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「ワイン界のバンクシー」を目指して

こんにちは、藤巻一臣(ふじまき・かずおみ)と申します。

わたしは21歳で接客業の世界に飛び込み、1999年よりレストラン業界でサービス担当、ソムリエとして20年以上従事してきました。
また、マネジャーとして複数のグループ店舗を立ち上げ、統括職を務めてまいりました。

その後、2014年にキャリアチェンジを図ります。
かねてから関心のあったぶどうの栽培農家、兼、ワインの醸造家へと転身しました。
山形県のぶどうの発祥地である南陽市に単身移住し、休眠中の耕作放棄地を活用してぶどうの栽培を開始。

がむしゃらに走り続けた3年後、念願のワイナリーを設立しました。
そこでは、人為的な関与を極力行わずに、ぶどうが持つ本来の力を最大限に活かしたワイン造りを実践。
いわゆる「ナチュラルワイン」の魅力を、山形から世界に発信し続けてきました。

畑も、ワイナリーも持たないワインブランド

このたび、独立して「KAZU WINE」というワインブランドを立ち上げました。

以前の環境とは異なり、KAZU WINEでは自社の畑やワイナリーを所有しません。
では、どうやってワインを造るのでしょうか?

わたしは本年、ようやく日常が戻りつつあるヨーロッパを巡ってきました。
そこで、友人のワインメイカーの施設やシェアワイナリーを間借りして、さまざまな種類のワインを仕込んできました。

もちろん、扱うのはオーガニックや無農薬で栽培されたぶどうのみ。
数年ぶりに会う友人たちや、素晴らしいぶどう生産者とのワインメイキングは、かけがえのない経験になりました。

そのコラボレーションから産まれたナチュラルワインを、現地から日本へ逆輸入。
国内のワインインポーターを通じて、2023年よりリリースしてまいります。

ぶどうの栽培は行わず、自社のワイナリーも持たない。
わたしが世界のあちこちで仕込んだワインを、日本に輸入して売っていくビジネスモデルです。

国をまたいで、ワイン造りを行う理由

国をまたいで活動するワインメイカーなんて、まず聞いたことがないと思います。
なぜ、こんなスタイルで仕事を始めたのでしょうか?
それには、前職での経験を語らねばなりません。

ぶどう農家も兼ねるワインメイカーの日常は、年間の80%ぐらいが地味な野良仕事に費やされます。
春になったら苗を植え、芽吹いた枝を伸ばし、花や葉を切り落としながら、約半年をかけてぶどうを収穫していきます。
そしてそのぶどうを、タンクの中でゆっくりとワインに育て、瓶詰めして完成。
その頃には、翌年の収穫に向けての準備が始まり、またすぐに次の春を迎えます。

このサイクルを続けていくうちに、ある疑問が浮かんできました。
「いま50代の自分は、あと、何回ワインを造れるのだろう?」
収穫したぶどうをワインに変える醸造作業は、1年のうちの2カ月間ほど。
同じ場所にとどまっていれば、当然、年に1回しか醸造できません。

しかし、ぶどうの収穫期がかぶらない国々でワインを造れたら、理論上は通年の醸造が可能になります。
生来が多動症的な性格のわたしには、このやり方がドンピシャに思えました。

「畑を持ってないのに、醸造家を名乗れるの?」
「自分の土地をワインで表現するのが、造り手の仕事でしょ?」
そんなご意見も、あると思います。

誤解がないように言っておきますが、ぶどうの栽培は本当に奥が深い世界で、わたしもやりがいを感じて取り組んできました。
特に、農薬などを極力使用せずにぶどうを育てることは、途方もない手間と根気強さが求められます。
そんな難しいチャレンジに、日々取り組んでいるワインメイカーたちには、尊敬の念しかありません。

でも、わたしの経験から1つだけ断言できることがあります。

世の中には、とても自分では造れないような、圧倒的にクオリティの高いぶどうを生産している専業の農家さんが、ゴマンといるのです。
ワイン造りにおいて最も大切なのは、ぶどうの質であることは言うまでもありません。

であれば、その農家さんたちからぶどうを譲ってもらって、ワインを造ってもいいんじゃないでしょうか?
そんな結論に、たどり着きました。

ナチュラルワインの最大の魅力とは?

