見出し画像

散歩の途中 8

プールサイド

 午前中の市民プールは、顔なじみばかりである。インストラクターの悠木さんは、ガラス越しに朝の光がいっぱいに差し込む室内プールのまぶしいばかりの明るさが嫌いではない。
 朝10時から午後3時まで、25メートルプールは8コースのうち6コースをウオーキングに開放している。
 午後3時の幼児水泳教室までの時間は、中央の監視台の上から、コースを何度も往復する人たちを見詰めるのが悠木さんの仕事である。
 圧倒的に多いのは中高年の女性たち。2,3人の仲間でおしゃべりをしながら30分、1時間と歩き続ける。
長倉さんが初めてやって来たのは、まだ寒い節分のころだった。リハビリセンターの人の紹介でやってきた。65歳。軽い脳梗塞による麻痺と座骨神経痛で足が上がらなくなっていた。水中リハビリを勧められてプールに通い始めたのだ。
 堂々とした体躯で、プールサイドを歩く時は、ゆっくりとした足取りで半歩ずつ踏み出した。水に入る前に、軽くウオーミングアップを試みるのだが、それすら苦しそうで顔をしかめた。
 朝10時半にきまって長倉さんはあらわれる。悠木さんはいつも決まり悪そうに入ってくる長倉さんを目で追った。
 長倉さんがプールに入ると、先に来ていた人たちは軽く会釈する。長倉さんは無愛想に目だけで応えるが、会話をする気配はない。
 プールに入るとまずコースロープにつかまり軽い屈伸を続ける。水中では曲がらない足が少し動くようだ。それから2時間近く、ひたすら25メートルを往復し続けるのである。
 一歩ずつ一歩ずつ…。もう5カ月になる。一日も休まず、同じ時間にプールに入り、ただ黙々と歩き12時半に引きあげる。
 長倉さんは小さな鉄工所を営みながら地元の母校K工業高校の野球部監督だった。もう20年も前だが、K工業は2年続けて県大会決勝まで進み、小さな町は沸きに沸いた。甲子園にこそ進めなかったが、悪ガキを率いての長倉采配は注目された。
 10年監督を務め、教え子に後を託して野球から退いた。妻を病気で亡くし、鉄工所をたたんでからはすっかり元気が失せた。一人暮らしの長倉さんは行きつけの居酒屋を出たところで倒れた。
 「カントク。まだ老いぼれる年じゃ、ないっしょう。また野球やろうや」
 話を聞きつけた20年前のナインが病室に次々に顔を出した。
 元来無口な男はますますモノ言わぬ男になった。病院で顔を合わせたナインが夏の県予選決勝の思い出を語り合った。長倉さんはベッドで、9回の攻防の一球一球をつぶさに思い描くことが出来た。
 ナインはそれぞれ、この町の造船所や製鉄所、20キロ離れた県庁所在地で会社勤めしていた。「カントク。20年ぶりにまた鬼のノックやりましょうや」。
 プールに通うという長倉さんをナインが励ました。「少しずつ慣れりゃあええ。そのうち体がついてくる」と繰り返した。日が暮れてもノックを浴びせ続けた長倉さんが選手たちに繰り返した言葉だった。
 20年前の夏の県大会予選決勝戦があった7月末の日曜日にナインが母校のグラウンドに集まることになった。
 悠木さんは毎日、監視台から見詰める長倉さんの動きが一段と軽やかになったのを感じる。プールサイドで歩くのもままならなかった頃を思うと、背筋を伸ばして水中歩行する男の姿が朝の光にさっそうと輝いて見えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?