悪魔解体: 四(下)

 ⇒ 悪魔解体: 四(中) より



 「で、その話しぶりだと。あいつは、なんだかんだ言ってもまだ、江東区の、…カマキリを気に掛けてるわけか」


 青い月曜日、その名に一助と言わんばかりの曇天。陳列棚から抜け出せたは良いものの、未だ東京の風しか知らない、ベージュのコーヒー缶が、桜田門にて倉野の口へと傾けられる。出勤して間もない時分ではあるが、週の単位で日光浴を許されたばかりに、すっかり日に焼けてしまった資料たちと、ぶっきら棒にレジ袋の中に詰められ、縛られたコンビニ弁当の空いた容器の幾らかが、今日も倉野のデスク周りへと頽廃という彩りを添えていた。放置を続けた暁には一日に二度、神保に窘められることになるのだが、倉野は軽くいなしては別の話題に逃げることを好んでいた。此れもまた、四係の縁における、何も変わらぬ、日常的な光景である。

 「はい。先日、○○さんとお会いする機会がありまして。…自分の勘がどうにも、と仰っていました」

 缶を口に付けたまま、倉野は言葉に成らない返事を喉の音で鳴らす。

 「...ふう。なんだ、随分親しくなってるじゃないか。いいこった、お前さんにとっても、○○にとっても。まあ、あいつの言う勘、という言葉は、俺らの勘以上に研ぎ澄まされているもんだが。前に話したときにくわえて、何か話していたのか?」

 神保の、手に握っていたコンビニの、アイスコーヒーのカップの形が気持ち、崩れる。未だ手探りのまま、触れることすらできていない正義を前に、琴線が震えた。この揺らぎを、まだ眼が開き切っていない様子の倉野が察するかどうかは、今体内を駆け巡っているカフェイン次第だろう。…善き嘘、と言うのだろうか、こういったものは。

 

 「秘密だと」

 「…ははっ、そうか。あいつらしい。ま、何かあったら言ってくれるだろう」


 どうやら、倉野が毎朝ルーティンとして飲んでいるものがカフェオレであるために、其の成分が希薄なようだった。罪悪の念が、高鳴る。今、正義を掲げるこの場所で、口を噤むなど。これでよいのか、この選択で正しかったのだろうか。そう巡らせても、しかし、あの時。自分が黙認した時点で、あれはもう、約束をしてしまったようなものだろう。...彼は、この自分の葛藤までも、見透かしては愉しんでいそうだ。


 「秘密と言うのは、何とも狡いですよね」

 先ほど、序でに買ったおにぎりのラッピングを、これまた無造作に剥きながら答える倉野。ぽろぽろと、海苔の破片が、仕様もなく床へと散っていく。

 「あいつが秘密というときは、たいてい誰かを庇ってるときさ。...聞こえこそいいが、無茶はしないでほしいもんだな」

 疑いなし。神保もそう確信しているが、あの娘を徹底的に守り庇うとするならば。何故、我々のような機関を頼らないのだろうか。疑問に起こしこそするが、しかしその理由は、言葉に起こさなくとも、分かり切っていることであった。…それはそれで、信を置かれていない気がして、負の淀みが、鳩尾の辺りへと急いて雪崩れ込んで行く。コーヒーに立った鳥肌を、神保は手で感じ取る。

 「まあ、それは置いといて、仕事すっか。本当、あの件だけに集中できれば、それこそいいんだがな。…○○の動きが、今までと違う分、なんか、心配だ」

 「そうですね…」


 心配、と表現するのは、父性から来ているのだろうか。...自分は、どうだろうか。コーヒーを飲み干し、付いた水滴を拭き取ろうと神保がジャケットへと手を滑り込ませようとしたところに、聞き慣れた陽気な声が前から響いてきた。山本が、いつの間にか神保のデスク越しに顔を出している。