では、最高品質のぶどうを使い、どんなワインを造ろうとしているのか。

「その土地にリスペクトを払い、品種の個性を最大限に活かした表現をしたい」
こんなことを真顔で言ってみたいですが、しょせんわたしは、出稼ぎでワインを造りに来たよそ者です。
滅多なことは、口が裂けても言えません。

それでも、自分が造りたいワインのイメージは、明確に持っています。

わたしはこれまで、ソムリエとして数万人を超えるお客様にワインを注いできました。
そのときの経験から、お客様が口に含んだ瞬間に目玉をひんむいたり、言葉を失って虚空を見つめるような、最上級のリアクションを示すワインに、どんな共通項があるのかを理解しているつもりです。

その1つは、亜硫酸塩と呼ばれる酸化防止剤を使用していないか、ごく少量しか添加していないワインであること。
そして2つ目は、飲んだときに舌の上でおいしいのはもちろん、喉を通ったときに、粘膜を通じてじんわりと極上のエキスがしみ込んでいく感覚があること。

この「のどごし」を一度味わってしまうと、ナチュラルな造り方ではない、人為的に過度な干渉を行ったワインは、まるで異物のように感じてしまいます。
ゆえに、どこで造るワインであれ、液体が喉を通ったときの繊細な感覚を、わたしはいちばん大事にしています。

では、亜硫酸塩を使わなければ、誰でも極上のワインを造れるのか?といえば、単純な話ではありません。

これがワインメイキングの難しいところですが、これまでの経験で、理想ののどごしに仕上がったワインは、数えるほどしかありません。
自分自身も、醸造家としての研鑽をさらに積み、大谷翔平並みに打率を上げていくしか方法はないのです。

世界一のマーケットへの挑戦

わたしが愛し、レストランのお客様に心を込めて注ぎ、そして造るようになったワインは、その時代ごとに「ビオワイン」「自然派ワイン」「ヴァン・ナチュール」などと呼び名を変えながら、いまも世界市場で著しい成長を続けています。

そんな世界中のナチュラルワインメイカーたちは、口を揃えてこう言います。
「日本のマーケットは世界一!流通量やラインナップの充実度、飲み手のレベルもダントツだね」

その世界一のナチュラルワインマーケットに向けて、わたしはKAZU WINEを今後リリースしてまいります。

国をまたいでワインを造り、神出鬼没に活動を行う。
その正体は不明で、謎のベールに包まれている。
そして、世界中の人々に激うまワインをぶちかます。

そんな「ワイン界のバンクシー」を、本気で目指したいと思っています。

今後の活動に、ご注目くださいませ。


過去に、わたしと面識のあった皆様へ──

ここまで、長い文章を読んでいただき、誠に感謝を申し上げます。
ここから先は、過去に面識があった皆様へ、お伝えしたいことを綴ります。

わたしは2019年の秋、急な事情で前職を辞することになりました。
その際は、あえて退職のご報告を行わなかったため、さまざまな憶測を呼んでしまいました。

まずはこの場を借りて、前職の会社には一切の非や責任がないことを、お伝えしておきます。

退職後はSNSアカウントを削除し、すべての連絡先を絶ったことで、友人、諸先輩方、お取引していただいた会社様、そしてご支援いただいたお客様に、大変なご心配とご迷惑をおかけしました。
心からの、お詫びを申し上げます。

あのときから、3年が経ちました。
いまさらと思われるのは承知の上ですが、退職に至った経緯と理由をご説明します。

もともと、心臓に遺伝的な疾患を抱えていたわたしは、2018年の初夏の暑い日、ひとり畑で倒れました。
病院搬送時の心拍数は300を超え、電気ショックでなんとか一命を取り留めました。
手術によって症状はいったん改善しましたが、もし発作が再発すれば、余命は数えるほどになると、医師に告げられました。

