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コーチのかずです!

こんにちは‼︎
静岡県に住んでる、仲秋和矛(なかあきかずむ)と申します。

現在は二十歳です。

副業で、コーチングをしているのですが、
コーチとして活動するには、信頼がなにより大切です。

信頼していただくため、どんな人か知ってもらう目的で
自己紹介をしたいと思います。
(聞きたくないとか言わない☹️)

現在の仕事

今は、飲食店の正社員で働いています。
ちなみにラーメン屋です!(結構人気ですよ😋)

実は転職を2回しているのですが、

造船所🛳

工事ダイバー🤿

飲食店🍜

って感じです。笑
履歴書だけみたら、「おいおい大丈夫か?」てなると思います笑

ここで、経緯についてお話ししていきます!

大人の顔

今より元気モリモリだった野球少年は、
(小中高と、野球部です⚾︎)

将来の仕事について考えました。
そうするも、外の人々の顔を見るようになりました。

その時私が感じたのは、
「世の中に出会う大人達は、
あまりいい顔していない…」


幸せそうにみえなかったのです。
家にいるとき、娯楽しているとき、居酒屋街を歩いてるときなんかは、いい顔してるひとがほとんどでした。

けれど、働いている人の顔は、けして輝いていませんでした。

「おいおい、俺もこうなんのか?」

自分の将来への意気込み

野球部だった私は、小学校の頃はそこそこ地元で輝けた方でした。

選抜チームにも、1度だけですが選ばれたりする程でした。


その勢いで、中学は地元を離れて超名門チームへ。
自分達の代は全国3位でした。


けれど…

中学の2年生頃に、ボールが投げられないイップスにかかります。
(心の病みたいなものです。)

野球人としては致命傷の致命傷です。
ボールが投げられないのですから。


ものすごい挫折でした。
地元を離れた、中学生の私の周りには、
深く親しい友達はいません。

それと、強豪校の先輩はとてもとても怖いです。
(着替えの時に、裸で追いかけ回されたりも…)
(もうほぼヤ○キーですよほんと笑)


シンプルに悔しかったです。
めちゃくちゃ野球が好きだったのに、結果がでない。

負けず嫌いだった私は、
朝練習がなかった当時は、チームの1人を説得し、朝4時に起き自主練習にはげみます。

練習後も、絶対誰かを捕まえ、23時過ぎくらいまで毎日自主練に励みました。


それでも、ぜんっっっぜん結果がでません。

練習を人一倍することで、自分を慰めていたのです。


その心の病は、高校まで治りませんでした。

自主練の勢いは止まることなく、1人のときも、バッティングマシーンを準備して練習しました。

素振りも、絶対ぜったい怠りませんでした。


そんな中、就職先を考える瞬間があり、
好きだった野球が、ここまで悔しく終わり、

人生も負けたくないと強く思います。

人生の起きてる時間の、大半の時間は働く。
一回しかない人生を、幸せに、最高に過ごすには、
仕事選びが非常に大事だと気づくのです。


私の夢

高校は、工業高校でした。
機械科に入った私は、

溶接と出会います。

「俺めっちゃ得意じゃん」
「え、めちゃくちゃ楽しい」


自分の輝けるものを見つけたのです。

そこで、将来は自分の好きな"溶接"に時間をかけよう!

