悪魔解体: 三(下)

 ⇒ 悪魔解体: 三(中) より


 夜も更けたとはいえ、まだ燈りの絶えない亥の刻、有楽町。というよりも、むしろ日比谷に近い距離に在る賃貸マンション群生地の並びに、一台のタクシーが、止まった。便利なもので、今日日ではおおよそが自動ドアの仕様となっており、酩酊した倉野が渋るところを、容赦なく身体を乗り出させる。涼しい外気を感じ取る。火照る身体。直ぐに酔う体質ながら、翌日に持ち込むこともなく、寝れば覚めるために、どうにも飲みの席では初速から勢いに身を任せることになってしまう。うつらうつらとしながら、勘定を済ませた財布を内ポケットに戻しては、目の前に在る三階建て、見てくれだけは昨年の改装もあって立派な出で立ちのアパートを見上げる倉野。…我が家には、明かりがついている。○○からの土産を、倉野はぎゅっと握る。横目に映る、歩道に植え込まれた名も知らぬ木々は、先週、剪定されたばかりだ。青々しく生命を振り撒くのは陽の目を浴びている時分くらいで、今は、葉の擦れる音しか聞こえない。

 珍しくもない、鉄筋コンクリート造の、築三十年になったか、肌の冷えきったマンションのドアノブを回す。手にこびり付く、錆びた匂いが、たまに心地良い。週に一度、予防と言ってはノブをはじめとして、家のあちこちをアルコール消毒する娘に、頭の上がらない倉野であった。


 「…ただいま」

 定まらぬライン取りでリビングへの扉を開けると、もう二十三時も過ぎた頃合いながら、ソファに胡坐を掻いて、足の爪の手入れを片手間に、ぼんやりとテレビを眺めている、娘。その幸は、父を見るまでもない、先に届いた"帰りは遅くなる"と言う一文のメールと、足音のリズムが崩れている時点で、自分の父親が宵に酔ってしまっていることを理解していた。

 「…誰かに迷惑かけてない? タクシーの運転手さんとか、神保さん? だっけ。…煙草臭いし」

 顎を擦りながら、情けのない声で、すまん、と、一言ぽつり漏らす倉野。

 「まあなんだ、起きてたんなら丁度良かった。…これ」

 ん、と、目を父の手元に目を遣った幸が、目を気持ち大きく見開いた後、其れを瞬時に細めた。

 「…○○さんでしょ」

 「いやまあ、そうなんだが。渡してやってくれって」

 ほれ、と、白い紙袋を幸へと渡す倉野。

 「…父さんから貰うのも、謎に気持ち悪いね。わ」

 中を覗いては、口元が緩む幸。どうやら、何もかもが、○○にはお見通しのようだった。箱の小ささ、そしてその箱と、手の指先とを交互に視線を移していることから、恐らく、ネイルに関する何かなのだろう。最近では、ふとソファに座ろうとしようものなら、常に可愛い娘が広く陣取っては、手か足の爪をいじっている。家の主である筈なのだが、もう、暫くソファに腰を下ろした記憶がない。

 「雑誌見てていいなって思ってたんだよね。やっぱ私、○○さんと結婚したいなあ」


 途端に、酒の作用が霧となり、今娘が何を言ったのか、全神経を集中させ、咀嚼する倉野。

 「…熱でもあるのか?」

 「はあ? いや、○○さん、ほんと素敵じゃない? 男前だし」

 機嫌が良いのか、鼻歌を交ぜながら返事を返す幸。何処かのブランドのものだろうか、箱を開けた中身は、どうにも高価なものに見えた。...確かに、いい男では、あるのだが。

