悪魔解体: 五(上)

五 - デヴィルハント

 ⇒ 悪魔解体: 四(下) より


 此れも亦、同日、魔と逢う頃合い。台東区は上野、御徒町方面から少しばかり西に進んだ先に連なる、漫ろ艶やかな色目通り。ネコ科の皮膜を被り、辛うじてこの青き月曜を生き残った兵たち、その熱気がリフレインを帯びて闊歩する。そんな通りを、数本挟んだしじま、路地の帳。

 視界が朧気で、薄めで捉えるものが足元のコンクリートだけなのは、何も鬱蒼とした曇天から目を背けているというわけではなかった。物心がついた頃から、こうだったのだ。貌が綻ぶ、彩り豊かな思い出など、有ったかどうか。かと言って、学生時代、特にいじめられたというような、蓑として使える決定的な負の過去を送ったこともない。外面の話においては、生まれ育った環境や身なりを、貧相と評されたことはない。かと言って、そんな容姿も特に映えているわけでもなく、学に関しても人並み程度、故に親もこちらに何も期待しておらず、自分に自信を、青さ故のものですら、抱いた記憶もなかった。たとえば、甘酸っぱい失恋をした、であるとか、大学受験に失敗した、であるとか。むしろそれらに挑戦することからも、意識せずに背を向けていた。

 親の関心の希薄さに託けて、今思えば行きたかったわけでもない、もう何を専攻としていたかも忘れた専門学校に通い。...そう、通っていた筈が、何故か行き場をなくし、いつの間にやらお水に手を出し、目先の金で、上京したときから変わらぬ賃貸アパートで、私は日々を凌いでいた。萎びた高級ブランドのバッグには、いつ買ったのかも思い出せない、度が過ぎるエナメル装飾で覆われているだけの財布と、指紋だらけの、開く都度、底を攫う程度にしか残っていない化粧用品。そして、うっとりするほどに、錆びひとつない、折り畳み式の剃刀。最後者の、何らかを削ぎ奪う刃は今日も、どうかその切れ味を試させてくれと、こちらに懇願していた。毎日、毎朝、毎夜。情の絡みの有無問わず、其れに目を通すからか、光沢を帯びる紋を眺めると、何とも落ち着く。夕暮れ時も終いだと言うのに、とうとう赤のひとつも差さなかった空の下で、その刃に指先を沿わせては、命の寄る辺と見立てる。この行為は、仕事の内でも、外でも。そろそろ店に出向く頃合いながら、身体が度数の強いリキュールで満たされた酩酊状態の中で、十全に其の羽を開いた。夏場に染みる、その刃の冷たさに息を漏らしながら、口をついて出た言葉は、いつものものであった。何事がなくても、何を誰にしていなくとも、もはや脳への信号も通さずに出ているであろう、対象不定の、ありふれた懺悔である。冷たい壁に心ごと預け、座り込み、目を閉じる。

 

 「ごめんなさい」


 「はて、死ぬ気概があるのかな?」


 足音どころか気配、その存在すら感じなかった。瞼を開くと、互いの爪先が付くほどの距離で、長身のスーツの男が静止し、こちらを見下ろしていた。皺ひとつない白シャツに、紺単色のネクタイが映えている。端正な顔立ちでありながら、感情がまったく通っていない表情をしており、女性は不快ではない不気味さを覚えた。

 「あの…?」


 ふむ、と、周りを目だけで舐める男。彼女が好んで、お水通りの外れの中でも、殊更に人っ気のない路地裏に屈んでいたこともあって、人影はまるで見えなかった。一帯には、安物のスプレー缶で、中高生が背伸びして噴き殴ったのだろう、脈絡のないロゴマークをくわえた犬たちが、罅の入ったコンクリートの壁上を走っている。

 「真摯であろうがなかろうが、自ら死を願う人間を殺めることは、あまり実にはならない、と言うのが私の経験則でね。しかしその若さ自体が、十分な養分と成ることも多い。お嬢さん、本来ならば先の開けた君の救うべき命なのだろうが、生憎。故に早く散ることがまた、より美しさを湛えることもある」

