悪魔解体: 四(中)

 ⇒ 悪魔解体: 四(上) より


 「あの人、いえ、東さんはね、何度言ってもライフジャケットを着ずに、際の際まで行って、釣りを楽しんでいたもので。カナヅチだって、てっきり冗談めかして言っていたものだとばかり… 残念です」


  そう、優しい夕立のように。男性は、くすんだベージュのキャンプハットを深く被り込んでは、ぽつりとそう、漏らした。

 「こんにちは。私は○○と申しまして、こちらが神保さん。仰る通り、彼は刑事さんです。ふふ、第一発見者の方ですね?」

 ○○の推察に対して、目を見開く男性は、手早くハットを取って応える。精悍な顔つきに反して腹部に幾らか贅肉を抱えているのを見てとる神保。五十代前半だろうか。釣り竿をはじめとする備品類からは、十年の単位で潮風に晒されてきたことが容易に窺える。

 「…ええ、その通りです。斉藤と言います。…滑落死、と聞いたんですが」

 新しく買って貰った玩具を手放さない子どものように、まだ角の擦り減っていない警察手帳を、ジャケットの裏に忍ばせておいた甲斐があったようだ。重力のままに垂れ下がった、見せかけの凛々しさが映える顔写真を、斉藤へちらと見せる。

 「本日は捜査などではなく、あくまでも仕事の外ではありますが、引っ掛かる点がありまして。少し、お話を伺っても?」

 斉藤は左肩に担いでいたクーラーボックスを音も立てず、地に置いた。

 「構いませんが、その前に、手を合わさせてください」

 一挙手一投足の所作で、手を合わせる斉藤。やはり、年の功は、経れば経る程、美しさを醸し出す。しみじみと、神保が自身の青さを噛み締めている間に、其れは済んだようで、満足の行ったような面持のままに、斉藤はこちらを向いた。

 「…失礼しました。しかし、答えられることは、あまりないと思いますよ。前に県警の方に喋ったことが、すべてですし」

 構いません、そう神保にが口を開く代わりに、斉藤を見るでもなく、その後方に広がる、湘南の海の面をまじまじと眺めながら、○○は返答する。

 「いいえ。それは、質問をする側の器量に因るものです。さて、まだ日にちも経っていない故、記憶も新しいかと。お辛いかとは思いますが」

 斉藤は、深い息を吐き出し、どうぞ、と呟いた。それを狼煙とばかりに、神保は啖呵を切り始める。

 「では。発見されたときの状況を、お聞かせください」

 「…まあ、馴染みだから、その場の道具とか見れば、直ぐに分かったんです。東さんが来てるんだろうと。それでも、セッティングはそのままに、あの人の姿が見えないもんだから、ちらっと周りを見てみたんです。そしたら、そう、丁度あそこ辺りかな、まあ、浮かんでましてね。…そういうことです」

 供花から見て左側、堤防の先端に近しい辺りの、消波ブロック帯を指差す斉藤。次いで、神保に代わり、聴取の内容を整え出す○○。

 「失礼、釣り道具はそのまま、ということは。斉藤さんから見て、何も乱れた様子がなかった、と言うことでよろしいですか? 釣り竿やクーラーボックスをはじめ、フィッシングチェアなどもお使いになっていたことでしょう」

 「……いえ、竿は海に落ちていましたね。…椅子は、確かに、倒れているとかではなかったかと」

 「なるほど。では、最近、東さんとお話しした内容ですが、例えばどういったものでしたか?」

 うーむ、と、頭を掻いた後、改めてハットを被る斎藤。顎に手を遣っては、引き出しの中を探っている様子だ。

 「至って普通ですよ。すごく親しいっていう間柄でもなかったんで、基本は釣りの話です。最近どこで釣ってるとか、あれが釣れた、これが釣れたとか。本当、それくらいです」

 ○○は、なるほど、なるほど、と、次の質問を続ける。この時点で、流石の斎藤も、会話の主導権を握っているのが神保でなく、へらへらと笑みを湛えている、この謎の黒い男へと挿げ変わっていることに気付いたようだった。助けを求めているのか、視線がちらちらと、神保に移っている。

 「では、交友関係に関しては? 斉藤さんよろしく、東さんにも釣り友達などはいたことでしょう。…そうですね、”最近新たに、誰某と仲良くなった”、など。お聞きになっていませんか?」

 ○○に対して、一抹の不審を抱いているのであろう斉藤も、○○の狙い澄ました一言に、そういえば、と、誘われるがままに言葉を広げた。

 「一度、ふと出会った男が、なんでも釣りが初めてで、延々手解きをしていた、と意気揚々と喋ってくれましたね。聞いたのは、事故の一週間前くらいだったかと。なんでも飲み込みがよく、自分より入れ食いしていて困ったとか」

