見出し画像

「人は女に生まれるのではない、女になるのだ。」と言ったのはポーヴォワールだったか。


4/6-14の8日間、吉祥寺シアターで「ひとつの部屋のいくつかの生活」という演劇企画が開かれた。ステージに組まれた(和風の居間のような)同じセットの上で、6つのタイプのちがう劇団が3つのチームに別れ、入れ替わりで演劇作品を上演する、という企画だった。

その中で、mizhenの『小町花伝』は明らかに異質な作品だった。

その「異質さ」は観客の感想からも分かる。「やたら揺さぶられた」「ぞっとするような美しい瞬間」という絶賛や何度もリピートした方もいる一方で、「わからなかった」さらには、「観ないで帰ってもいいと思う」という声すらあった。


4つの「短編」

60分の演劇なのだが、藤原佳奈はそれを1つのストーリーではなく、

夢路
小町ちゃん
還暦こまちーず
花の色は

という4つの短編として描いた。それぞれ(ネタバレにならない程度でごく簡単に解説する)

夢路

「難解」という感想は特に、この「夢路」という1つ目の短編への反応だろう。「その女はいつ死にましたか」という不穏な台詞からはじまり、観客はじっとりとした空間の中に投げ込まれる。その、どろりとした粘液の中に「暴力」のフラッシュが時折現れるが、それさえも悪夢の中の暴力のように鈍く嫌な汗がにじむ。

小町ちゃん

女性の思春期というものは、男性が「得体が知れない」とおもう最初のものではないか。女子だけの体育館。身体の形が変わり月経の匂いをまとい始める。「小町ちゃん」にあこがれる「私」が、憧憬と初恋の終わりのような失望を経て少女から「女」になる。それは決別のようでもあるが、同じ生き物になる過程でもある。

還暦こまち〜ず

還暦を迎えた3人のおばちゃん。仲良しトリオで温泉旅にでも来たのだろうか。カラオケと噂話、おばちゃんのやり取りがコントのように痛快。「もう還暦」といいながらの、それぞれの恋の話。「女である」ことへの諦めと欲求をごまかすように慰め合うように笑いながら、「女ざかり、花ざかり」と声も高らかに花が舞う。

花の色は

桜の散る、夜の公園。腰の曲がったホームレスの老婆が一人。「L'amourは男性名詞、でもLes amourは女性名詞」とフランス語を交えて饒舌に語り続ける。齢99歳。呆けるどころかますます明晰になっていくようだ。明晰に朽ちる、その残酷。「品性」と言いつつ恵んでもらったアメリカンドッグにかぶりつき、失われた観たこともない男の愛情に狂う。その執着の醜くも耽美的な美しさ。

通常、1つの演劇は1つのストーリーから成ることが多いだろう。しかし今回の作品は、1つのストーリーの4つの章ではなく4つの短編である。それぞれ異なる主題をもち、異なる読後感をもつ。各話は順に積み重なりながら展開するのだが、それぞれは独立で、終話の後のスキマがある。1話ごとの読後感を咀嚼する間もなくすぐ始まる次の話。これをどうつなぎながら観るのかは観客次第であり、賛否の原因なのかもしれない。


「小町」をめぐるいくつかの愛

4つの話は小町の言うLes amour、複数形の女性名詞の愛の話のようだ。「小町」を巡ってそれぞれ関係性の異なる感情(愛)が描かれる。罪悪感、憧憬、慰め、執着。そしてそれだけでなく(ここがとてもmizhenらしいし、女性らしいと思うのだが)これらの感情は常に、その反対の感情とのアンビバレンスに震えている。

罪悪感と倒錯的な欲求の同居、憧憬とそこに潜む嫌悪、慰めあいながらも捨てきれない自らが選ばれることへの欲望、生への執着と自嘲

1話ごとに異なる感情や関係が描かれ、かつ1話の中ですら、一つではなく複数の感情を揺れ動いたり同時に現れたりする。「小町花伝」は、いわば多声的な感情の物語になっている。(このようなアンビバレントな多声性は、身体の変化が少なく、思考的にも単声的な男性には少し体感しづらいものかもしれない。分からない、という声が男性に多かったのもそのせいだろう)


現代能楽?

また、上演を見た人からの感想で多かったのが、「能」のようだった、という声だ。演劇家自身が明言している通り、本作は「卒塔婆小町」を底本にしたものだし、「小町」などという名前からも連想があるだろう。

「間」や身体の動き(あるいは動きのない動き)、抽象的な空間の使い方、憑依、うた、面ーーーなるほど要素分解してみても確かに能との共通点は多い。

ただ、このような能との共通点は、テクニカルに取り入れられたものであるより、より深いものだろう。おそらく作者本人も作った時点ではこのような「能っぽさ」に意識的ではなかったのではないか。


両者に共通するものとして、そこに感じるのは「立ち現れ」の感覚である。

たとえば言語は伝達の媒体であるが、説得や論理の言語と詩の言語は異なる。面白い映画でも一度みればいいというものもあるが、こういう映画の場合、観客は作り手の描いたストーリーを伝達され受け取る、もしくは、あえて強い言葉を使えば「消費する」。そこにはドラマの「伝達」がある。しかし詩が一意の意味の伝達ではないように、能において劇は一方向的な伝達ではなく、観るものやその空間をも媒体として、その瞬間にたち上がるのだ。「たち現れ」があり、「たち会う」という感覚がある。

先ほど述べた「間」や身体の動き(あるいは動きのない動き)、抽象的な空間の使い方、憑依、うた、面などは、そのような「たち現れ」のための仕掛けと言えるかもしれない。

「小町花伝」が能に似ているとすれば、そのようなモードであろう。(そしてそれは「ライブ性」にも繋がるからリピートが多かったのも頷ける)


小町の「生」に立ち会う

「小町花伝」はわかりやすくない。それは複数の短編の間のスキマやズレのせいもあるし、感情が多声的だからというのもあるだろう。能のように余白が多く、解釈や焦点が定まりづらい。

ただ、こういうわかりづらさこそが、「小町」という一人の女性の「生」を総体として体験させてくれた気がする。「小町」の感情も身体も、1話ごと、齢ごとにうつろう。生というものは、(特に初潮も閉経も月経もない男性にとっては)「うつろう女の生」というものは決して分かり易いものではないのだ。

「花」のように移ろいながら、しかし明晰におわりも知りながら、求められることに執着しつつ悟りの笑みとともに舞う、そういう「女」が生きた。「人は女に生まれるのではない」。けれど「女に死ぬ」。そういう小町の生に立ち会った気がした。


「あはれなり わが身の果てや あさみどり つひには野べの 霞と思へば」
「我死なば 焼くな埋ずむな 野にさらせ 痩せたる犬の腹を肥やせよ」


参考:作品の感想まとめはこちら↓


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?