 そう、まるで朗読でもしているかのように言を紡ぎながら、男は、ビジネスバッグから黒いレザーの手袋を取り出し、慣れた手つきで左に嵌めた。そのまま、剃刀を持った彼女の右手をさっと掴む。逆の手の首元には、数匹の蚯蚓が蠢いた痕が、これ見よがしと浮いていて。女性は、”事”が自然と、滑らかに躙り寄ってきたがために、男の行動に対する抵抗が、まるで追い付いていないままであった。


 「え」

 「リストカットで死に至る例は少ない。それは、大多数の人間がそもそも動脈の正確な位置を知らぬということもひとつあるのだが、他方で、大多数の人間がそもそも真に死のうとしていないことに因る。しかしそれでも、身に染みていることだとは思うが、リストカットにより悲劇のヒロインと言わんばかりに自身の存在を主張すること、またはアブノーマルなファッションとして自身の特異性を証明しようとすることは、あまり益を生まない。次の世などないと私は思っているのだが、その時を迎えたならば、己が淀みを、血でなく言葉で表してみるとよいだろう。では、さようなら」


 彼女は、この男が言っていることはさておき、今から何が起こるかぐらいは、理解できていた。今から、殺されるのだ。今から、すべてを喪うのだ。もちろん、死にたくない、という意識もあったが、思えば、其れを拒絶するほどの、自分の”すべて”など、たかが知れているものだった。くわえて、今、こちらの目の前に座り、こちらの目の奥を覗き込む男の、自分に対する距離感が、言葉の温度が、まるで理想の父親像かのように寄り添っていて、なけなしの自己防衛を引き起こさせないでいた。うちの父親とは、大違いだ。得も知れぬ境を踏み越えようとしている恐怖心からではない放心、彼女は身動きを取れないままに、彼の左手で掴まれた自分の右手が、自分の肌へと、抵抗なく入り込んでゆくその過程を、二枚の水晶体に焼き付ける。何故か、自分の右手は、剃刀を強く握りしめて離さない。無意識に、視神経へと意識を集中させていたのか、通りを挟んだ、表のさざめきが、遠のいているようだ。…なんだ、例の走馬燈とやらは、嘘か。



 「そこまでだ。...ふふ、そう、これです、これ。一度言ってみたかったんですよ!」



 今度は、飄々とした知らない声。目の前の男の手が、ぴたっと止まった。僅かに身を裂いた剃刀の周りから、この前も見た赤色が、じわり滲み出す。彼女が瞬きをすると同時に、瞳孔が収縮する。どこか心地の良い冷たさをもつ、男が嵌めたレザーの手袋の質感、自身の心音、呼吸、上野駅の方面である、東から聞こえてくる喧噪、それらの情報群が、ヴォリューム調整のノブをひと思いに捩ったかのように、彼女の全身を瞬時に駆け廻った。衝撃から、身体が数ミリ程度宙を浮かせながら、ヘルツ不定の悲鳴が、一瞬だけ飛び出す。知らず視線が眼窩の裏へと逃げようとするのと連動し、剃刀を持った右手が震え始める。足腰は、夏だと言うのに凍ってしまい、言うことを聞く様子がない。例の動脈は無事だったようで、血は直ぐには止まらないながらも、吹き出す素振りを見せないでいた。