 「○○さんって、どなたです?」


 「おはようございます、山本警部補」

 「おはよう、神保くん。お疲れ様ですね、倉野さん」

 おうおう、と、無心に頬張っているがために、倉野はとりあえず、肩で返事をする。

 「...おはよう、山本。なに、○○ってのはただの友人だよ。そういうお前さんは、今日は朝一番から、忙しくなるって聞いたが」

 息を溜めに溜めて、盛大に吐き出す山本。わざとらしい手振りから、清潔感漂う、クリーニング上がりの香りがちらつく。

 「今早朝、港区で強盗ですって。被害者も出たらしくて、かつ犯人がまだ逃げ続けているとか。とりあえず現場に顔だけ見せてこないとでね」

 「そうか。ま、なんか手伝えることがあったら言ってくれ」

 ええ、ええ、と、にこやかに山本は頷く。

 「勿論、勿論。いざとなれば口の回る、倉野さんファンの二課の皆さんも総動員で、よいしょしてもらいますので、ご準備だけ」

 まったく、と顎を擦る倉野に一礼し、手を振りながら背を向けて去る山本。倉野は、残りの握りを口へと放り込み、缶コーヒーで流し込む。

 「ま、とりあえず書類でもまとめるかね」

 「ええ。...その前に、倉野さん。デスクを片付けさせてください」


 倉野は、はいはい、と、また顎を擦りながら外の空を見遣った。雨は降らない、と、予報士が茶の間で教えてくれていたが、午後を跨ぐと怪しくなりそうだ。...傘をもって学校へ向かったのだろうか。母に似て、確り者だから、気に留めることもないのだろうが。厚い雲を掻き分け、飛んでいくかは分らない、そんな儚い気遣いを、倉野は開いた窓から飛ばす。




 “鎌倉は春さん、楽しき杞憂に終わりました。性を悪くし、栄螺を手土産にしようとしたのですが、それはまた今度。何れのお食事に代えさせて頂きます。”

 溜まった鬱憤を吐き出すかのように、鬼神の如く気合の入った神保の手によって、倉野のデスクが今までにないほど整頓されてゆくのと同日、ほぼ同時刻。目の奥をずきと痛ませながら、スマートフォンに届いたショートメールに、ベッド上から目を通す春。○○からメールが届いた、という事実よりも、自分の中に巣食っていた柵が、やはり杞憂に終わったことへの喜びと安堵から、不気味なほど口元が緩んだわけであるが、顔が赤いのには、また別に理由がある。…昔から、風邪を引く頻度こそ少ない代わりに、ひとたび引いてしまうと必ず、一週間は長引いてしまう。週末に重なった分、学校関連の遅れは軽度で済んだが、週明けの今日も、大事を取って、ベッドに伏すことを決めていた。…否、父が、自分と学校へと言葉で畳み掛けては、そう決めた、という方が正しい。

 どうにもこのような形で休んでしまうことを良しとできない世渡り下手な性分は、嫌いではない。其れを承知で、常にセーブを掛けてくれる、父の存在とやらは、布団に覆われているからだろうか、改めてその温かさに触れることが出来なくもない。...九割は度が過ぎるのだが。


 この頭の鈍痛も、もう耐え難いというほどでもなく。ずきずきとするその間隔を空で数えながら、うつらうつらとし始めた頃合いに、スマートフォンから初期設定のままの発振音が響き出した。睡魔が、踵を返す。電話の着信音は、何に変えても、いつまでも、慣れない。横目で見た画面には、対して見慣れた友人の名前が写っていた。

 「もしもし?」

 「はろー、春ちゃん。風邪、大丈夫?」


 神田の声は、電話越しであろうとその活気がくすむことはない。春はうつ伏せになり、枕に頬を擦りつける。

 「おはよう。まあ、大丈夫だね。…というか、もうホームルーム始まる時間じゃないの? 取り上げられるよ」

 耳を澄ませば、クラスメイトの喧噪が絶えず、教室内で響いているようだ。余裕、余裕、と、神田は春の憂いを流す。

 「明日には行けるから。神田さん、ありがとうね」

 「そうは言うけどさ、週跨いで三日も、ってのはね、こっちも春ちゃんロスになるわけ。今日を乗り越えられるかどうか…」

 「それ、夏休み入ったら死んじゃうんじゃない?」

 意識しないままに、笑みが零れる。気付けば、頭の痛みが消えていた。

 「だから、定期的に遊ばないとねえ。おっと、ごめん春ちゃん、お大事に!」


 春が口を開く前に、ツー、ツー、と言う音が虚しく耳元で泣く。神田の携帯電話が、どうか取り上げられていないように、と強く念じる春。…また、名前で呼べなかった。他人との距離感を、朝から考え始める春の頭に、また知らず、痛みが扉を叩き始める。そして、此方でも、春の部屋へと、ノックが三度。


 「…はい」


 扉を開き、スーツ姿で顔を覗かせる冬人。顔はやはり、真顔のままである。ネクタイは整えているが、ジャケットは着ておらず、袖も捲っていた。崩れた着こなしをしても、と言うより、何を着ても。この父親は、気に入らないところではあるが、異常に様になる。その目線から察したのだろう冬人は、見据えた言葉を並べた。