 「ま、冗談は置いといて、今度会ったら礼を言ってやってくれ」

 「言われなくても。ってか、そのスーツ、明日クリーニング出してくるから、目に見えるところに置いててね。あと、歯磨き忘れないように、虫歯増えるよ」

 「…はいよ。ご飯はどっかで食べてきたのか?」

 ここで何故か、幸はむっと顔を顰め、声を強めて父の気遣いをあしらう。

 「もう、うるさいなあ、食べてきたって」

 はいはい、と、一歩、後ずさる倉野。面倒見が良いのか、距離を置いて欲しいのか。今の年頃の子は、過敏が過ぎる。


 ...否、しかし思い返せば、元の嫁もそうだったか。勘が冴えている、と、小さな頃から褒めそやされていたものだが、どうにも"そちら"の方面には効かないようだ。

 「参ったな…」

 もう二十三時を回っているが、これ以上、娘を催促することは止めておいた。明日は土曜日である、夜更かしはするものだろう。




 「春さん、春さん、春さん」

 「…はい?」


 週も明けた月曜、二人が憩う此処は、例の、春と○○が初めて出逢った喫茶店である。もう、”あの場所”は、何事もなかったかのように、人々が行き交っている。実際、春でさえも、そこまで気にすることなく、通学路として歩いている。○○に、感謝するべきことと言えば其れだろうか。血の跡も今では見られず、花なども記憶を辿る限り、供えられてはいないようだった。別の場所にきっとあるのだろうが、未だ手を合わせることが出来ていない。

 春自身、○○と話すことは愉しいとは感じているが、家に遅れて帰るたび、父が後ろに付いて回ってきては、あれこれと聞いてくることには参ってしまっている。くわえて、今月の中旬には期末のテストもあり、○○との今日の付き合いにおいては、春の手元に教科書とノートが添えられていた。もともと春も、ながらで勉強することが性に合っているため、話し相手がいる分には、助かる部分もある。更けながら、いざシャープペンシルに手を伸ばしたとき、その先端に付いている、まだ使ったことのない、小さな消しゴムが口を開いた。今までの声の中でもっとも若い女性の声が、しかし男性の口調で、二人の耳へと滑り込む。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。無学故、人と書との狭間を行き来する童よ、涎の拭き方も知らぬか? 書とは古き人、人は、何れの書。識る欲なくして、書は成らぬ。エドゥ=バルよ、ときに、神とは全知と伝わる。エドゥ=バル、では、神の手は、何のために在るのか。識る欲のない神は人でなし、すなわち書にも成れぬもの。エドゥ=バルよ、お前の手は、何のために在る?」


 あらあら、と、これまたわざとらしく、春の名前だけを呼んで満足したのか、ヤオロズに呼応してなのか、思い出したかのように話を切り出した。
 
 「そうそう、先日、倉野さん、神保さんとお酒を交わす機会がありまして。同時に、面白い話が聞けました。どうにも、まだまだいそうですよ、声を聴ける人間が」

 「警察の方ですか? …というか、お酒、飲むんですね」

 どこか意外に感じた春は、シャープペンシルに芯を注ぎ足しながら、何の気なしに問う。

 「ええ、それも、前回の話に出てきた管理官様自体が怪しいようですね。お酒に関しては、嗜む程度、ですよ。もっとも、貴方にとってのコーヒーのように、好まない種類もありますが」

 はあ、と、○○から勉強のお供になると、促されるままに頼んだコーヒーを、○○の言う通り、苦手ながら飲んでみることにする。砂糖とミルクで誤魔化せば、何の問題もないが、ブラックのままで飲むのには、まだまだ舌が苦しんでいるようだ。…口が、臭ってはいないだろうか。

 「警視相当ですのでお二方の上司にあたるのですが、どうにも私と似ているとのことで。外上門人、という小説家をご存知ではありませんか?」

 うーん、と、春は数秒ほど思考を巡らせたが、どうにも糸を手繰れないために、また、適当な返事を返してしまう。

 「聞いたことあるような、ないような」

 「それはそれは、是非一度、お読みになってみてほしいところです。兼警察官、という異色さもそうですが、文の才も奇なるもので、大ファンでしてね。会いたいものです」

 何かのファンである、そう答える○○が、どうにも新鮮に感じる。教科書へと、黒い線を走らせながら、授業中に取ったノートと、記憶を照らし合わせる春。

 「今度本屋に行ったとき、探してみます。似ている、ってことは、その、外上さんも、声が聴こえたりするんですかね」


 駆け引きですねえ、と、○○は、コーヒーを口に含み、頷いては説明を始める。

 「無論、そうであることを願いますし、その旨を聞きたいことは聞きたいのですが、自ら迂闊に手の内を見せることは自殺行為に成り得ます。外上さんが、私が何者かはさておき、倉野さんの近くにいる人物だと既知である時点で、尚更に下手を打てません。春さんと出会った時のような、テンションに身を任せては曝け出すのとはかなり状況が異なります。仮に、あちらがそのようなカマを掛けてきたとしても、ですね。実際、万が一に彼もそのような人物だったとして、私に聞こえているヤオロズさんと同じことを語りかけられているのか、彼もまた、エドゥ=バルと呼ばれているのかすら、不明瞭です。この聴こえる力を用いて、同類を排斥しようとしている可能性も捨て切れません。そうなれば、当然、私の身の問題だけでなく、春さんを含め、あらゆる方々に多大な迷惑をかけてしまうことになりますからね。そうなったときの、ふふ、そうならないための、リーサルウェポンとして、春さん、貴方が活躍することになるのでしょう」