 
 「この私が現場を押さえられたのは、初めてだな。珍しく、気乗りのしないままに人間を殺めようとしたからか、それとも私自身が老い、鈍ったか。それとも」

 男は、彼女から眼をずらしては立ち上がり、すっと、第二の声の主へと振り向いた。無表情はそのままで、その所作からも、動揺などしている様子にはまるで見えなかった。


 「きみが私以上に化け物であるか、かな」


 ふふ、と、奥の男性が嗤う。出で立ちや表情は、まだ影に隠れて見えない。

 「恐れながら。今挙げたすべてが当てはまったり、してしまったり。四宮冬人さん」

 ふむ、と数秒、一考する仕草を見せる冬人と言う男は、次に、すん、と息を吸った。


 「…なるほどな。きみが○○くん、と言うわけか。娘が世話になっているようだ」

 いえいえ、と、流れてきた厚い雲の所為も相まって、更に黒を帯びていく、○○という男性。

 「こちらが、春さんにお世話になっているのですよ。おっと、後ろのお嬢さん、止血してあげてくださいね」


 「確かにそうだな。...失礼」

 冬人は先のことなど無かったかのように、改めて女性へと振り向いては、屈み、彼女の手に触れようとした。その手にはいつの間にか、黒いハンカチが載っている。咄嗟に、手を引っ込める女性。

 「だ、大丈夫です、ごめんなさい」

 「謝る必要はない。むしろ私が、謝らねばならぬのだろう。では、自分で止血してくれ。…ふむ、殺し損ねた記念と言うわけではないのだが、名前を聞いてもいいかな」

 彼女には、この場の状況の一切を、否、一片でも把握する機能など、そもそも備わっていなかった。後ろの男性は、警察の人間だろうか。それにしては、言動に緊張感がない。ここで数歩、歩み寄ってきたことにより、その全貌が露わになる。影にいようがいまいが変わらぬほど、異様に黒い出で立ちで、○○という男は不敵な笑みを湛えていた。むしろ、冬人と言う男よりも、不審に見えてくる。…救われたのだろうか。兎にも角にも、彼女がなんとか絞り出したのは、やはりか、自分の名前であった。再度勧められた、冬人と言う男のハンカチを、受け取る。

 「あ、新川、新川杏、です」


 ふふ、と、口元を緩ませることもなく、声だけそう漏らす冬人という男。

 「それはそれは。旬の果実を逃してしまったようだ。良い名前だ、懸命に生きるといい」


 「…はい」

 ここで、後ろの○○が、杏へと話し掛けた。よく聞けば、優しく染みる、低い声をしている。

 「さて、ご覧の通り、この方はもう貴方にどうこうするつもりはありません。ここから最寄りの交番となりますと、公園前交番か、黒門交番か、ですかね。お手数ですが、ご自身の脚で、警察の方を尋ねて頂けるでしょうか。私が、彼を此処に引き留めておきますので。まあ、万が一、迷ったり、あるいは、"行かなかったり"しても、ふふ、既に手配済みですので、焦らず、どうぞ」

 杏は、血が出ている手元、...自分を殺そうとした人間から貰ったハンカチでぎゅっと押さえ付け、背筋を気持ち伸ばし、頷く。自分と言う存在が、正に奪われる場所であった筈だというのに、其れをまったく感じさせない雰囲気を、二人が明確に創り出していた。杏の平常心が、遠くから漸く、顔を覗かせている。


 「用意が周到なように見えて、ひとつ手順を余計に置いている。はじめから隣に警官を連れて来ていたならば、この時点でお縄にできると言うのに。さては、意図的だな?」

 もちろんですとも。そう、黒尽くめの、○○という男が口を開く。

 「理由は二つ。恐らく同行させていたのであれば、貴方はきっと尾行に気付く筈です。その"持ち前の感性"、とやらでね。そして何より、もうひとつは。"其れ故に"少しでも、二人きりで話をしたかったのですよ」

 目をきらきらと輝かせながら、更に一歩だけ、冬人へと寄る○○。…話をしたい、とは、何のことだろうか。持ち前の感性? 杏は、目を細める。淡々と、次は冬人が言葉を返す。

 「二人きりで、と言うが、まだ彼女が居るだろう。それに、私がこの場を何とか切り抜けようとした時のリスクは考えていないのかな」

 「そういえばそうです、新川さん、ささ」

 どうしようもなくぎこちのないウィンクと同時に、○○の手の平で鳴らされたクラッピングによって、これまた不思議と、新川の硬直が途端に消え失せた。立ち上がり方も、思い出せる。左手を押さえながら、顔を伏せて、駆け足で二人を置いて交番へと向かう杏。…この辺りで働いて随分経つと言うのに、黒門交番とやらが分からない。とりあえず、上野駅に向かえば、いいのか。足止めをしておくと言っていたが、○○とやらは、何者なのか。...救われたのだろうか?