好きなものに没頭することで、楽しくお金も稼げ
知恵もでて、出世も早いだろうと考えたのです。

高校生の間は、学校にある工場を使えるので、
野球部引退後は、バイトと、溶接の練習に明け暮れました。


自分の意識が、とても溶接に向き、
どんな仕事があるのか、調べるようになりました。

そこで1番輝いて見えたのが、
「水中溶接工」って言う仕事です。

なんと、海の中で溶接をするのです。

「なんじゃこりゃ」「かっこ良すぎんかおい」

その日から、私の夢は「水中溶接工」になりました。

と言うよりか、
夢に向かっていく、自分の人生につよい憧れを持ちました。

競争

水中溶接というものに出会えた私は、なるためにはどうしたらいいのか調べまくります。

溶接に詳しい先生。
溶接に関する書籍。
溶接の会社、企業について。


簡単にはなれない、経験と技術が必要と知ります。


そこで、初めに入社するところを造船所にし、
海には潜らず、溶接に特化した訓練をしよう!と決めます。


そこからは、
「造船所に入るため」
「入ってから、どうするか」

に、毎日の思考を向けました。

面接の練習、準備はとても簡単でした。
自分の熱意が凄かったからです。


次に、その会社に、自分の高校から入社している先輩はいないか調べ、
その人と、繋がれる努力をします。

なんとかして、連絡先を手に入れ、少しでも入社できるようにコネと、情報を手に入れました。


入社してからは、
必要な溶接が触れる部署ではいけないため、
希望を通す必要がある、と聞きます。

希望がとおるには、
新入社員研修の成績が必要だと、先輩に言われ、
そこまでビジョンがなんとなく見えました。

入社試験は、事前準備が役に立ったのか、余裕で受かります。


さあ次の目標は、新入社員研修です。
ここまでの道のりは、ほんっとうに楽しくて仕方ありません。

あんな悔しい野球の時間とは、
比べ物にならないくらいイキイキと、力強かったです。


私の代の新入社員は、70人くらいでした。
その中から、上位3位くらいを目指さないといけません。

内容は、
「研修態度」
「研修プログラムの成績」
「溶接の腕」
「溶断の腕」
です。


研修プログラムに関しては、長くなるので省きます。

溶接の訓練を、造船所内にある訓練センターにて、
3か月みっちり、1日じゅうおこないます。

みんな、工業高校出身なので、溶接のエリートばかりでした。


その日の「目的」と、「目標」を明確にし、
自分との戦いが始まりました。

負けるわけにはいかない。

ここで負けて、野球のときみたいに悔しい日々は絶対に嫌だ。

あんな暗い顔して働く大人にはなりたくない。

その一心で、自分の腕を磨きました。


そして、最終テストを迎えます。
70人以上の、溶接の作品を、職人さんにみてもらい、評価してもらうのです。

そこで、順位付けされ、そのまま成績になります。
大ホールで、表彰もされます。
(賞金もありました💰)


そこで結果は2位でした。
(表彰状はどっかへ消えました。。。)

1位は、惜しくも逃したのですが、希望を通すには十分でした。


研修が終わり、希望の部署を聞かれ、
配属がやっと決まります。

社会人の洗礼

会社にはすでに、自分の目標への熱意で、
自分の名前が広まっていたらしく、

「うちの部署に欲しい」
と、3つの部署に声をかけられました。


けれど、すべて蹴り
希望の部署へ行きました。

そこは、会社で1番残業も多く、
署長の部下への扱いがとてもひどく

会社先輩のひとが口をそろって「あそこだけは嫌だ」
と言うほど印象が悪いところでした。

当時のわたしには、そんなのまっったく関係なく、
どうでもよく、なにも気になりませんでした。

自分が求める溶接は、
そこでしかできる可能性がなく、
夢に近づけるなら、きついのも余裕でした。


担当の上司にも、自分のやりたい溶接は
「たくさんやらせられる」
と言われ、期待で胸がいっぱいでした。


ただし、"大企業で働く"という洗礼をうけます。

まっったく、溶接をさわらせてもらえなかったのです。

というより、そこの部署の先輩の仕事をみても、
誰もやってません。
やったとしても、業務全体の0.5%くらいでした。

それは、仮付けと言って、
鉄鉱物を取り付けるときに、ズレないようにするためにチョビっとだけする溶接のこと。


「うっそだろ…」


結構ショックでした。笑

わりと悩みました。


かなり強烈な人がおおい部署で、
その中の先輩になんか、
当時の自分は相談ができませんでした。

みな大量の業務と、残業に追われ、ストレスと疲労で
夢とかを語ってられる環境では1ミリもありませんでした。

大きな決断

私は、さらに自分と向き合いました。
今の働く"目的"はなんだ?

自分の夢を叶えるためだよな?

ここにいては、ちっとも近づけない。

紛れもない事実を突き出され、考えました。


辞めよう。

初めっから、潜れて、溶接もできて、水中溶接もできる会社に入っちまおう。

まだまだ、やりたいことはある。
若い時の大切な時間は、
耐えるためだけに長くはかけられない。

そこで、そこそこ大きい会社を辞め
潜水業務が盛んな、九州へ行くことを決めました。

福岡のダイバー会社です。


すぐに電話をし、事情をそのまま説明し、
熱意を淡々とたんたんと伝え。

面接をしてもらえることになりました。

18歳の私は
飛行機のチケットを急いで買い、履歴書を書き、
スーツを買いました。
(造船所の入社試験は、会社の制服でよかったから)