 ○○の、右の口角が、痙攣を帯びたのを。神保は見逃さなかった。

 「なるほど。その方は、初心者故に、人が集まるところにとりあえず来てみた、という感じでしょうかね」

 「ここの堤防、隠れた穴場と言うほどでもないから、そうなのかもしれませんね。なんでも男前だったと。釣りをまるでしないような、ま、整った出で立ちだったらしいんですが、それでも気さくに話しかけてくれたようです。料理が好きとかで、娘に何か持ち帰って食べさせてあげれたら、と言ってたらしく、自分に負けず劣らず子煩悩だと、笑っていましたね」

 ほうほう、と、○○は肩を気持ち震わせながら斎藤の聞き入っていた。…斉藤が観察眼が冴えていないことに救われる神保。下手すればより不審がられると言うのに、何か、面白可笑しいところなど、あっただろうか。

 「なるほど、大体ですが、分かりました。斉藤さん、感謝します。これからお楽しみ、というところを、お邪魔してしまいましたね。神保さん、引き揚げましょう」

 この人が引き上げ時だと言ったら、きっとそうなのだろう。個人的には、東という男性の背景をもう少し聞いてみるべきだとも思ったが、神保はそれをせず、はいとだけ返事をした。先のケースのことと合わせても、○○は自身の推察した仮定を前提として、物事を推し進めがちであるようだが、これだけの、と言っても出逢ってからほんの少ししか経っていないが、付き合いをすれば、下手を打つとは最早思えないでいたからだ。何より、仮に彼の其れが外れたとしても、例えば今日のこの時間は、ただの湘南観光、の一言で済んで落ち着いてしまう。思考を巡らせる度に、彼の周到さが、際立つ。

 「なにか、力になれましたかね?」

 県警の聴取とは異なり、比べてあっけなく終わったことへと拍子が抜けたのか、改めて確認に入る斉藤に、○○は言葉を返した。

 「まだ、何も言い切れません。ですが、貴重なご意見を頂けました。…そうだ、お昼がまだお済みでないのなら、協力して頂いたお礼です、御馳走させて頂ければと思いますが、どうでしょう?」

 いえいえ、と、漸く表情を崩した斉藤が、肺の底にとごっていた空気を、一笑とともに吐き出す。

 「ははっ。ありがとうございます。ただ、今日は何とも、腹を空かせながらここらで釣りに耽りたいもので」

 「…よき人だったのでしょうね、東さんは」

 何気のない神保の一言に、ハットで視界を更に狭める斉藤。

 「もう少し、話しておくべきでした。では」


 一礼とともに二人へと背を向け、堤防の突き当りまで、重い足取りで、歩を進めていく斉藤。その背を何とも言えぬ目で、見送る新保。

 その、横で。笑いを必死に堪える○○がいた。敢えて諫められたいかのように誇張された笑いが、既に十六拍子にもなろうかと言う勢いにまで達していた。

 「…○○さん。怒りますよ」

 「くく、そういう人は既に、怒っているんですよ。さて、神保さん、こちらはボウズになりませんでしたねえ。”ビンゴ”です」

 怒る、とは言ったものの、と言うよりも、最早呆れに近しい感情と、○○の言葉への疑問が入り交ざることで、物差しを使わないが故に歪に浮き出た曲線たちが、眉間に書かれる。

 「…は?」

 「その釣り初心者が犯人ですよ、きっと。何ともまあ、これは恐れいきました。辻褄しか合いませんねえ。江ノ島に広がる、欝々とした日常を屠る漂白剤。染まり損ねたクロなど、この犯行と、ふふ、私くらいでしょうか」

 「…詳細を教えて頂いても?」

 そう、問いを投げ掛けてみるも、○○は真逆、堤防の手摺の裾に落ちていた煙草の吸殻を、ほんの一瞬だが、じっと見つめているばかりであった。…普段から飄々と、自由気ままにあちこち視線を移すことを好む○○ではあるが、このように、たまに、一点をじっと見つめる癖がある。気に留めるほどのものであるとは、思えないことが多いのだが。

 「ふふ、まだ秘密ですよ、神保さん。とは言え、何をするでもなく、御預けとなるのは些か不愉快かと思います。その眼の奥には、先にちらと視界に挟んだ、海の家の像が残っているようですね。とりあえず、適当な海の家で乾杯といきますか」