 「女子高生を兵器扱いしないでください…」

 ふふ、と、ブレンドコーヒーの二杯目を注文する○○に、更に春は続けた。

 「その外上さんが仮にそうだとして。卓越した能力を持っている悪い人が、そんな人が、警察に堂々とドラマみたいに居座るものですかね?」

 「正義を語る組織に属しているものが皆、正義を掲げているとは限りませんからね」

 やけに正義、という二文字に引っ掛かった春が、詰める。もう、教科書には、線は走っていない。


 「○○さんの思う、正義って何ですか?」

 〇〇は、表情を変えず、変えるほどでもないのだろうか、上を見上げて、春へと即座に言葉を返す。

 「人はこう在るべきだ、と言う、願いそのものでしょう。先の人はいつしか、どのようにして生を全うするかという一点でなく、何が正しく、何がそうでないかを、それこそ生き死にを超えて、盲目に追い求めて生きました。正しさ、また、そうでない、一般に悪と呼ばれるものなど、その時折で様相を変える、ひどき流動性をもつものだというのに」

 コーヒーに注ぎもしないカップフレッシュを、手先で遊ばせながら話す○○。春は、自身の右手が止まっていたことに気付いたが、しかし復習に励むでもなく、ペン先を音を立てて突き始めた。

 「しかし、人はいつも聡明です。流れる悪、その程度のものは、深層心理と言わずとも、把握はしている。だからこそ、その後ろ盾、椅子の背もたれのように、何が正しいのかを、宗教や思想、たまに利己的な言動などを打ち立てては、もたれ、義憤と言う名のもと、正義、悪を固定させようと、今も、あちこちにセメントを用いて道路を塗り固めているのです」

 「…法律、ですか」

 やはり聡明だ、と、フレッシュを手の内から机上へ逃がす○○。

 「その通り。ですが、その様も含め、何処までも人は人で、何も変わることなく、生き続けているのです。で、あればこそ、正義とは語るだけでよく、正しい形は必要ないのかもしれません」

 なるほど、と、頷く春に被せて、壁に掛かった小さな額から笑みを絶やさない、聖母が言葉を発した。いつもの通り、陽は既に赤みを交ぜては落ち始め、その右頬に影を湛えさせている。

 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。法を律するのは確かに人ではあるが、法もまた、人が作ったもの。すなわち、人は、人を、互いに律し合うもの。では、神など、付け入る隙などあろうか。エドゥ=バルよ、では、何故。神は、裁くのだろうか。エドゥ=バル、お前は、人を裁きたいか?」


 すっと、聖母の顔から顔を逸らし、手先で遊ばせていたフレッシュを春へと渡す。春は、既にコーヒーに一杯分を入れているのだが、あまりの進まなさを見かねたのだろうか。先の話が深く入り組み過ぎているがために、咀嚼が相槌以上に追いついていない。咄嗟に、春は話題を変えた。

 「…そういえば、例の事件って、何か進んだことはあるんですか?」

 フレッシュを手に取り、○○の真似を意識したわけではないが、手のひらで転がしながら問う春。…もう、自覚有りきで、ペンは置いてしまった。

 「そうですね、今日の昼間、神保さんとランチをご一緒しまして。そのときに、関東地区に限るものですが、事件経過からの二週間の死者のリストを一瞥させて頂きました。横死や自然死、明確な病死を除くもので、おおよそ網羅できているとは言い難いものでしたが。しかしこの二日で、休みも惜しまずに揃えていた神保さんには、頭が上がりませんね」

 「何かヒントになるような事件はあったんですか?」

 横死、と言う聞き慣れない単語が気になるところだが、後で調べてみることにする春。いいえ、と、右手のひらに、○○は斜陽を乗せた。

 「これと言っては。二週間分とはいえ、さすがに首都圏内、除きに除いても千人弱はリストに上がっていましてね。その中から気になる死亡事故をピックアップするのも骨が折れるところですが、ぱっと見ても。私の眼鏡に適う何かはありませんでした」

