていなかった。

田舎から出てきて専門学校を卒業したばかりの二十歳の青年が渋谷の居酒屋で、それも数十人の美容師に囲まれた中でただ一人、自分の正体が未来から来たネコ型ロボットであると声高々に宣言しただけなのだ。恐怖でしかない。


それに私は、ドラえもんではない。


このときは私も地獄だったが、たぶん周りのみんなも地獄だっただろう。

そんなこんなでまた翌日から通常の業務になるわけだが、日を重ねるにつれて、さらに新たな壁が見えてきた。

まだ入社して日が浅いから、基本的できる仕事はタオルを片付けたり鏡を拭いたりといった雑用のみ。できる仕事を増やすには、技術チェックに合格する必要がある。

多くの美容室では、シャンプーやカラーリング、パーマ、ブローなどの技術チェック、まぁ試験のようなもので、そういった制度がある。

技術が一定のレベルに到達しているのかチェックを受け、合格すれば実際に営業でその仕事を任せてもらえるようになっていく。そして最終的にカットの試験を通過すれば、晴れてスタイリストデビューとなるわけだ。

アシスタントはそのために日頃から営業前や営業後に、トレーニングを重ねていく。

技術チェックの頻度は、美容室によって異なる。数週間に1回だったり、1ヶ月に1回だったり。

私が入社した美容室では、技術チェックは2週間に1度行われる。学生時代から実技試験は毎回追試になっているほど不器用だった私にとって、月に2回チャンスがあるのはありがたかった。

アシスタントはまず、シャンプーのチェックから受ける。あろうことか私はこの時点でつまずいてしまい、他の同期二人と比べて遅れをとってしまった。

他の二人は営業時間中にシャンプーができるのに、私だけができない。これが本当に悔しかったから、必死に毎日練習し、なんとか合格することができた。

シャンプーの次はカラーリングだ。同期の二人は私より先にシャンプーチェックに受かっているから、その分、早くからカラーリングの練習を進めていて、そして私よりもだいぶ早く合格した。

私も早くカラーリングのチェックに受からなければ、同期との差がどんどん開いていく。1度落ちれば2週間後にまた受け直すことになるし、そこでまた落ちれば、さらに2週間後に受け直さなければならない。

とにかく不器用な私は、すぐに受かるのだろうかと不安と焦りばかりが募っていくが、ある先輩が私にこんな励ましの言葉をかけてくれた。

「人と比べてもしょうがないし、自分のペースでやればいい。それにどんな不器用なアシスタントでも、3~4回受ければだいたい受かっている。ずっと受からないなんてことはないし、不器用でも練習すればきっと受かるから、心配しなくていい」と。

ありがたい言葉だ。ありがたい言葉ではあるのだけれど、その先輩には本当に感謝しているのだけれど、3〜4回ということはほぼ2ヶ月ということで、そんなに遅れをとるのはやはり避けたかった。

これ以上遅れることは許されない。私は必死に練習した。4回?いやいや。さすがに厳しい。というか、そんなに私をナメないでほしい。確かに私は不器用だが、これでも美容学校に2年通って卒業しているわけだし、その学校でカラーの授業だってあったのだ。そして入社してからこんなに練習を重ねたのだ。落ちるはずがない。4回も必要はない。3回?いや、2回?いや!1回だ。1回で充分だ。こちらにもプライドがある。侮るな。私の腕を見せつけてやる。私のプライドをかけて、全身全霊で臨んでみせる!絶対に受かる!受かって見せるのだぶはははははははははははは!!!!!!!





7回落ちた。




話が違う。どんなに不器用でも3〜4回目には受かるのではなかったのですか?先輩?7回落ちましたけど?

「どんなに不器用でも」ですよね?これはもう表現としては最上級で、これ以上はないのでは?私の不器用さはそれをも超越していたということでしょうか?

では私の不器用さはいったいどれだけのものなのでしょうか?

というか「どんなに不器用でも」受かるものが受からないということは、つまりそれは「どんなに不器用ですらない」ということで、逆に「器用」ということでよろしいでしょうか?逆に。

「私は器用」そういうことでよろしいですね?