 「…はい」

 間に何を、誰を挟んでいるわけでもない、二人での余暇だと言うのに、今日は一段と、置いてきぼりで、○○が独り歩きしている感覚を覚える。堤防までの道のりを、引き返す二人。道中、何故自分を誘ったのだろうかと、未だ理解しかねていた神保だったが、しかしそれも、ビールが喉を通るまでの話に過ぎないものだった。




 神保としては、人影の少ない家を選んだつもりではあったが、昼の下がりと言うこともあり、ドラマに出てくるような、広いコテージが添えられたその海の家には、肉の焦げる香りとともに、血の管を浮き出させる、若い層で賑わっていた。その端の席に、特別に肌を露わにもせず、しかし若さを鈍らせない清潔さを着込んだ青年と、浜の砂よりも白く光らせる肌を、黒一色で覆う男性が独りずつ。


 「それにしても、神保さんは、海が似合いそうで似合いませんよね」

 ただただ煽っているだけであると知りつつも、神保は、求められているように、眉を顰めて確りと対応する。

 「失礼な。…まあ、確かに、こうして賑わっている様を見るだけで充分なところはあります。この潮の匂いも、喧噪も。傍から眺めている方が、風情として記憶に残るもので」

 あらあら、と、コテージの端に据えられた、ライトブラウンのウッドデッキチェアにもたれては、軋む音を与える○○。

 「若いうちは、遊ぶことが仕事のようなものですよ。そんなことを輪の外からぼやいては、お酒を愉しんでいるが故に、それほど固い人と成ってしまうのです」

 「そういう○○さんも、遊んでいたようには見えませんが」

 「何を仰いますか、私はいつも今でも、遊んでいますよ」

 予め、まとめて頼んでおいた二杯目のビールの冷え具合を気に掛けながら、透けた徳用のプラスティックコップの中で脈打つ一杯目を飲み干す神保。○○もにこにことしながら、手をさっと上げ、代わりをオーダーする。

 「では、私はハイボールで」

 「かしこまりましたあ」

 水着の上から薄いパーカーを羽織っただけの、すらりとした若いウェイターが、黄の色を若干交ぜた、高い声で応える。

 「客だけでなく、店員も皆、この湘南を満喫しているようで。魅力ある男性になる第一歩は、女性の色香を鼻腔に染めることから始まりますよ、神保さん」

 …女性の件など、話したことはない筈だが、しかし○○なりに、気に掛けてはくれているようだった。

 「…昔から、どうにも縁がないもので。興味がないこともないのですが、何とも。自分が、色恋沙汰の渦中にいることなど、想像もつきません」

 「勿体のない。しかし渦に身を投げるのであればお早めに、ですよ。一期一会とはよく言ったものです。冗談ではなく、私の年齢にもなれば、そのままだと服が黒に染まりますよ」

 そうならない自信だけはあることは胸に秘めながら、神保は話を逸らす。二杯目を、半分ほど一気に喉へと通し、丁度、○○へとハイボールを持ってきた店員に、更に代わりを頼む神保。やはり、海にビールと来れば、ウィンナーが良き友となる。その表面に広がるケチャップの隙間を縫い、いかにも出来立てであると主張する肉汁が日光に反射し、背徳的な食欲を駆り立たせてきていた。


 「…そういえば、先の斉藤さんから、例のホシの名前を聞きそびれていましたね」

 「何を仰います、どうせ聞いたところで偽名ですよ」

 聞き慣れぬ鼻歌を喉で遊ばせながら、空の青さに目を輝かせている○○。上機嫌なようで、何よりである。

 「娘さんが、という時点で、確信に変わった笑みを浮かべていましたね。やはり、目星をつけていたのですか?」

 「そう見えましたか。ふふ、しかし私は、此処だけの話。聞く前から確信をもっていましたよ」


 なるほど、と適当に相槌を打ち、視界の横からぬっと現れたビールに手を伸ばした頃合い、既に酔い始めた頃合いに。一瞬だけではあるが、○○の領域に踏み入れてしまったようだった。○○と初めて出逢ったきっかけとなったケース、その歪な犯人像の解釈と、仮定の数々。と思えば、今日のように。ふらりと別の、事故として扱われている、しかも隣県のケースに茶々を入れてはまた仮定を並べ、何かを暴き出そうとしている。先日には、鋭意捜査中と判断した場合は、もう首を突っ込まない、とは言っていたものの、舵を切り替え、迅速に今回の件へと思考と時間、そして労力を割いている辺り、○○のことだ、何か関連性があると踏んでいるだろう。

