悪魔解体: 五(下)

 ⇒ 悪魔解体: 五(上) より


 「ふふ、可哀想に。私なりに気を遣いこそしましたが、それでも今頃、泣いていますよ? ご自宅からの道のりからして、予め手配しておいた同胞よりも早く着くだろうと踏んでいたのですが、そうするには足取りが重いかもしれませんね」


 見縊ってもらっては困る。そう、○○へと、冬人は言葉を返す。

 「案ずることはない。私の娘のことだ、タクシーに乗り込む迄には、その涙を。気に入っているパーカーの袖にて拭きながら、私の名前をぽつりと、怒りを込めて独り言ちているだろう」

 薄ら、時を経るにつれ、ぼんやりと黒が差し込み始めた上方を、一瞥するカラス。その優れた色覚能力を以てしても、二人が織りなす舞台を前のめりで観劇するには、未だ街灯の照明が息をしていなかった。逢魔ヶ刻も、それは人が通りを歩いてこそのもの。通行人もちらほらと、この外れた通りへ、近道としてだろう、姿を見せるようになってきていたのだが、誰にとってもやはり、このカラスの群れと、歪な人紛いの二匹で整えられた三竦みを見せつけられては、当然。若干の好奇心を懐に忍ばせながらも、その周りを、なにも見ていないかのように、あくまでも普段を装う仕草のままで、通り過ぎていく。

 「ふむふむ、聴き人、聴き人。なんと美しい響きでしょうか。さてさて、冬人さん。興奮を覚えているのは、私とて同じ。富士の頂には敵わずとも、積もる疑問がありまして。幾らか、伺っても?」


 冬人は、先まで杏がもたれていた壁に、倣って体重を預けながら、手で促す。

 「無論だ。時間の許す限り、幾らでも」

 それでは遠慮なく。○○は、満面の笑みを浮かべながら、模型を組み立てるための部品の山を眺めては、果たしてどの部位から作ろうか迷う子どものように、更に冬人との距離を詰めた。残り、五歩分。


 「貴方は現在、聴こえていませんね?」

 「イエスだ。…なるほど、春が何かしら噛んでいる、というわけだな。では、確信を以て問うてきている以上、確信を以てその答えも導いていることだろう。さて、”いつから”だと思う?」

 微塵も狼狽える様相を見せずに、むしろ、被せて○○を試し始める冬人に、おお、と○○は目を閉じて、大きく息を吸い込む。いつものわざとらしい所作ではなく、それはまるで、ぱちんと、手の中で模型のパーツが上手く噛み合わさった時の子どものような、ふと漏れた彼の素を示すものであった。

 「...心地良く、味わい深い。聴き人同士のお喋りとは、斯様なものなのですね! ふふ、初めて人を殺めたときからでしょう? なるほど、そういうトリガーがあるのですね」

 疎らながら更に、通りへとちらほら、人の影が現れる。其れを見かねたのか、街灯のセンサーが腰を上げたようで、唐突に、二人へと仰々しいスポットライトを当てた。漸く照らされた舞台へと、号令があったわけでもないのに、方々から屋烏が一羽ずつ、途中入場をし始める。冬人は、左手先を覆うレザーに生じた光沢を、愛でると表現するには遠い顔つきで眺めている。

 
 「二十五のときだった。今は亡き妻と出会い、娘を授かったときにね。そう、聴き人の私が、所謂、愛や幸せを享受したわけだ。きみからすれば、不思議に思うことだろう」

 「そうなんですよ、そうなんですよ。伴侶をもち、子を成す。想像もつかぬ故に、興味深いところです。貴方に”彼ら”の声が、どのように聴こえていたかは存じませんが、その差でしょうか。恋慕、ねえ」

 首を振りながら、冬人から。残り、四歩分。

 「理屈ではないよ。いずれきみにも、この人、という人が現れることを、心から願う」

 参りましたね、と顎を擦る○○。その自分の仕草に遅れて気付いては、おっと、と、手を顎から離し、続ける。


 「手早く、手早く。少し、脱線してよろしいでしょうか? 冬人さんは、聴き人である頃、声の主からは何と呼ばれ、どのような学びを享受していたのでしょう?」

 冬人は、肩を竦める。一言、学びか、と。

 「申し訳ないが、力になれそうにはない。人を殺めた時点で、経験こそ蓄積され、活かすことは出来ているのだが、何と呼ばれていたか、何を聴いていたかはさっぱり、思い出せないのだ。...言われてみれば、自分の名とは異なる、聞き慣れぬ諱で呼ばれていたことだけは、記憶している。"そういうもの"なのだろう。途方もない虚無感に襲われことだけは覚えているよ。まあ、私には既に娘もいたから、否、いるからこそ執り行ったことだったから、耐えることはさして難しいものでもなかった。ただ、もしも、その”何か”がないままに声を喪うとなると、自らの命を絶ってしまいかねないものだっただろう。それほどの、その程度の喪失感だったよ」

