悪魔解体: 四(上)

四 - 薙ぎ風

 ⇒ 悪魔解体: 三(下) より


 持て余すことのない無数の排熱孔、文の月。職に就いてもう、三ヶ月が過ぎたが、しかしこの方。これといって、余暇を静養へと充分に割いた記憶はない。”いずれ休みたくても休めない日が来るから、今の内だ”と、倉野をはじめとする周囲に気を遣われては、その温もりを踏み躙れない神保は、今日まで、余所余所しい休日を送ることを余儀なくされていた。休みであるからと目覚まし時計のアラーム設定をいじることもなく、同じ時間に起きては、一日の大半を昇任試験を捉えた勉強や捜査資料の作成に充て、身体が椅子の上でストレスを感じると呻き始めた際には、頃合いをみて、適度にジョギングを行い、外の真新しい空気を肺に吸わせる。外で食事を摂るのもいつ以来か、平時は自炊または出前で間に合わせ、洗濯や掃除も怠らず、眠気が会釈をするまで過ごすだけ。母や妹からは、家に居ればいいのにと、再三言われていたものだが、無理を通して独り暮らしをした甲斐、その気苦労、すなわち。親が常日頃、何気なしにこなしていた”かのように見えていた”ことの一つ一つを、半人前であるが故に片鱗ながら、日々学び、噛み締めてことができているように思う。

 休日どころか、職務上ですら、他府県に出ることなどあまり無かったために、スーツを羽織らずに電車に座り込んでは、車窓からの眺めを忘我のままに視神経へと通す、今の心地良さを噛み締める。鎌倉、資料によると江の島にある漁港が現場に相当するらしいのだが、赴くのはおよそ一年振りとなる。遠い記憶である筈がないのだが、水に浮かべれば沈み込んでしまうようだ。車両の中、揺られながら、神保は掬い出そうとその水面に手を滑り込ませる。

 悪友ども曰く、年相応に女性との出逢いを求めていたために、円陣を組むとともに水平線へと走り出しては、海の水を身体に弾かせていたのだが、当の神保は其れを遠目に。潮の匂いを肴として、ビール片手に海を眺めていたシーンくらいしか、いくら脳の裏を引っ繰り返しても思い出せない。…今まで、そこまでの熱量を割いたこともない上に、幾らかの申し出を断ったことすらある身であるからか、いずれはそのような人と出逢うのだろうかと、この年ながら不安になる。


 週末の小田急線は例の如く混んでおり、車両の扉が開くたび、多くの家族連れの面々が、乗り合わせてはホームへと消えていく。変わり映えのしないレールの上を走る椅子に呆けてもたれ、車両勝手に左右に揺らされては、身体の軸がぶれてゆく。気楽でよいものではあるが、神保自身、電車は普段から立って乗り合わせることを好んでいた。座って過ごすのは、何とも落ち着かない。それはもちろん、周りを逐一見渡しては、席を譲るべきタイミングを見計らわなければならないことに因る。苦と言うつもりは毛頭ないものの、今日くらい。その甘えはやはり、余暇なるものを久々に堪能したいという心情から来ていた。

 …何故、自分を誘ったのだろうか。彼のことだ、幾らでも一人でやりようがあるだろう。むしろ、何かと邪魔になる、邪魔をしてしまうのではないか。…否、慌てふためく自分の姿を愉しんで見たいのだろう。最近においては、何か行動を起こそうとするたびに、○○ならどうするのだろうか、という思考がついて離れなくなってきてしまっている。いつの間にやら、眼窩裏にまで棲み付かれているようだった。年齢も確か、近かったはずだ。先のバルで他愛なく聞いたのだが、はずなのだが。そこで記憶が途切れる辺り、まだまだ酒に合わせられない身体の造り、その耐性のなさが自分の青さを物語っている。”酒は若いうちに溺れておけ”、父の教えではあるが、まだその意は得ることができていない。


 湘南リゾートの玄関と称される、乗り換えの藤沢駅で、血気纏う若者の群れに漏れず、腰を上げる神保。卒もなく改札を通り、迷うこともなく乗り換え先へと流れたところに。駅構内の白色に染まる形で、覚えのある長身の黒色が、老婆の隣で微笑みながら、空いているベンチに隣り合わせで座っていた。この駅は向こう、十年単位での改装工事を予定していると聞いているが、それに伴い、どれだけ活気が溢れ、人々が交錯しようが、彼だけは瞬時に見つけられる自信がある。それだけの独特な香りが、彼の周りに満ちていた。


