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散歩の途中 15

チャンポン

 ヘルパーさんと呼ばれているがタカシには何の資格もない。いわゆる世の中でいわれているプータローだ。高校中退、就労意欲なし、向上心なし、なにもなし。
 免許はいちおう持っている。原付免許。ペーパー二回落ちてやっと受かった。唯一、自分を証明する紙といえばこれだけ。
 「タカシくん、水曜日は付きおうてよ。いつものコース」。リネン交換のワゴンを押してエレベーター待ってると、ヤマザキさんが廊下の向こうから手を振りながら叫んだ。
 「わかったァ」タカシはもう水曜か、とヤマザキさんに指で○印のサインを送った。
 若葉クリニックシルバーサポートセンターがタカシの職場。

 二年間プータローしているタカシに「家でぷらぷらしとるんなら」とこのクリニックに送り込まれた。いわゆる雑役係。タカシを子どもの時から可愛がる近所の河井のオバサンの紹介。
 病院が併設した老人介護施設の手伝い。介護福祉士の資格持っている人のサポート役だ。十人ほどいる結構リッチなじいさん、ばあさんの部屋の片づけやら、話し相手やら、車イスを押す役割を何となくしているうちに、もう半年たった。

 ヤマザキさんは、ここのシルバーのなかでは最古参。といってもまだ出来て二年だから、開所当時からいる何人かのうちの一人。家は若葉病院から二十分ほどのところだが、嫁やら孫やら相手するのが面倒だから、といってここが出来たらさっさと自ら入所して来た。
 大正生まれ。八十八歳。
 タカシが聞いた訳ではないがヤマザキさんが寄った店で「お若いですね」とお上手を言った客に「大正生まれ、88」とぴしゃりといったので覚えている。口も目も耳も達者なのだが足だけが弱っていて、タカシが毎週水曜日の外出のサポートを仰せつかる。
 ステーションの白板にもタカシのスケジュールの水曜のところには赤丸がしてあり、「ヤマザキ外出」と書き込まれている。
 ヤマザキさんは杖をついてしゃれたブルーのリュックを背負ってお出かけになる。水曜の朝十時半にはいつも病院ロビーに先に来ている。

 駅前方面の5番のバスに乗る。ヤマザキさんはいつものスタイル。調子の好いときは、バスの昇降口のバーを握って乗り込み、空いた席にちょこんと腰掛ける。神経痛がひどいのはどんよりとした決まって曇り空。雨が降るとお出かけは中止になるから、曇り空の時はすこぶる機嫌が悪い。そんな日は、四本に一本の割でしか来ない低床バスが来るのを待つ。足に鈍痛があるヤマザキさんは、あまり口をきかない。

今日は、曇りがちだが風が爽やかなので気分は上機嫌のようだ。真っ先に来たバスに「さ、行こうかね」と声を掛けて乗り込んだ。

タカシはただのお伴なのだが、リラクゼーションなのだから十分注意をするようにと釘をさされている。
 注意事項の書かれたメモを持たされている。①転んだりしないように注意②3時のティータイムまでには帰着③飲酒(アルコール類)一切禁止―の3点が。3番目のお酒の項が気に掛かるが、タカシは現場に遭遇したわけではない。

 主任ヘルパーさんによると「アルコールが入るとすっかり陽気になって大盤振る舞いしちゃうから…」とニッと笑ったことがある。

 いつものコースでバスを駅前で降りると、まち一番のショッピングモールに入る。しばらくぶらついて昼時の混雑前の五階フードコートへ。何軒か迷うように立ち止まるが決まって中華「昇龍」のチャンポンを注文する。タカシにはチャンポンとギョーザをすすめ、五個のうち二つほどつまむ。もちろんヤマザキさんのいつもおごりだ。

 一度だけ「ビールでも呑みましょうか」と向けられたが主任ヘルパーに「酒類はぜったいダメよ」と念を押されていたので、さらりと受け流した。その後は何も言わず、向けても来ない。

 タカシくんが聞いた話によると、前任の付き添い役のヘルパーさんは、シルバー人材から派遣されていたおじさんだったが、ヤマザキさんの誘いについ乗ってしまったらしい。そもそも嫌いな方ではなく、昼めし時の一杯に前のめりになった。ビール一本が二本となり、カップ酒となり、フードコートの一角で大いに盛り上がった。

 それから二度三度、週一回の外出日の帰りが規則の三時を大きく超えた。ヤマザキさんはすっかり気持ちよく赤ら顔だった。ヘルパーのおじさんも同様で、主任ヘルパーがさすがにたまりかね、おじさんの付き添いは辞めてもらった。

 ヤマザキさんは亡くなった亭主が大酒飲みで若いころから苦労に苦労を重ねた。普段はおとなしく真面目に仕事をこなしたがいったん酒が入り一定量を超えるとひょう変した。おとなしい父親が暴れ出し、コトリと眠り込んだ。外で呑むと家にたどり着くまでに酔いつぶれた。親子ともども振り回された。そんな酔っ払いも還暦前に肝硬変であっという間に旅立った。

 酒に苦しめられた思い出ばかりだが、ときおり一緒に日本酒を呑んだことがある。新潟の酒「八海山」を好んだ。「おいしいね」と言ったら「くせになるからやめとけ」と釘をさされた。

 夫の死後、酒を遠ざけて暮らしていたヤマザキさんだが、独りになるとその時のことを思い出した。独りの寂しさまぎらわそうと、たまたまスーパーで見つけた「八海山」小瓶に手が伸びた。しみじみ呑むと酔いが心地よかった。
 酒を毛嫌いしていたもののヤマザキさんは不安だった。本当は好き、なんじゃないかと。「くせになる」「やめとけ」という言葉はのめりこみそうな妻を懸念してのことだったような気がする。

 思い切って施設に入居したのも、このままでは寂しさを紛らわす酒に溺れてしまうとの不安からだった。

 週に一度の、昼間のフードコートで耳元でどこからか「一杯呑むか」のささやきが聞こえる。お相手はタカシ君である。タカシも心得ている。

 「いいですね。一本だけね」
 いつものチャンポン、ギョーザの定番メニューにビール一本を加えた。オールフリー。コップになみなみと注いだ。

 「カンパーイ」。ヤマザキさんはグイっと呑み、「やっぱ、うまいね」と満足げにニッと笑った。

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