 目の輝きはそのままに、あらら、と、残念そうな言葉だけ、○○の口から漏れ出す。

 「それはそれは。しかし、実のある情報には疑いなく。…人を殺めるなど、愛や幸せを享受したものが起こすとは、くわえて聴き人であったならばこそ。頭に過ることすらないと、思うのですが? 難儀しましたよ」

 「はて、本当に難儀したのかな? 春の気付き有りきだったとはいえ、犯人像くらいは絞っていたことだろう。そうだな、例えば、修行僧のようである、など」


 素晴らしい、その称賛を以て、冬人の言葉を受け止める○○。

 「しかし、他人が描き出した像など、所詮は帳子の虎。当の本人が何を口から紡ぎ出すかはまた、別のお話しです。お聞かせください」


 少し長くなる、と、冬人はぽそりと呟く。

 「先に理屈ではない、と言ったが、愛や、幸せなど。そのようなもの、を、図らず手にしてみたまえ。真に尊いものを得ると言うことは、同時にそれをいつか失うかもしれない、という虚ろな棘を身体に纏わり憑かせては身を捧げ、日々抉り取らせて往くを良しとすることを指す。夜に移ろう星を待たず、暇が顔を退かせる度に、実体のない恐怖として左心室から襲って来るのだ。…この感覚はしかし、多くの人間も有することであろうが、賢しければ賢しいほど、その情動は強まる。皮肉にも、くわえて私は聴き人だったのでね」

 「期せず、初心な童が小町と目合うては、何とやら」

 鳴かぬカラスが、くわえて数匹。ありふれた立ち話としての距離には申し分なく、しかしもう、辺りを包む、常ならぬ気配を、知らず察しているのか、先までの人影はもう、見えないでいる。残り、三歩分。


 「ふふ、耳が痛いな。その通り、一度知ったが故の、生じる跳ね返りは、想像を絶するものでね。ただの人であればと、どれほど願ったか。聴き人故の苦悩ではあるが、しかしこれまた、故に何かに打ち克つこと、そのための知恵には長けていてね。成すべきことを見出すには、さして時間もかからなかったよ」


 「他人の愛や幸せを奪うことを、躊躇しないように、他人を殺すべきだ、と」

 頷きながらも、少しニュアンスが異なる、と続ける冬人。

 「奪う、というよりも、背負う、が正しいのだろう。子を、春を授かったときに、一目見たときに。私は愛するこの子を守るには、命とはどういったものなのかを、十分に知らず生きていたのだと、理解したのだ。そう、今一度、問う羽目になってね。事が起きてから、己が弱さを嘆くことは人間がすることだ。”慣らしておかねばならなかった”、いつかのために、命の重さというものに。だが、最初の命を殺めたとき、聴き人としての力の喪失と引き換えに、あることを理解したのだ。奪う、奪われる、そのどちらに於いても、其処に生じる恐怖は同一なのだと。それぞれの命に、それぞれが経てきた生き方、たとえば一途な愛情が、たとえば多事多難な哀情がある。侵してはならぬが故に、皆の其れらは、死ぬと同時に霧散するのではなく、奪った側へと、情動の結晶となって同じだけ蓄積され、背負うようにできていたのだ。言うまでもなく、たったひとつの命の喪失は、ありとあらゆるものへと伝播する。たとえば想い人、たとえば系譜、たとえば世の流れを容易く狂わせ、捻じ曲げる。その顛末を鮮明にフィルムに収める想像性を有していればいる程、殺めた瞬間に立ち会う程、その重みが、その命を通じて。放電し続ける情報として私へと流れ込んでくる。喜怒哀楽など、よくある言葉で誤魔化されている情動の灼熱が、命を奪う度に流れ込んでくるのだ。最早、当初にあった、慣れるなどと言う幼い覚悟は、二人目を手に掛ける頃には棄てていたよ。奪う側としての責務、その灼熱の輪廻からは最早逃れられん。なればこそ、この命ひとつで、どこまで背負うことができるかとね、道を進み続けることにしたのだよ」