 「自営業とやらの特権だ。自身の身の振り方は、すべて自分に降りかかる、と云うのは、字面では重たい印象を受けるものの、反面自由に立ち回れることを意味する。数々の偉人が、言の葉を変えては書き記した通り、自由は責任なくして在り得ない。さて、具合はどうかな」

 「最初が長いよ… 大丈夫、頭が少しずきずきするくらい。ほんとなら、別に学校も行けたよ」

 聞こえている筈だが、冬人の目は、久々に入ったからだろう、春の部屋の変わりぶりに、遠慮をしてちらちらと見ることもせず、堂々と神経を割いているようだった。相も変わらず、愛娘のプライバシーに配慮がない。


 「日常を過ごし過ぎるのもよくはない。一握できるほどの罪悪感とともに、地へと寝転び、無為に時間を貪ることもまた、人として肝要だ。また、別に、という言葉を使う場合、得てして人は別に、とは思っていない。昨日よりは快復しているようだが、確かに身体は参っているのだろう。気を張らず、休みなさい」

 「言葉が入ってこない…」

 ふふ、と、口でだけ笑う冬人。

 「今日は少し、陽が暮れてからの帰りになる。弱った愛娘を一人、置いていくことになるとは、仕事をし過ぎると言うのも困ったものだ。しかしそれもまた、娘のため。何か帰りに、馳走を買って来よう」

 「いいよ。…暑いだろうから気を付けてね」

 冬人の視線が、部屋の蹂躙を追えたようで、目が春を捉える。

 「母親譲り、参ったものだ。心得ておこう」

 「行ってらっしゃい。…ありがとう」

 

 気恥ずかしさからか、布団を目の下まで被り込む春に対し、背中で冬人一口の批評を論じた。

 「いつの間にやら、シックなものへと関心が傾いているようだな。真の意味で黒の似合う人など、そうはいない。嫌みなく魅力を湛えるまでの道のりは険しいものだが、しかし私の娘ともなると既にゴールテープは見えているようだ。それにしても少し早い気付きである、そのような気がするが、その理由は、ふふ、聞かないでおいた方がよいかな」

 「…怒るよ」


 その前に退散だ、そう冬人は言葉を漏らし、音も立てず、ドアを閉めて仕事へと出向いて行った。鼻を鳴らしながらも、また口元を緩ませ、目線だけ見送る春。先の○○からのメール然り、神田からの電話然り。風邪で参ってしまうことにも、確かに言われれば、味を占めることができるようだ。部屋に籠っていようが、月曜はどうしたって忙しいらしい。かなり目が冴えてきてしまい、再びスマートフォンのホームボタンを、何の気なしに押してしまう。画面のポップアップは、こそこそと机の下で打ち込んでいるのであろう、神田からのアプリメッセージで埋め尽くされていた。とりあえず既読にして、数時間後に返信をすることにしよう。そうした方が、あれやこれやとまた、絵文字に溢れた未読の件数がより増えるのだろうから。




 「ふむ、曇り空か」

 玄関を出て外気に身を曝した冬人は、そう独り言ちる。確かに、晴れていては敵わない。其れは、病で弱った娘を照らすには、皮肉が過ぎている。症状の具合から、夕方くらいまでに一眠りを挟めば、鈍い痛みも消えることだろう。さて、馳走を買って来るとは息捲いてしまったものの、何にしたものか。

 マンションの敷地を出て、最寄りの駅へと歩を進める冬人。十歩も歩かないうちに、すれ違い、郵便局員を乗せたバイクが、マンションの前に留まったようだった。切に、我が愛しの娘に対する、クラスメイトからの恋文でないことを願うばかりである。歩の速さは、緩めない。




 そのバイクからみて、立ち止まることなく、姿を小さくして往く冬人。その背に、人知れず、バイクのサイドスタンドが、声高らかに、エールを送っていた。過ぎる人はいても、振り向く人は居ない。

 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。人とは、二種類に分かれるのだと、聞いたことがある。棒を持たせたとき、他人をそれで傷めるか、地へと滑らせ線を描くか。私はどちらが正しいのかは知る由もない、だがお前がどちらを選ぶかは知っている。数多の命を包む褥よ、流されて往け。選択を棄てるな、エドゥ=バル、命の輝きを知れ、エドゥ=バル。数多の命を載せたまま、線を描き続けるのだ。エドゥ=バルよ、老いたときにはその棒を、支えの杖へと代えると良い」


 「さてさて、初日から殺してくれるんでしょうか。お天気、其の日和であると思うのですがね」


 ○○がそう問うてきているというのに、雲々は返事の仕方が分からないようだった。縦横に振る首もないままに、朝の東京を考えもなく、流れて往く。


 ⇒ 悪魔解体: 五(上)

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