 問答を自分の中で巡らせる彼女の背中へと、姿が見えなくなるまで手を振り続ける○○。冬人へと振り返ることもなく、続ける。

 「さて、先の話の続きですが、貴方ほどのお方が、そのような安い脅しをするものではありませんよ。貴方は現場さえ押さえてしまえば抵抗はまずしないだろうと、確信と言う名の勘が働いたものでしてね」

 なるほどな、と、冬人は口だけで相槌を打つ。

 「やはり、そういうことか。さてさて、私も直に会い、話すことは初めてでね、些か動揺をしていることは隠さずに伝えておこう」

 口元を、確かに緩ませる冬人。


 「聴き人だね、○○くん」


 ほう、と、声を上げて感嘆に代える○○。

 「聴き人! どうしてそのような趣のある呼び名を思いつかなかったのでしょう! いやはや、やはり、先人を侮ること勿れとは、よく言ったものですね」

 ここで、風もないのに、路地裏の地面に転がっている、ビール缶が、ころと音を立てた。齢に代えれば八十は下らない、皺がれた声が、頭上の雲を割けることもなく、啼く。


 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。自身の両の掌に、何を乗せられたのかも知らぬ秤よ。物の重さを比べるのは良いが、その本質には決して偏りを与えるな。エドゥ=バルよ、何故、人がお前に物を載せるかを思考せよ。罪を犯した文字すら知らぬ咎人も、識者が決して見出せぬ金言をもつ。さて、エドゥ=バルよ、今、お前の目には”何”が映っている? エドゥ=バルよ、お前に載せられぬ、重いものなど、在るのだろうか」


 「ここまで楽しい時間を送れるのは、娘と過ごしているときを除いて他にないだろう。そして、先のきみの勘だが、全くにその通りだ。既に暴かれた時点で、この殺人絵巻も終わり。想いを込めて長く筆を認めてきた分、予想以上に呆気のない幕切れとなったよ。得てして人生とは、そういうものなのだろうが。...”父さんみたいな人に会った”、か。愛娘の言葉を十分に推し量ることなく、過ごしてしまったことがすべてだったようだな。人並み程度の悔しさが、沸々と込み上げていることを、正直に白状しておこう」

 「では、化け物同士、少しお喋りでもしようか」


 冬人の言葉を皮切りに、この寂れた路地裏へと複数羽、不思議と急いたカラスが寄ってきては、化け物二人の上へと足を降ろした。そうして、電線を揺らしながらその首を、きょろきょろとさせるばかりで、鳴かずに屯をし始める。晴れ時ならば、夕暮れに照らされてその濡羽色の美しさを覗かせるものだが、しかしこと人々に対してその魅力を改めて知らせるには、例え晴れ時であったとしても、いつの時代も、彼らは少々高みの見物が過ぎていた。




 南無八幡大菩薩。確と引き絞られ、上野へと放たれたパトロールカーの中の空気は、張り詰めていると言うよりは、何処か浮ついていた。助手席に座る神保は、気が逸り前のめりになっては、しかし倉野への後ろめたさもあって、決して右側には視線を配らず、窓越しに過ぎ去っていく景色へと目を流している。先程まで、デスクに積まれていた調書を、…併せて、倉野が担当していた送検手続きの書類を捌いていた矢先。先日の休暇の折、”気を配っておいてください”と言われて久しからず、○○の位置情報と、短く添えられた一言が神保のスマートフォンに飛んできたことが今回の出動の発端となった。課の周囲の目を掻い潜り、かつ急ぎ早で乗り込んだ反動で荒くなった呼吸も、もう大分落ち着いてきている。