 じっと、口を開かず、冬人の演説に耳を傾けていた○○が、二呼吸置き、重い言葉を吐き出すの前の、一歩。残り、二歩分。表情から笑みは消え失せ、眉間に皺を湛えている。冬人の右隣、壁上を走るスプレー犬の眼が、○○へと光る。

 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ、未だ強さを知らぬ、片脚引き摺るひもじい駄犬よ。其の鼻で嗅げる匂いなど、所詮は本能に従ったもの。本能とは、無くては成らないものではあるが、人は、お前は、其れだけあればよいのか? エドゥ=バル。それでは、力の強き者だけが、智の有無問わず、正しいこととなる。エドゥ=バルよ、人の世の理を教えてくれ。では何故、人には智が宿る? 更なる力を求めるためか、或いは。エドゥ=バルよ、力に頼らぬ道を見出すためか?」



 「それで、春さんを守るほどに。強かに成れた、と思いますか?」


 時が止まる。冬人は、目を伏せた。

 「…きみの言う通りだろうな。結局は、今ではもう、私もただの人、であったということ。立ち止まらなければ、何が肝要であったかを、振り返ることは出来なかったようだ。想いを背負えば背負う程、強かに成れたと、修行僧のような道を歩んだつもりだったが、其の者は然し、犠牲にするのは常に己が身ひとつ。やはり、人の命を殺めて、善いことはない、ということかな。ふふ、良い子は、真似しないように、というやつだ」

 いつの間にやら、微笑みが貌に戻っている○○が、まあ、と言葉を口にした。

 「そうと気付けたのであれば、なんのことはないでしょう。今から遅いと言うこともありません、踏まえて、では、何が強かであるかを、ふふ、僧のように独り、独房の中で求道しなければなりませんね」

 ふん、と、口から言葉だけの鼻笑いを飛ばす冬人。


 「…変わったやつだ。説法は、説いてくれないようだな」

 通る声で笑う○○。ぴくっと、その言葉に反応して、カラスが、喚き立て始めた。これにより、張りつめていた一帯の空気が、融け出す。

 「達観の仕方は十人十色。それが正しいのか、そうでないのかはいつも、自分の中でしか判断がつきませんから」


 ただし、と、○○は付け足す。残り、一歩分。

 「現世の法には触れる。其れに従うのは、現世に生きるものの責務です。貴方を見逃し、春さんに今まで通りの暮らしを、と想う私の欠片も当然いますが、私の今後に関わってくるであろうリスクのみならず、いずれ訪れるかもしれない春さんへの、そしてこの世に今、生きている人々へのリスクを考慮すれば、貴方を捕える理由としては、十分に事足ります」

 「…そうだな」


 ここで、間隔の短い割には軽やかには聞こえない、たったっ、と、という足音が、東から響いてくる。見えてきたのは、この場にいる二人にとって、愛おしくて仕方のない、病み上がりの女子高生であった。自分よりも、煌びやかな命が現れて妬いたのか、そんな場に、自分の漆黒がそぐわないと察したか。頭上を占領していたカラスたちが、これまた号令があったわけでもないのに、行く宛てなく、灰の空へと飛び去っていった。残り一歩分は、また、別の機会に。




 息衝いの荒い、可愛らしい声が、その対象年齢外の通りに染み行く。その様子を、仕草を、これでもかと、目にて愛でる二人。


 「お姫様のお出ましだ」

 「春さん、こんばんは。ふふ、間に合いましたね」


 息を切らしながら、○○の横で立ち止まり、じっと父を見つめる春。先の冬人の言っていたことではないが、その眼には、紅潮する頬を霞ませるほどの、確かな灼熱が宿っていた。

 「言っただろう、○○くん。娘は私に対して、眉間に皺を寄せることが好きなのだ。だがそれもまた、可愛らしいものでね。春、息を整えなさい」

 

 「…やっぱり、そうだったんだ」

 ふむ、と相槌だけ返す冬人。

 「”いつから”かな?」

 ふふ、と、その問いを春の代わりに受け取る○○。隙あらば口を挟もうとする春を、手で制し、宥めた。

 「私に逢う、幾らか前から、ですよ。それ以降は、見るからに、言葉に代えるほどに、その疑念が強まっていたようです。私が確信を以て貴方を尾行しようと考えたのは、ふふ、つい先日の話。”潮の匂い”ですよ、冬人さん」