 このように、こちらも仮定した場合。端から聞いていれば、突拍子のない、飛躍の過ぎたものである、としか判断できない○○の思考回路を、誰よりも彼自身が其の信憑性に関して自覚しているであろう回路を、決して棄てずに己を信じて突き進ませるだけの、何かとは。倉野すら、今まで見たことのないと言う、彼の無謀な綱渡り、それを成すための、そのピースとは。彼がそこまで、信を置く、何かとは。


 最初から、居た。違和感の塊が、彼の隣に。初めて出逢ったときから、身体を小さく丸めては。雨に濡れては、最初から、彼の隣に居たのだ。


 はじめて、芋の蔓を、手応えを以て引いた感覚を覚える神保。しかしその達成感や充実感は薄いもので、なによりも歪な不安が、それらを覆っていた。蔓を引き遂げたいという願望に反して、果たして、蔓の先に在るものを自分は受け止めることが出来るのだろうかと。

 確信をもっても。嗚呼、彼はいつも。このような景色から、言葉を選んでは、聞かせているのか。



 「まさかとは思いますが」


 そう言い終える前に、直ちに○○が、手で制した。左手で遊ばせていたハイボールをテーブルに置いた。音は聞こえない。不思議と、賑わっている筈の、周りの蝉噪すら、遠のいていた。

 顔から笑みが、あの○○から消えている。その視覚的な事実と、”当たり”であった事実と。神保の脊髄そのものが、凍ってゆく。


 「驚きましたね、神保、神保忠義さん。やはり、貴方を連れてきた甲斐が、予想以上にあった、ということですね。素晴らしき哉、やはり人はいつでも、可能性を欲しいままに拡げてゆく。ですが、それ以上は、口に出さぬと、今のところは、どうか約束をして下さい。込み入って、いるのです」


 「…約束とは、そこまで一方的であっては、意味を成さないものの筈です」

 「ですから、どうか、という詞を添えているのですよ。いずれ、いずれ。神保さん。いずれ、私か、否、私でなくても、きっと誰かが。”何が込み入っているのか”を教えてくれることでしょう」


 数えて、十秒。遠ざかっていた、現に満ちた電気信号群を脳が改めて汲み取るまでに、それだけの時間を要した。次いで奥歯を強く噛み締め、勢いよく、ビールを口に含む神保。一割ほどは、零れて彼のネイビーのジャケットに染みつく。構うこともなかった。

 「貴方は、狡く、賢い人です。…きっと、嫉妬しています、私は」

 ここで、元の微笑みを湛えた表情に戻る○○。諳んじるかのような物言いも、還ってきているようだ。

 「他人に嫉妬を覚える、というのは、自身がまだ、未熟な証です。そう、人は常に未熟なもの。其れが消えてしまうような人は、人ではありません」

 「貴方が嫉妬する場面を、想像は出来ませんが」

 はは、と言う、○○の乾いたその笑いは、しかし渚に消えていく。

 「倉野さんがいつも仰っていることでしょう、あいつは人間じゃない、と。その通りです。代わりと言っては何ですが、私は嫉妬こそしませんが、羨望は覚えましてね。普通などという、誰もその基準を知らぬのに、知らぬがままに、その普通を謳歌することができる人ほど、羨ましく想うことはありません。普通に生まれ、育ち、喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、そして死ぬ。実に、羨ましい」

 いつかの父の顔が、浮かぶ。丁度、このような夏の頃合いだっただろうか。まだ十もいかない自分に言って聞かせてくれた言葉が、この今に、現像される。

 「羨むことは、憎しみに繋がる、と、父から聞いたことがあります」

 先の一気飲みが効いたのか、秒間隔で、知らぬ間に目線がオートで切り替わる。そんな自分を知らぬ振り。右手も、知らずウェイターを呼んでいた。その神保の様子を眺めながら○○は、白い人差し指で机にリズムを与えている。


 「実に非の打つところのない言葉ですね、父君のお言葉でしょうか? 神保と言う名も伊達ではない、父君も、その年功故に理解していたのでしょう。その通り、私にも、憎むことがあります」

 「それは?」

 「それはね、神保さん。”風潮”ですよ。誰が声に代えたでもない、しかし誰もがいつの間にか基準とし、外れたものを迫害するあのシステムです。誰を祖ともせず、あらゆる智を以て構築されたわけでもない癖に、システムとして機能し続けている、あれです。土地や、時代を超えて。今でも、村、町、市、都道府県、国、世界というそれぞれの単位で。阿呆らしい。それにさえ従っておけば、どれだけの悪人であろうがのうのうと生きることができ、そこから一度でも踏み外せば、どれだけの善人であっても、首に縄を通し、地に反してぶら下がり得るのです」