 「こんにちは、○○さん」

 ○○が、顔だけをこちらに向ける。本当に、何時、どの場所であっても、この表情のままだ。

 「これはこれは、こんにちは、神保さん。私よりも十分ほどの遅れとは、何とも早めの到着ですね」

 「…私服も黒で揃えるのですね」

 口ではそう言うが、何処か確信していた。すらりとした長身のため、質素なシャツとチノパンだけながら、しっくりと似合う。腕時計も黒に染められているのだが、どこのブランドなのだろうか。腕時計に関心が高い訳でもないが、やはりステータスのひとつとして捉えられるこの時世においても、隙を見てはロゴをどうにか盗めないかと、その白い肌に目を通していたところに、○○が口を開いた。

 「こちらは真知子さん。夏先と言えど、この日差しでは年齢問わず、堪える方も多いことでしょう。少し外の暑さに当てられたようでして、ここで息が整うまでの間、お話しさせて頂いていたのです」

 ふん、と斜に構えたような笑いを吐き出す真知子という老人。神保が近くに寄ったときには、既に息遣い、顔色ともに落ち着いているようだった。使って間もないのだろうか、まだ新しいシルバーカーのハンドルに付着した汗の痕を見る辺り、かなりの距離を、この駅まで歩いたのだろう。

 「何ともまあ。人を見た目で判断しちゃあいけないってのは、息子にも孫にも言っているんだが、私もこれじゃあ言えなくなっちまう。誰よりも先に、この真っ黒い男前が気付いてくれてね。日傘を持ってこなかったのが、良くなかったねえ」

 ふと、口元が緩む神保に対して、○○は確りと老人に対して釘を刺した。

 「真知子さん、どこか近くで日傘を買うのをお忘れなきよう。新たなお洒落のためと思えば、ふふ、存外に夏に当てられることもまた、良かったのかもしれませんね」

 ○○さん、と窘めようとした神保を、真知子と言う老人が手で制する。

 「まあまあ、生意気なことを言っているようで、そういうことだと私も思う。前向きになることとするよ。それこそ、あんたと同じく、黒いものを買ってみようかねえ」

 「真知子さん、それはお洒落とは呼び難い気がします。…それにしても、○○さんも、常日頃から黒で統一すると言うのは、何とも勿体ないとは私も思うのですが」

 さっと、自身の装いに目を落とす○○。

 「そうですかね? 重宝することも多いのですが。ではいずれ、神保さん、そのお洒落の道の、手解きを」

 「そう言って、また揶揄うつもりでしょう…」

 老人がくっくっ、と笑いながら、二人のことを交互に眺める。

 「あんたも、この真っ黒いのも。婆あの言うことだが、眼に真が在るね。良いことだ、今も昔も変わらん。捨てたもんじゃないねえ」

 そう、ぽそりと零しては、しっしっ、と、手で二人を追いやる仕草をする老人。

 「もう一休みして、ぼちぼちと行くから、あんたらももう、お行き。心配せんでも、何かあったら駅員を呼ぶから」

 ふふ、と笑う○○。

 「その台詞を口にしながら、実に呼んだ人を見たことがありません。その御年まで他人を気遣う、その腰の低さに合わせてか、シルバーカーの取っ手の位置まで低い。あと十センチ上げるだけで、これしきの暑さでばててしまうことはないでしょう。真を視る目利きの前に、真知子さん、まず、鏡に映る自分を気遣わなければね」

 老人は目を丸くして、次にシルバーカーを見遣った。少々荒げた口調ながら、歳を重ねたが故に作られた皺以外の線が、口元に走っている。

 「なんと、真が在ると言うのに、ここまでいけ好かない人間がいるときた! もう二度と会ってやらん、会ってたまるか。早くどっかに、去ねい」

 二人は頭を下げ、しかし○○はけたけたと笑いながら、乗り換えの途、先は江の島方面へと歩を進めた。念のためにと老人を振り返った神保であったが、こちらを見る真知子と言う老人の目は、暑さに乾いていないようだった。




 「海です!」

 「楽しそうですね…」


 何と言う話をするでもないままに、乗り換えに十分強、そこから、また歩いて五分少々の行った先の、片瀬東海水浴場。その場、江ノ島の海岸を両手に沿わせ、目一杯に広げては指揮台に立つ○○。こちらが休みであるからと気を遣ってくれたのだろう、集合自体が正午であったために、浜の砂は、盛況により気温以上の熱を帯びていた。

 ○○の第一声は、気持ち声が大きいものであった筈だが、周りが振り返るには、オーディエンスの私語がそれを掻き消していた。くわえて場に似合わぬ装いだと言うのに、周りは○○に一瞥もくれておらず、本人は全く気にもしないのだろうが、それはそれで不憫さを覚えるものでもあった。七月を過ぎれば、既に開いている江ノ島の海は、週末と言うこともあり、視界のどこを切り取っても、人、人、人と人。共鳴するように、ありがちなモラトリアムを過ぎればこそだろうか、自然と、身体が疼くのを感じ取る。

