№5021:「普遍性」というレンズをせよ!
こんにちは。(株)個のサポーターズクラブの遠藤です。
※過去分はこちらにあります。
さて、先般読んだ本にとっても良い視点が記されていました。
それは「私たちが装着すべきレンズ」についてです。
「レンズ」がわかりづらければ「メガネ」でもOKです。
世間一般では「常識を疑え」とよく言われます。
世の中の「当たり前」をそのまま受け入れてはいけないと。
これはこれで正しいと思います。
例えば、新コロ報道。
「嘘」ではありませんが「事実ではないこと」を報道しています。
しかし、多くの人は「装着すべきレンズ」をしていないので「事実」を見ることができません。
私たちの仕事関連では「健康情報」も同じです。
数年前は「フェイクサイト」が問題視されましたが、状況はまったく変わっていません。
トレーナー、インストラクターの多くが「嘘ではないけど事実でないこと」を得意げに吹聴しています。
では「装着すべきレンズ」とは何か?
その本には「普遍性のなさにこそ疑うべき基準がある」と明記されていました。
つまり「装着すべきレンズ」は「普遍性というレンズ」です。
これは私が言ってきたこととまったく同じ視点です。
私は「自分が主張していることを国民全員が行なったらどうなるかを考えてモノを言え!」と強く言ってきました。
例えば「白米でなく玄米を食べろ」という専門家がいます。
それだけならまだ許容できますが、そういう偏狭な視点の専門家は決まって「あれを食べるな、これを食べろ」と主張します。
そんなことを国民全員がすれば「社会」はもちろんのこと、「各自の人生」は最高潮につまらなくなります。
これこそが「普遍性のなさ」ということです。
そうならぬために私たちは「普遍性というレンズ」を装着する必要があるのです。
この「普遍性」という概念ですが、今から35年くらい前、私が大学を卒業した頃に「重要だ」と認識したことです。
当時からファンだった長渕剛さんが「歌には普遍性が必要である」とラジオで言ったのです。
私はファンという立場を超えて強く共感しました。
何故なら「売れないロッカー」とかの歌には普遍性がないからです。
自分の想いとか自分の信じる価値観を叫んでいるだけで、そこにはまったく普遍性がありません。
自分たちだけの小さな世界の中で、自分たちだけで共感し合っておしまいです。
この行く末は「孤立」です。
私が代表理事を務めるスモールジム協会に多くの同志が集まってくれるのは、そこに「普遍性」があるからだと思います。
私はこれからも「普遍性というレンズ」を絶対に外さないようにしていくつもりです。
そこには35年来の信念があります!
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