 対して倉野は、そんな神保に勢いよく囃し立てられるがまま、現在まで理解が追い付くことなく、運転させられる羽目になっていた。とは言っても、神保が慌てて運転しようとしていることに変な危うさを感じ、半ば強引にハンドルを奪い取ったわけではあるのだが。顎を擦る暇もないままに、都心を走る倉野も、さすがに、”この事態”に○○が絡んでいるのだろうとは何となくは勘付いている。神保がこちらに全く顔も見せないことが良い証拠だ、何か隠しているのだろう。まだ、荒い呼吸に混ぜて、溜息を吐く。


 「…とりあえず落ち着け。○○が、何か仕出かしたのか?」

 終始無言を貫いていた神保は、数秒躊躇った仕草を見せた後に、倉野の方へと首を曲げては、頭を下げた。

 「申し訳ありません、倉野さん。…少々込み入った話となるのですが、要約しますと、現在。恐らくですが、○○さんは例のケースの、カマキリを押さえている状況にあります」

 「…はあ?」


 折よく赤信号に変わり、ブレーキを踏む倉野。車内で吸うわけにはいかないために、内ポケットに入れていた煙草の箱を右手でなぞり出す。メンソールはもう、止めてしまった。

 「…お前さん、知ってたな?」

 眼を逸らさず、頷く神保。

 「はい。四宮冬人、という男性が犯人ではないかと、○○さんは以前より睨んでいたようです」

 「四宮… はん、なるほどな」

 折よく青信号に変わり、アクセルを踏む倉野。車内で吸うわけにはいかないために、内ポケットに入れていた煙草の箱から、火を点けるでもなく一本を口にくわえる。倉野によって上下に揺らされる煙草を見遣り、事の顛末の説明を促されているのだと理解した神保が、話を続けようとする。



 と、同時に、倉野は意識を、その四宮とやらと、○○へと集中させ始めていた。四宮冬人。あの高校生の血縁者。勝手な憶測だが、恐らく、父親だろう。以前より睨んでいた? どの時点から? まさか、あのサ店で初めて四人が、会った時からか? ...それはない。カマキリの話を最初に振ったのはこちらからだった。それを聞いての、例の○○の意気揚々とした持論の展開も、いつも通りのもので、知らないフリをしていたとは到底思えないものだった。...否、思い返せば初日から、○○は、最後に、"なるほど"と、"秘密だ"と言っていた。そして次に会った時には、あの、まるで犯人像を断定しているかのような、長い付き合いでも見せなかった飛躍した持論と、口振りだ。...あの時にはもう、勘付いていたのだろう。だが、それにしても、あまりに出来過ぎている。○○をしてぶっ飛んでいると言わせた犯人が事実、実在してしまっており、事実、○○が持論通りに像を描いたが故に、独りで追い詰めてしまっている始末だ。つまりは今、あの春という、ホシの娘に当たる高校生を介して、化け物同士が出逢っていることになる。...途中から、気には掛けていたつもりだったが。あの高校生、いったい、何だ。



 「先日、○○さんと神奈川は江ノ島へと赴き、気になっておられるという、或る水死のケースの現場検証と聴取を、申し訳ありません、勤務外ながらに行いました。その時点で○○さんは、否、もしかすると、その以前から、春さんの父親が犯人である確信を持っておられたようです。私もその時に気付いたのですが、いち個人としても、警察官としても、犯人特定の明言や、その他協力行動に移ることは、こちらが指示するまで控えてほしいと、強くお願いされたものでして。…重ねて、申し訳ありません」

 ふう、と息を漏らす倉野。くわえていた煙草が途端に苦しそうにぴくぴくと痙攣しては、斜め四十五度を向いた状態で硬直した。

 「まったく、色んなもんに首を突っ込んでは出しゃばるのが仕事の俺らに、指示をするたあ。…癪だが、俺ら警察が動けば、その四宮ってのが確実に尾行に気付くと思ったのだろう。前の○○の持論、犯人像を聞くに、あいつなりの追い方でない限り、現場を押さえるのは無理だと踏んだんだな」

