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負けん気とつながり。

久しぶりに勝ちたいと思った。この気持ちの高ぶりはいつ以来だろうか。大学でラクロスをやっている時も思えなかった本気の勝ちたいという気持ちだ。このやってやるという気持ちはいい兆しではないだろうか。


何に勝ちたいといえば、先日受けた面接の合格を勝ち取りたいということである。面接に勝ち負けという勝敗を持ち込んで考えることは正しくないのかもしれないが、こんなにも受かっていてほしいと思うことは最近なかった。小学校から高校までやっていた野球では勝敗よりも人の機嫌を窺いながら取り組んでいた気がする。だから、純粋に野球そのものを楽しめていなかったり、勝敗よりも人からの視線ばかり気にしたりしていたから自分の中の負けん気がどこかへいってしまっていた。大学のラクロスでも以下、同文である。


勝ちたい、受かりたいと思えていることで私の人生まだまだいけるという根拠のない自信が湧いてきた。死んだようには生きていないのだと、自分の生存確認をしているかのような謎の思考だけれども、この感覚は悪くない。むしろ、いいんじゃないか。


自分らしく生きることを考えた時、他人の意見や目気にしすぎるのはいけない。他人を気にしすぎずに生きた方がいいのは当たり前のことだけれど、他人の目を過剰に意識している私は、その過剰な思いが減ってきたような気がする。だって、みんなそれぞれに色々な経験をしているのだけれども、地球の中のちっぽけな存在の一つにすぎないのだから、誰かの言葉や目を過剰に意識するのはもったいないものと思えるようになった。自分の世界と他人の世界をいっしょくたにするからよくわからなくなる。他人の意見を鵜呑みにするのではなくて、自分なりにどう咀嚼するかだ。鵜呑みは鵜が獲物を食べるときは丸呑みにしますよ、という意味かな。わかんないから後で調べようかな。私は私、あなたはあなたという割り切り方をしなければなと思う。


前職に取り組んでいる内は、惰性というかただ日々を何となく生きていた。生きることへの思考放棄だった。それじゃいかんでしょ。まだまだ人生は長く果てしないよ。死という果てはあるのだけれど、その果てまでどう生きていくかはしっかり考えないと。まず、自分が楽しめるように考える。そして、自分の楽しいが誰かの楽しいと繋がり、その繋がりが広がっていく。そんなのいいよね。繋がりの輪という言葉が浮かんできたが、輪になると繋がりが途絶えるような気がしたので、私の場合は繋がりの直線でお願いします。臨機応変に繋がりの輪に輪の外の人を入れようとする輪ならいいけども。

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