 謎に自信の溢れている辺りが、誰かを想起させるのだが、それよりも春が驚いたのは、その数字であった。

 「死者ってそんなに出るものなんですね」

 ふふ、と笑う○○。

 「具体的な数字に置き換えると、少し驚くかもしれませんね。しかし、春さん、否、皆さんの思う以上に、死とはありふれたものです。現に我々が、周りの人々と同じく、ありふれた生を享受しているのと同じくね」

 「ふむう…」

 この○○が言うのだ、何か関連のある事件を取り零す筈もないだろう。十も会ってこそいないが、それでも十分に理解できる。

 だが、春の内にある何かは、それで収まりがつかないようだった。確信もないとごりが、ちらと胃に淀む。きっと、口を開いても、○○には一蹴の下、流されるのであろう。あるいは、時間を作って、調べてくれるのだろうか。では、口に出すべきではないのだろうか。と、逡巡を重ねる春であったが、結論は思考の前に出ていた。前と同じく、取り繕おうが、この口からきっと、出てしまうのだろうから。


 「…海とか。その付近で、亡くなられた方はいましたか?」


 口にコーヒーを含もうとしていた○○の手が、ピタッと止まった。そのまま、眼だけ春に。今までにない、しんと張りつめた空気を敷き詰める○○。いつも湛えている笑みすら、いつの間にか消えていた。

 「なにか、引っ掛かることでも?」

 「ああ、いえ。ただ、少し」

 「通用しませんよ。思い当たる節があるのですね? 理由は伺っても?」

 春は、無論、文字を読むつもりでもなく、教科書に視線を落とす。
 
 「分かられながら答えますが、答えられないと言うことで」

 今までに聞いたことのないような声を出しては笑う○○。呼応する、見返りの店員と回る頭上のシーリングファン。

 「なるほど、なるほど。そういうことですか。…思い出してみましょう、水死体があったとしたら、リスト上では、関東圏内で二件ありましたね。ヒートショックによる浴室内での水死者数はもっと跳ね上がりますが、春さんの言い分から察するに、それは含まないのでしょう。前者の内訳は、神奈川、千葉でそれぞれ一件ずつになります」

 何が"そういうこと"なのか。…しかしこの人は、さらっとだが。一瞥と言っておきながら、結局はすべてに目を十分に通していたと言うことだ。やはり、化け物である。そう、父と同じく。

 「場所までは、分からないのですが。何となく、気になりまして…」

 「それに関しては問題ありませんよ。千葉県での水死は、昼下がり、クルージング最中だったもので、複数人数の目撃者がいるケースでした。痛みのある話ですが、小さなお子さんの転落だったそうです。神保さんのリストに間違いがなければ、対となる神奈川県は鎌倉付近の水死事故が、春さんの”気になる”ものである可能性が高いのでしょう」

 「鎌倉、ですか…」

 箍を外して言葉を漏らした反動から、今まで机の上で空気と化していたクラッカーをぱりぱりと、口で高らかに弾ませる春を見て、○○は微笑む。

 「…ちょうど私も、夏先の潮の風に当たりたいと思っていたところです。少し打ち解けてきた、神保さん辺りを誘ってみましょうか。お土産、楽しみにしておいてくださいね」

 「…サザエは結構ですので」

 頭上にはてなを浮かべる○○を他所目に、コーヒーへと二杯目のフレッシュを注ぐ。春は、かき混ぜるでもなく、更に白を足されは、徐々に受け入れていくそのコーヒーの面をじっと眺めていた。それはそうだ。

 自分が行ったところで、どうと言うのだ。

 「...と言うか、他県の捜査って首を突っ込めるんですか?」

 「れっきとした捜査としては原則不可能でしょうね。神保さんは、警察庁でもなく警視庁直属ですから。仮に、彼が警察庁期待のエリートと言えど、あの年で率先して介入することは難しい上、協力体制を敷くにしては、既に水死事故だと見做されているケースですしね。また、外の目という、立場的にもリスクを負うことも。当然彼も、理解していることでしょう。迂闊なことはしませんよ」

 警察庁と警視庁の違いはまた後日聞くとして、春は質問を続ける。


 「じゃ、どうするんですか?」

 「休日のデート、でいいでしょう?」

 表情も変えず清々しく答える彼を前に、溜息をつく春。先に釘を刺していなければ、本当にサザエを買ってきそうな気がしていたのは、気のせいではなかったらしい。代わりに、と、シーリングファンが春の放置されたコーヒーを、まだ十分に濁りきらないのを見かねては、懸命にかき混ぜようと四苦八苦していた。


 ⇒ 悪魔解体: 四(上)

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