 「そうだと思います」

 「現状、その位置情報の先で何がどうなっているは分からんが、あいつのことだ、万が一にもリスクを負うようなことはしない筈だ。どうせ、俺らが到着する頃合いすらも計算してしているだろう」

 神保が相槌を始める前に、だが、と、言葉を普段よりも大きめの声で続ける倉野。口の中で噛み切られたのだろうか、煙草は、先程とは打って変わって、萎びては俯いてしまっていた。

 「だとしてもだ。俺らのことは信用しなくてもだ。自分が危険に晒されても構わない、どうせ自分一人の話だから、って言いたいようなあの立ち振る舞いが前からいけ好かんっつうんだ。...人が好きなくせして、人に頼らんから、あいつはダメだ」

 「…まるで、父親みたいですね」

 あまりに気持ちの籠った、厳しい字面と裏腹の、塞き止め切れていない優しさを確りと認識した神保が、口元を緩ませる。

 …こいつはこいつで、苦い思いで、必死で抑えていたのだろう。こいつの正義感からして、容易いことではなかっただろうに。其れを吐き出せたが故の、口元の緩んだ神保の表情を見て、倉野も口から煙草を取る。


 「馬鹿野郎、あんなやつが息子に居て堪るか」

 警視庁から上野は、そう遠くない。問題は、パトカーを止めてから、また駆け出すとして。神保に後れを取らないよう、どれくらいの距離を走らされるかにあった。さっきみたいなのは、もう身体が持たない。禁煙をするつもりがない者として、週明けからの"これ"というのは、致命的であった。




 下手に寝付けないまま、昼を過ぎた辺りで目を閉じた春を叩き起こしたのは、やはり枕元に置いていたスマートフォンからの、初期設定のままの発振音であった。快復の兆しがある中で、更に大事を取った甲斐があったようで、覚醒の度合いが妙に研ぎ澄まされているのを自覚する。おはようからおやすみまで、登校から下校まで。また神田からのものだろうと画面に目を通すと、午後七時は回っていたようだった。くわえて春の目に飛び込んできたのは、○○、という文字列。謎の擬音を漏らしつつ、素早く出ようとする余り、スマートフォンが指の間からするりと抜けて弧を描き、ベッドの下へと音を立てて飛んでいく。ホラー映画宜しく、上半身だけ、ベッドからぬるり滑り落としてそれを拾う春。

 

 「は、はい。四宮です」

 「春さん、こんばんは。風邪気味であると伺ったのですが、声から察するに、元気そうですね。良かった。…なるほど、少し着込んできてくださいとのことです、よい人をお持ちだ。私の位置情報を転送しますので、出来る限り早く、タクシーを用いて来てください。代金は、私が立て替えます。…おっと、出しゃばりが過ぎたようです。すみませんね、ふふ、ついつい」

 その話し振りから、頭を働かせるまでもなく、春は或る事実の確認を行う。

 

 「…父が、そこにいるのですか?」

 「その通り。やはり貴方は、聡明ですね」

 褒め言葉をそっちのけ、春は布団を放り投げて、クローゼットへと勢いよく身を走らせる。肩と頬でスマートフォンを固定し、部屋の明りを点けることも忘れて、ハンガーで吊るされた木々を掻き分ける春。何だ、何が起こっている? 父と、○○さんが? とうとう、この日が、来てしまったのか。危惧していたカタストロフとやらだ。しかも、自分がぬくぬくと油断し、過ごしている日に限って。...偶然に出会ったのか? 仮にそうだとして、それくらいで、私を呼ぶだろうか? そう、父ならば、其れを止める筈だから。

 「急ぐには急ぎますけど、着替えやら何やらありまして…」


 見え透いた時間稼ぎで濁したのにも関わらず、一瞬。いつもは即座にそれを見抜き、笑いながら毒を交ぜて突いてくる筈の○○が、変調を意識したわけでもないだろうに、一拍を置いて、押し黙った。感応して、春の動きも止まる。嫌な予感が、する。