まぁ結局、カラーのチェックは8回目にやっと受かった。それも、お情けで「もういいのでは?」ということで無理やり合格にしてもらえたらしい。なんかすみません…。

そんなアシスタント生活は、その後も決して順調ではなかった。日頃の営業中でも、他の同期と比べて圧倒的にミスが多く、そのぶん怒られることも多い。本当に私はポンコツだった。

ストレスがたまると、初めてのアルバイトを思い出してつい頭部を気にしてしまうが、幸い、あれ以降に円形脱毛ができることはなかった。少しずつだが、社会経験を積んで、ストレスへの耐性もできていたのかもしれない。地獄も2回行きましたし。

だけどその後、もっとも大きく立ちはだかったのはやはり「接客」だった。

接客があまりにも未熟で、スタイリストの中には他の同期二人にヘルプを頼むことはあっても、私にだけは任せてくれないという人もいた。

それが本当に悔しくて、本気で接客というものに力を入れた。お客様と積極的に話すようにし、自分はこんなに接客できるのだ、と、アピールした。

正直なところ、上司に認められるために接客をするというのはまったく本質的ではなく、その全てを褒められるものではないのだろう。会話をうっとうしく感じるお客様もいる。もちろんそこは配慮しながらであったが、それでも当時の私は必死だった。

強引に会話をしようとした結果、おかしな展開になったこともある。

「六本木に住んでいる」というお客様に「六本木って、人たくさんいますか?」という「お米って炊いてから食べますか?」レベルの質問をしてしまったこともある。

「たくさんいますよ」と、苦笑いを浮かべながら返してくれた。

プロ野球が大好きで何度も球場に足を運んでいるお客様に、TVゲームの「実況パワフルプロ野球」の話を延々として、ひたすら変な空気にし続けてしまったこともある。本当に、反省している。


だけど、少しずつ接客の頑張りは認められ、いままで私にだけ仕事を任せてくれなかったスタイリストも、徐々に任せてくれるようになってきた。

それが本当に嬉しくて、どんどん仕事が楽しくなっていった。

何より、自分のシャンプーや接客で、お客様が喜んでくれるということが嬉しかった。シャンプーで「気持ちよかったです。ありがとう」と言ってもらえた時の喜びは、何事にも代えがたいものだった。

本当にたくさんのことを経験させてもらえた会社だったが、好きな先輩がオーナーと喧嘩をして辞めさせられたり、スタッフ同士のいざこざが頻発したりしてきたことで、精神的に疲れてしまった私は入社から1年と数ヶ月して、そこを離れることになる。


それから、美容師を諦めたわけではなかったのだけれど、他に挑戦したい目標ができたこともあり、アルバイトを含めていろいろな仕事を経験することになった。

大手のカフェチェーン店や、お洒落なダイニング、小さな居酒屋、ショッピングモールでのアパレル店員など、美容から離れてはいたものの、またいつ美容の世界に戻るかもわからないから接客業は続けていた。

その結果、自分にとって大きな壁だった「接客」も、少しずつできるようになっていった。

ある飲食店で働いている日のことだ。老夫婦が来店し、私が接客を担当した。

特別なことをした覚えはまったくないのだが、その2人は私を気に入ってくれた。それ以降、何度も来店してくれて、孫のように接してくれて、あるときは「スタッフのみんなでどうぞ」と、たい焼きの差し入れを持ってきてくれることもあった。

東京に出てきたばかりのころは「いらっしゃいませ」すらまともに言えない小心者で、当時の自分ではまったく考えられないことだったから、その出来事は本当に嬉しかった。

仕事を通して誰かが喜んでくれるという経験が本当に私のなかでは大きなことで、仕事を通じて人に喜びを与えること、その喜ぶ姿を見て自らも喜びを得ることに幸せを見出すようになった。使い古された言葉かもしれないが、「他人は自分を映す鏡」という言葉の通り、人が喜んでいるのをみれば自分だって嬉しくなる。そして、それが働くうえでの私のやりがいであり、テーマであり、「軸」となった。

いまでこそ働き方が多様化したものの、それでも私が仕事を選ぶときは、それが誰かの喜びに繋がるかどうか、を基準にしている。


いまは美容師という仕事はしておらず、接客からも離れ、Webを介して完結させられる仕事が主になった。その結果、喜びの声や表情が直接見えづらくなったことに少し寂しさを感じてはいるけれど、それでも感謝や喜びの一言が添えられていると、それだけで充分にやりがいは感じられる。

今後、もしかしたらまた職種が変わることはあるのかもしれないけれど、この「軸」がブレることは、きっとない。

「お前は接客に向いていない」と言われたけれど、人一倍不器用なポンコツだったけれど、それでも私は働いていくうえで、自分なりの「軸」を見つけられた。

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