 千でも、万でも億でもきかぬ。懺悔の時間すら与えぬ、許さぬ言葉の濁流が、春の口から一度に出るには、狭すぎたようで。細胞レヴェルで、息が苦しいと、身体が悲鳴を上げては、肥大化を始める。口元から溢れ出すのは、短絡的な言葉だけ。

 …やっぱり、そうだったんだ。


 「なるほどな。無論、娘の疑念にはとうの昔から気付いていたが、誤算はそれを漏らした相手だったようだ。ところで○○くん、春は”知っている”のか?」

 
 おっと、その話でしたね、と、息が整ったのにも関わらず、苦悶の表情を浮かべる春とは対照的に、○○は話を陽気に弾ませる。

 「これがですねえ、冬人さん。春さん本人には何も語り掛けないのですが、我々聴き人に聴こえる声を、傍から聴き取ることができるのですよ。即ち、我々は春さんからしたら、聴かれ人にしか過ぎない、というわけです。まさしく、ネクストジェネレーション、と云う、ふふふ」

 ほう、と、眼を開き、娘を見遣る冬人。ここまで表情を豊かに浮かべた父を見るのが初めてで、春は、少しのけ反る。

 「その意味でも、気にはなっていたのだ。私のような人間から、子が生まれた時にどうなるのかと。私譲りで冴えている子だとは思っていたが、まさかだったようだ」



 「…父さん、どうして」

 小さな頃から、このような抽象的な聞き方をしてはいけないと、目の前の男から再三に渡り注意されてきたのだが、これ以上、春の言葉が続かない。吐き出さなければならない言葉は有り余るものの、それらを思うままに父へとぶつけていたら、朱に染まる臓腑ごと逆流しては、何れぐにゃりと溶け出してしまいそうな感覚に陥っていたからであった。口を噤む娘の予想の通り、開口一番、冬人は娘に苦言を呈する。

 「抽象的な聞き方をしない方が、つまりは春のためになると何回も言っているだろう。…だが、この場では、その四文字だけで具体的だな。其れについては、先程、○○くんに、すべて話している。短いスパンで同じ話を繰り返すことは、性に合わないのだ」

 狙ってか、こちらの気を再び逆立てる父へと、春は噛み付こうとしたのだが、それよりも先に放たれた、○○のひとつの問いによって、声を失うこととなる。


 「今まで、何人殺しました?」

 「二百七十九人。大まかな内訳なら、自らの手で殺めた人数が百三十人になる。今日でタイマーはストップだが」


 春の脳神経の一切が一度、中継機能を停止させ、直近の録画分の確認に急遽、入る。白紙に戻る、とは正にこのことであった。この、目の前にいる、父であるこの男は。二百七十九? その数字は、いったい、何処から来ている? もう古く、価値のない空気が、口腔内に滞留。何を示している? 殺した数? ひとりで? 漏れ出す。ひとりの人間が、それだけの、同じ人間を、殺すことが出来るのか?

 この春の問答は、ある一つの仮定を、たったひとつを捨象すれば、しかし成り立つものであった。この男は、此れは、人間ではない。

 だが、こちらも、この人で無しの娘だ。どうせ、当の自分も、化け物と、何ら遜色がないのだ。今この時もそう。初動の衝撃にこそ、未だ耐性はないが、頭の中が窮地に追い込まれた時の、この謎めいた思考回路のリカバリーの速度が、その片鱗であり、証左なのだと。それどころか、今ではもう、ヤオロズとかいうやつらの声も聴こえるのだ。

 ”常人ぶるな”。荒れた手つきでまた、筆を手に取り、白紙に戻ってしまった脳へと、同じ文字数だけ、春は即座に書き起こし始める。

 「なんとまあ! その方面に明るくないのですが、下手したらギネス記録ではないですか?」

 その合間に、こちらの空気もまったく読めないままに、場を茶化す○○を、ほぼ反射と言っていい速度で、目を細め、睨み付ける春。


 「○○さん」

 これは失礼、といつものようにヘラヘラとしながら謝る○○。…むかつきこそするが、この人が変わらないままでいてくれるから、辛うじてこの場においても、自分を保てている節があるように、春には思えた。

 