しかしながら、業務は絶好調。
ワインもご好評をいただき、全国はもちろん、世界各国を飛び回るような忙しさで働き詰めていました。

そんな矢先、特別養護老人ホームに入所していた母の具合が悪くなりました。
「お母さんは相当に弱っています。積極的治療を行うかどうかを、ご家族で決めてください」
みんなで話し合った結果、延命措置は行わない決断をしました。

この日を境に、いつなにが起こるかもわからないカウントダウンが、始まったように感じました。

多忙な業務の合間を縫って、山形から生まれ故郷の神奈川まで、何度も見舞いに行きました。
生まれつき、体力には絶大な自信があったので激務には慣れっこでした。
それでも、またいつ心臓の発作が起こるともわからない不安、いままで母の面倒を身内に任せっきりだったことへの悔恨、そして母への心配などが次々と、心に重くのしかかっていきました。

わたしは、周囲に対して自分の不調を隠し、あえて気丈に振る舞うように努めました。
しかし、そんな無理をしても、続くわけがありません。
2019年の秋、ついに心と身体がパンクしてしまいました。

いまを振り返れば、会社側に自分の状況を伝えて、休職すればよかったのかもしれません。
ただ、当時のわたしは中途半端なことを絶対に許さない人間でした。
部下に対して弱みを見せるくらいなら、死んだほうがマシと思っていたほどです。

わたしが動けなくなったことで業務は混乱を極め、収拾のつかない事態に陥りました。
ことの責任の重さに耐え切れなくなったわたしは、誰にも告げずに、その場から去ることを選びました。

そして退職からほどなくして、母は亡くなりました。
しばらくはなにもできず、なにも手につかない日々が過ぎていきました。

しかし図らずも、常に働きづめだったわたしは、娘が物心ついてから初めて、家族全員での時間をゆったりと過ごすことができ、心身ともに癒やされていきました。懸案だった心臓の調子も、その後の2度目の手術によって、完治のお墨付きをいただきました。

それでも、仕事に関しては前職で多方面に迷惑をかけてしまった以上、以前と同じ業界には関われないと考えていました。

そんな折、わたしを弟のようにかわいがってくれていた方から、ある福岡の飲食店をご紹介いただき、博多で1年間、働くことになりました。
素性の知れないわたしを温かく迎え入れてくださり、一緒に働いてくれたスタッフの皆様、そしてオーナー様には、心より感謝しています。

そこで、転機が訪れました。

博多では、勤務先のオーナー様に、いろんなお店に連れて行ってもらいました。
その先々で、スタッフの方やその場に居合わせたお客様から、こう言われたのです。

「藤巻さん、またおいしいワインを造ってくださいよ!」
「2016年の最初のヴィンテージ、まだ寝かしてあるんです!」
などなど、以前からの知り合いはもとより、初めて会う方にまで声をかけられました。

そのときに、強く確信しました。
自分のアイデンティティーは、ワインなんだと。

画家や音楽家などのアーティストにとって、作品は自分の存在証明です。
自分の子供だと言う人もいるかもしれません。
それと同様に、ワインの造り手にとって、ワインとは「自分」そのもの。
たとえ売り物であっても「商品」ではないのです。

つまり、わたしが本来の自分を取り戻すためには、再びワインと向き合うしか方法がない。
そう、悟りました。

ワイン造りは大変な肉体労働だし、極限まで神経をすり減らされます。
毎日何トンものぶどうを相手に膨大な作業を重ね、睡眠不足でぶっ倒れそうになることもしばしばです。

それでもいまだに、わたしのワインがInstagramにアップされるのを、見かけることがあります。

これまでに造ってきたワインは、10万本近く。
その本数分、世界中の人々に楽しんでもらってきました。
こんなに幸せな仕事が、ほかにあるのだろうか?

まことに勝手ではありますが、もう1度だけ、全力で突っ走りたいと思います。

そんなわたしを、心の片隅にでも気に留めていただけたなら、これ以上の喜びはありません。

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