2回目の挑戦

初めて降り立った福岡
そこで行われた面接は、"若さ"と"熱意"だけで勝負して挑みました。


自分には夢がある。
それに近づくために、造船所に行き、
できる限りの準備と選択をした。
進んだ先は、こうなってしまったが、
若い自分にはまだまだチャンスがある。


と、淡々と話した。
今よりコミュニケーションの力がなかった18歳にはそれしかなす術がなかった。

というより、深く準備する必要はなかったのです。
できることをやるしかないからです。


面接担当の部長に熱意が伝わり、
その日に合格と告げられました。


車を持っていた私は、
車に一人暮らしの荷物を詰め込み、
13時間かけて運転して、福岡へ引っ越した。

一回しかない人生での目的を達成するためには、
手段を選ばなかった。


もう、本当に知っている人は近くにはいない。

土地も知らない。

全てが一からだった。


けど、楽しくて仕方なかった。

生きている気がして。


そして、ダイバーとして活動するための準備が始まる。

工事ダイバーは、港を造ったり、岸壁を補修したり、
海底調査をしたりする。


なので、仕事の請負先は、国や市の、役所になる。

だから、潜るにはまず国家資格が必要だった。


次のしれんは、試験獲得だ。

その日から、仕事が終わったら試験勉強、
というシンプルな1日が始まる。

自分のその時の業務は、
ダイバーをサポートする、陸上員として働いた。

仕事を覚えつつ、試験の勉強をする。


なんとかして、最短で手に入れたいから、
勉強の効率UPの本なんかも読んだ。

野球少年は、初めてあんな勉強した気がする😂


これまた楽しかった。
もちろん、休みの日は友達とも会えないし、
遊びにでかけることも、まあもない。

けど、満たされていた。

毎日、自分の未来と繋がっているようなあの感覚が。


非常に多くのことを学んだ。

物事の考え方。
社会人1年目のあり方と、
自分の夢との共存の仕方。
大人とのコミュニケーション
自分という人を、目の前の人に表現する力


結果は、1か月ちょっとで国家資格に合格する。

国家資格の中では、比較的難易度の低いものではあるが、達成感と自信を自分には与えてくれた。



仕事にも、全力で励み、
自分を認めてもらうために精を尽くした。

もちろん資格をとってゴールではない。


水中溶接をするには、仕事ができて、

溶接が上手くて、

そしてなにより、
潜れるようにならなくてはならない。



潜水は、泳ぐとは違うのだ。

潜るのである。


溶接を上手くなるのですら、からだの左右のバランス感覚が大事なのに、

海の中は、上下にも気を使う。

それと、息も完全には自由にできない。
機械で送られてきた、空気をホースでつたってきたものを吸うからだ。


そしてしばらく時間が経ち、熱意も少しは認められ、
潜らせてもらえるチャンスが来た。
初めて潜った時のあの感覚は、今でも忘れない。

日常の生活での、体の使い方とは別次元なのだ。

ひだり みぎ の方向転換は、
足を動かしたらできるが、

上下の移動は、

「肺」の空気量を調整して行う。


そして、海の中は"音"も聞こえないし。"喋れない"

"視界もひじょうに悪い"

海底に足をつけたら、ヘドロがまい、
目先から10センチ先はもう見えなくなる。


おいおい、こんな中で仕事すんのか…

理解が追いつかなかった…笑


まるで、
終業式の日に、
学校の大量の荷物を抱えたまま、
初めてのる、自転車に乗せさせられているようだった。


休みが週に1日しかなかったが、
休みの日も、先輩に頭を下げて、
潜る練習を手伝って貰った。

お昼をご馳走したりして。


そんなこんなで、水中にもなれ、
努力も認めてもらい。

水中での溶接をとうとう体験させて貰える時が来た。

もう感動だった。


あんだけ憧れていたものが、やっと触れることができた。

陸に上がったとき、震えが止まらなかった。笑


なにも、知らないところから始め、
一から模索しながら決断し、
ここまで来た。

たくさん考え、人と話、自分を売り、
自分の親ぐらいの人に頭を下げてお願いしていた。

とても感動的な体験、
経験を人生ですることができた。

けれど、若かった私は、なにも知らなかった。

2回目の挫折

そう。本当になにも知らなかった。

会社の職人さんに告げられる。

「水中溶接工」

と言う職はないんだよ。

と。

意味がわからなかった。


言われたときは、強がって
「全然大丈夫ですよ!」

と言ったが、
話しを進めていくと、工事の過程で、
溶接をすることがあるだけで、
水中溶接を主として活動している人は
いないと言われた。


その時の自分は、水中溶接
にスポットライトが強烈に当たっていたため、
他の仕事に関しては暗くて見えていなかった。




ふと振り返ってみると
なにも楽しいと思えなかった。




「水中溶接の仕事だけ、国や市から貰って、
生活をしようと思えばできなくもない」

「けど、そのフリーダイバーに当たる人たちはいま減ってきている」

「国や市は、法律を変え、社会保険のかけられている人しか、仕事を渡せない流れになっている」


その後、いろんなフリーダイバーの人に確認したが、みんな同じことを言っていた。

危険な仕事であることから、対策をしていたらしい。


その時の選択には、
1.楽しくない仕事も我慢しながら、
水中溶接を楽しむか

2.会社を起こし、自分には社保をかけて、
仕事を貰いに営業していく。

が、あった。


私はまた自分と向き合った。

私の働く目的はなんだ?

自分が好きな仕事をする
つまり、そのたくさんの人生の時間、
目指している状態に近い時間を「体感・経験」
することだった。

もちろん、考え方、捉え方を変えたら関係ない仕事も、少しは好きになれたかもしれないが、

当時の自分はそうはしなかった。


今の私

また、会社を辞めることにした。

今振り返ると、燃え尽きたのだ。


それに、ダメでも、
自分に運が悪くて叶わないとしても
別にいいんだ。

そもそも、叶えることではなく、
それに向かう時間に強烈に憧れがあったんだ。

と、コーチング的なことを、勝手にしていた。



さあ、そろそろ履歴書が驚きか?

そして、今も働いている飲食店で働くことになった。

そこは、高校の頃からバイトしていた、
大好きで、よく知っている店だった。



とても長くなってしまいましたが、
この先は自分がコーチング を好きになることにとても関係があるので、

別の記事に改めて書こうと思います‼︎


ここまで、読んでいただいた方、
大大大好きです。😂

是非次の記事も読んで下さい!!

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