 「春さん。犯人が車に乗り込むまでの猶予というものは、ドラマで見るほどには与えられないものですよ? 幾ら、今回”良い人たち”を手配済みだとし――」

 

 ○○の言葉を最後まで聞く前に、スマートフォンを耳から離し、春は即座にその電話を切断した。次いで即座に、猶予を挟むことなく、インターネットアプリを開いては、タクシーを呼ぶ手配を始める。何度も、何度も、必死に。陽が沈み、暗く静まった部屋で唯一、光る画面へと指をこれでもかと走らせ、タクシーの電話番号を検索するところから。日々、暇を持て余し次第、考えを巡らせる前から、無意識に操作するものだと言うのに、それでも。フリック入力が、思うようにいかない。打ち間違いなど、いつもはしないのに。遂には表面を、ボタンでも付いているのかのように、押し込み始める。思うように、手が動かない。手の震えが、止まらない。もう鼻は詰まっているわけでもないのに、口呼吸へと切り替わっている。自分の浅い呼吸が、部屋に、春の頭に響く。身体ももう、動くのを止めていた。いつもは穏やかな、脳に広がる庭園が、灼熱を帯び始める。


 「くそ、くそっ」


 さらに、呼吸が乱れ始める。いつもは電話番号など、一瞥して記憶できる筈なのだが、今や最初の三桁すらままならない。もう治ったものだと思っていた例の鈍痛が、何故か再び、後頭部の辺りで蠢き出した。目の麓からは、知らず涙が零れ落ちていて。いつからか自分の奥底に潜んでいた、隠していた、疑念と言う名の蜷局が。とうとう解かれた。


 どうして、と、やっぱりと。途方もない優しさ、と、どうしようもない嘘と。春の脳内にはどの感情に対しても座る椅子が用意されていない様子で、くそっ、と言う、どうしようもない二文字だけが、口から出続けるばかりであった。上下の歯が、噛み合い方すら忘れて、カチカチと音を立て始める。

 そうこうしつつ、どうにかタクシー会社の番号を空見で言えるくらいに、溢れ出る情動を抑え付けられ始めた頃合い。聞き慣れたポップアップの音とともに、○○から位置情報が届く。


 そうだ、この人も、嘘を吐いた。こっちの気も、知らないで。何が、楽しき杞憂だ。何で、あんな嘘を吐いて、安心させた? あれだけ以前から、うちの父親を嗅ぎ回っておいて、その癖、最後の最後まで、大事なことは、言葉にしないで黙ったままで。へらへら、笑いながら。誰のために、そんな態度を取り続けて、誰を、安心させていた? ...その答えを、もう十分に知っているから、この涙が、止まらないのだ。


 「上野…」


 どうせ、着込んで来いとか言ったのはあいつだ。それは、娘が病み上がりだということから、夏先とは言え、陽が落ちれば冷えることもあるだろうという、混じり気のない気遣いでしかなかった。いずれにせよ、あいつの一挙一動はすべて、自分のことをただただ案じる、ありふれた父親の、何にも勝る愛情から来ていることは、疑いようもない。中学生の頃からのお気に入りで着続けている、故にもうすっかり色も薄れて、外の曇り空を皮肉るような、白に近しい灰色のパーカーを、春は羽織る。序でに強く、その袖で涙を拭った。


 「…冬人め」


 このスイッチが入れば、もう大丈夫。涙とかいう、恥ずかしいものも、流れて来てはいない。いつもの、澄ました顔の、あらゆる物事に対して斜に構えた生きてきた自分が、帰ってきた。こんな自分は、たまに自己嫌悪にこそ陥るものの、案外、そこまで嫌いでもないのだ、実を言えば。そう、面倒で込み入ったことは、後で、ゆっくりで良い。いつも通りに、適当に流して。眉間に皺が寄る度に、とりあえず父の所為にしておけば、良いのだから。


 ⇒ 悪魔解体: 五(下)

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