 いつものことながら淡々と続ける○○であったが、その言葉には、若干の赤色が差しているような感触を覚えた。その色覚調整のエラーを吐き出しているのは、アルコールを零してしまったからだろう。

 「…ですが、風潮なくして道徳や倫理、故の秩序は在り得ません。法も、その時々の風潮で変わるものですから」

 否定はできません、そう○○は言葉を紡ぐ。

 「実際に、私たちは風潮によって、肖ることによって、この世を生きております。それ故に、水面下で其れをのさばらせているように思えて、それが、どうも違和感を覚えて仕方がないもので。匿名を決め込む、強烈な悪意すら、感じるほどです」

 「…風潮、ですか」

 変な話をしてしまいました、と、自戒しながら、何杯目のハイボールを頼む○○。自らの言葉を変、と称すのを、はじめて聞いた気がした。

 「罪を憎んで人を憎まず、という言葉もありますが、罪も所詮は人の業。風潮を憎んで罪を憎まず。今思いついたものですが、座右の銘にでもしておきましょうかね」

 言葉遊びでは、と突っ込む暇も、与えてはくれない様子で、○○は続ける。


 「神保さん、先刻の真知子さんと言う老人が言っていましたが、まさしくその通りだと思います。貴方には真がある。私にも、と言っていましたが、それは、ふふ、彼女の読み違いですね。その真、それだけ、失わぬよう。...さて、お酒に酔うのは結構ですが、しかし夕暮れにも遠い。泳ぐでもないとすれば、東の都に帰りますか?」

 神保は、これもまた何杯目かのビールを飲み干す。威勢を、アルコールから借りることは、まだ、卒業できないようだ。

 「…逃げるつもりですか。まだ、私は、ハイボールを飲んでいませんよ」

 はは、と、酔いからか、普段と異なる、温度を感じ取れる笑いを吐き出す○○。手元のハイボールを、十割分、一度で飲み干す。苦手な酒が、目の前で人の喉へと雪崩落ちていく様を見て、借りた威勢が剥がれ落ち、少したじろぐ神保。

 「私と同じ、でしょう? 先日の、ハイボールを飲む時の貴方の顰め面たるや、SNSで拡散したいほどでしたからね」

 「…そんな冗談も言えるとは」

 まだまだ本気を出していませんよ、と胸を張りながら、ここに来て初めて、もう冷めきっているフライドポテトを一つ、○○は口に放り込んだ。先の飲みの席といい、あまり肴を摂らないようである。

 「…さておき。今日は貴方にとってもお休みの日。普段も気負わず、今くらいのテンションで過ごせば良いのです。どうせ、ジョギングくらいでしか、外に出ないのでしょうから」

 いざ、ハイボールが目の前に置かれたにも関わらず、じっと見つめる神保。怖気づいているわけでは、決してなかった。

 「…何だかんだ、楽しく過ごしています、今を」

 「それは何より。ふふ、一つ、会ったときから張り付いていた貴方の皺を取れたようです。私は先の件でもう、今日の予定は無いに等しく。神保さん、私を何処の市中に引き回してくれますか?」

 ハイボールを、覚悟を決めて一気飲みし、瞬きを繰り返しながら椅子の背にもたれる神保。向こう、週間分の二酸化炭素が、青の中へと溶け込んでいく。


 「鎌倉って、温泉。ありましたっけ」

 「疑問を持っている通りですよ。名のつくところはありません」


 「…帰りますか、東京に」

 「では男二人、岩盤浴とか、どうでしょう? そうはいっても、私も行ったことがないのですが」

 主導権を放棄した神保を、それとなくフォローする○○。また、それを聞かされる神保も、岩盤浴とやらに行ったことはなかった。友との仲を深めるならば、それぞれが経験したものでなく、皆が未経験のもので盛り上がれ。...今日はやけに、父の影がちらつく。


 「…安いところは嫌ですね」

 「正直ですね! では、探しますか。東京は、何でもあります、悪いことにね。そのジャケットに代わるものも、見繕いましょうか。ビールの匂いがこびり付いていますし」

 「…選んでもらって、よろしいですか」

 喜んで。そうぽそりと呟いた○○の一言を引き金に、デッキチェアから腰を上げる二人。さしもの○○も、江ノ島には馴染みの店主はいないようで、さっと、これまた黒い財布を取り出していた。ここは私が、と、自分に財布を出す暇すら与えない迅速な振る舞いの○○を見て、財布に関しては、同じく黒色にしてみようかと、ほろ酔いのままにスマートフォンで財布を調べ出してみる神保。先に、ブランド名こそ押さえていたが、黒い時計を腕に巻くにはまだ、早い気がした。


 ⇒ 悪魔解体: 四(下)

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