 「で、あれば、海に入りますか? 水着くらい、どこかで買えるでしょう」

 「心を読まないでください」

 失礼、と笑う○○。さてさて、と、言葉に起こす代わりに、両の肩をこれ見よがしに回し始める。

 「では早速、花でも探しますか!」

 これもまた、大きな声で宣言をするために、神保はただただ、たじろぐ。…普段、いったいどれだけのトラブルを生み出しているのだろうか。見知った人間の前でしかやらぬ言動だと信じたいところである。

 「不謹慎ですよ… というか、そもそもありますかね、供花」

 「このように、人が溢れかえる場所であるからこそ、奇なるもので、誰かが忘れぬようにと、そっと。何かしらを添えているものです。現場はここから歩いて少しのところでしたね、行きましょうか」

 二人の若い男が、海や浜には目もくれず、其れらを背にして練り歩く。週末には、肌を露わにする人間ばかりでなく、やはり釣り客も多くみられ、少し歩いた先、目的地である片瀬漁港の辺りでも、視覚的な喧噪も散見された。クレヨンの青色一本で塗り潰したような快晴の中、潮の匂いも、嫌みなく肺に満ちていくのが分かる。日の本の中心特有だろうか、あの白々しくも重々しい空気感も好むところではあるが、やはり自然には敵わない。

 「かなりの日差しですが、日焼けクリームなど、お持ちですか?」

 シャツの袖を捲り、上腕を露呈している○○の肌を気に留める神保に、何を仰いますか、という言葉が返って来る。

 「この肌は狙って白くしているのではありませんよ。体質でしょうかね。日焼けもむしろ、してみたいほどなのですが、あまり焼けないのです」

 「まあ、そのような感じはしますが」

 「しかし、敢えて毒を自らに塗るのであれば、黒色の服ばかりを着るというのも、夏には堪えるものでしてね。何せ暑いんですよ。まあ、そこがまた良いのですが」

 何から指摘すればいいのか分からないこの○○節は、天気の良し悪しや潮の風、人々の熱気、その何れからも左右されるものでもないようだ。どのような言葉で突っ込めば、返せば良いのか分からない自分の語彙力の低さに、神保は溜息を吐く。

「…何を着ても、似合うと思いますが」

 そうですか、ありがとうございます、と、海へと伸びる堤防に続くように走らされた、長い手摺から浮かび上がる影から足を踏み外さないよう、まるで小学生のように遊びながら、現場までの道筋を辿る○○。

 「おっと、ありましたね」

 堤防の終点に近い、或る一角。そこには一本のカップ酒と、数輪の花が供えられていた。恐らく、ここで命を落としたのであろう。神奈川県警の見立てでは、堤防から滑落して、そのまま溺死、として片付けられており、当時目撃者もいなかったのだという。暫くは誰も寄り付かないものだろうと神保も踏んでいたのだが、物好きか、堤防の先端には一人、釣りに勤しむ人影が見えた。

 
 「第一発見者は、被害者とも面識があり、よく釣りの折に顔を合わせたこともある、で、お間違いないですね、神保さん」

 「ええ。"被害者なのか"までは、まだ断定できませんが。聞けば何せ、カナヅチであったとのことですし、溺死とみるのも頷けます。…釣りがお好きだと言うのに」

 「ふむ」

 ○○は手を合わせながら、口も開けずに喉を鳴らすだけだった。神保も倣い、弔意を示す。

 「…一時間弱で発見されたのも、消波用の石ブロックに身体が引っ掛かっていたことで流されていなかったことに因るとのことです。無論、解剖時にも体内に水が溜まっていたために、事件性がないものだと判断されたようですね」

 ○○は、いつも通り、その神保伝いのレポートに物を申す。

 「それにしても、顔面にある小さな擦過傷を除いて、打撲を含め目立った外傷なし、というところが引っ掛かります。その程度こそ不明瞭ですが、カナヅチだったとしても、慌てふためき抵抗し、堤防壁や、それこそ消波ブロックに縋ろうと、指などに傷がつくものです。海へと落ちた時点ですべてを諦めた、ということであれば別ですが、それもまた考え難い。命たるもの、生に縋ってこそ意味があるのですから。くわえてヒートショックでもなく、周囲への聴取から自殺の線も薄いとする県警の判断を呑むのであれば、"滑落する前に意識を失っていた"、と、私なら仮定しますね。当日の天気は、確か、」

 「雨だったよ。あんたら、刑事かなんかかい?」

 供花の前で、二人があれこれと類推しているところに、右から、見るからに釣人である、四十代だろうか、一人の男性が声を掛けてきた。○○は微笑んだままに、彼の釣り竿に目線を定め、動きを止めた。それを隙と呼ぶのかは分からないにせよ、神保は彼の左手に捲かれた腕時計のロゴを、横目で遂に捉えたのであった。後に調べたところ、スウェーデンのブランドだと言う。


 ⇒ 悪魔解体: 四(中)

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