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散歩の途中 5

飛び魚

 どこで飲んでも飯塚さんは最後に駅裏の出雲そばの店「稲佐」に立ち寄る。
 大将の出雲訛りを聞いて、ビールにあごの野焼きをつまんで、おぼつかない足どりでなんとかアパートにたどり着く。
 飯塚さんは、戸別詳細地図が売りの住宅地図出版の営業マンで、大きな地図を持って事業所を駆けめぐる。飛び込み営業である。
 何度も転職してこの仕事に就いたがあと半年で定年である。足腰もすっかり弱くなった。沿線の駅周辺にある支店や営業所に売り込みを図るが、不況時に二年に一度の改定版をその都度買い換える会社は少なくなった。もちろん、ネットの地図情報がいくらでも入手可能となり、アナログの嵩張る地図は用なしになりつつある。会社も売りにしていたアナログの個別詳細に見切りをつけはじめているらしい。
 「稲佐」に立ち寄ったのは、もう五年前になる。
 駅裏一帯に再開発ビルが建ち、宅配ピザ店や不動産業者のテナントが入ったため、早速営業をかけた。ひと息ついたところでビルの裏手で、「出雲そば」の文字とともに「稲佐」の暖簾が目に止まった。飯塚さんは中学を出るまで出雲半島の小さな町で育った。
 東京のこの町で出雲そばの店があるとは。懐かしくて暖簾をくぐり、早速、割子そばを注文した。
 大将も、出雲の出身だった。稲佐は出雲大社に続く浜の地名である。何度か通ううちに無口な大将は、ぽつりぽつりと生まれ育った出雲の岬の漁港の話をした。飯塚さんも、漁師だった祖父に連れられて、小学生の頃から船で沖に出た。
 出雲半島の海の風景が重なり合った。
 店に通い始めてもう五年になる。近頃はどこで飲んでも最後に立ち寄るのが稲佐になった。日付が変わり、酔客が仕上げに軽くそばを食って引き上げるそんな店だ。
 暖簾を仕舞い掛けるころに飯塚さんがおぼつかない足取りで顔をのぞかせる。大将も、「大丈夫ですか。そげん呑んで」と抱えるようにカウンターに座らせる。
 あごの野焼きに山葵醬油を出すと、「やっぱ最後はこれだわね」と飯塚さんはにっこりと笑って、大将に「まあ一杯いこ」とビールをすすめる。いつものことだ。
 あごの飛ぶのを見たことあるか。野焼きをつまみながら飯塚さんは自慢げに話す。あごは出雲では飛び魚のことだ。
 波を叩いて胸ビレをこげに広げてな、群れで水平線をかすめるように羽ばたいてなあ。百メートル、いや二百は行ったものだかのう。
 大将は、何度も聞かされる飯塚さんの羽を広げる仕草を、そげそげ、と頷きながら聞いている。
 大将も、飯塚さんと同じ日本海の海原を見ている。ふたりとも何十年もふるさとに帰っていない。広げた胸ビレはキラキラを波間に輝いて、キュルル、キュルルと音を立てて飛ぶのである。
 そりゃあ、二百どころじゃあない、遠く水平線に消えるまで飛んだがね。
 飯塚さんは沖を見つめるように手を広げる。大将もまたその光景をまぶたに浮かべる。
 キュルル、キュルル。そ、ありゃ鳴きながら飛ぶんだがね。
 うん、うん、と頷きながら飯塚さんのすすめてくれたビールをぐいと飲み干した。

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