 「…母さんが。あれほど優しい人はいないって。いつも言ってたのに」

 決して、女性の特権、武器のように、絶対に頬を伝わらせるものかと、していた涙が。母を想っては、自然とまた、伝い始めた。先の独りで流したものとは違い、この人生の中で最も見せたくない、二人の目の前で、よりにもよって。その涙を捉えては、視線を冬人に移す、○○。

 「春さんから以前、お聞きました。自転車事故であったと」

 それに対し、冬人は頷く。

 「涙を拭きなさい、春。その通りだ。当時、住んでいたマンション近く、或るスーパーの手前の交差点は、よく車が往来するものでな。くわえて朝方、また夕暮れ時にはよく大型のトラックが通っていたのだ。工業地帯が近かった、というのもあるのだろう。特に雨の日などは交通事故が一ヶ月単位で発生するもので、巷ではよく知れた名地だったよ。故に、自転車で行くのは止めた方が、あるいは、別のスーパーで買った方が、と、何度も説得したのだが、籠があって楽だ、何より近い、と言ってきかなくてな。暇を見付けては妻の使う自転車の点検、清掃をするようになり、いつしか趣味のひとつになっていたよ」



 反芻しているのか、目を閉じて。以上をすらすらと話す冬人に対し、声を震わせながら詰め寄る春。

 「…まさか、母さんが死んでから、そんなことをし始めたの? そんな風に、母さんを、使わないで」

 拭いて尚、零れる涙に構わず、怒りを湛えた言葉と、表情が、冬人を突き刺す。が、冬人は人差し指を、蟀谷に当て、重い溜息を吐いては、首を横に振り出した。その仕草に、声を荒げようとした瞬間。

 声を高らかに、横の○○が笑い出した。先に散ったカラスだろう、その鳴き声が、向こう側で返事をしている。二人の逸した様相に、理解の追い付かない春の感情が、夕暮れに融けていった。○○は、横目で、春に、次のように口を開く。



 「お父さんにとって、心から愛する方の、”自転車点検”は、さぞ念入りだったことでしょうねえ、春さん」

 まったく、と、冬人が同調する。

「まだまだ察しが鈍いな、春。私の娘だ、精進しなさい」



 春の、柔い頭蓋が。じりじりと焦げ付いていく。頭頂部やや右から、パシッと、罅の入った音まで聞こえて、広がる世界がブラックアウト。目と口からの、排熱が間に合わない。涙など、瞬時に蒸発した。がたがたと、冬にはまだ、まだ遠いというのに、歯と歯が傷付け合い、全身がぐんと、硬直して、動かなくなる。右耳に掛けていた筈の髪が垂れて来て、目の前を覆い隠してしまったようだが、それを掻き分ける力もなく、開いていても何も見えないし。もう目の前にいる何某を映すことも、したくなかった。

 こいつだったのだ。

 


 「…悪魔め」

 「心外だな。悪魔から天使は産まれんよ」



 何処かで聞いた台詞を耳にした途端に、春の全身は脱力し、へたりと、急に足に力を亡くしては、よろけ、倒れ込む。○○はそっと、その春の肩を支え、ゆっくりと、腰を下ろさせた。

 青い啜り泣きだけが響く。その通りへと、東から少しのガヤと、いつも夜中に、家の窓越しに聞くくらいの、あのサイレンが混ざり始めたのは、或る父親が悪魔と判定を下されてから、一分も待たない頃合いだった。像を再び結び始めた視線を横目で流していると、小走りで、春にとっても見覚えのあるスーツの二人組が雪崩れ込んできた。こちら三人を捉え、状況整理および把握に努めるために動きを止める二人へと、独りだけ未だ目を送らず。確りと、愛娘だけを見据えて、悪魔は諭した。


 「覚えておくといい、どれだけの賢者であっても、ただこれだけ、と想えるものなど、いつもただ一つだけなのだ。母さんのことは今、思い返しても、身体の全てが引き裂かれる、春。まあ、○○くんとの予想とは少し違うものだがね。私の妻だ、直接この手で殺した。雨の日の自転車横転での頭部損傷、意外と多い死亡例だ。母さんは、至上の体験と苦しみを、私へと与えてくれたよ」


 娘と、途中で合流したばかりの二人が、この言葉に息を呑んだ。淡々と、表情を湛えることもなく、気の触れたようなことを口走る男に、支配される。この沈黙も、放っておけば十秒は続いたのだろうが、しかし舞台には、もうひとり、"同じような"、カラス譲りの黒を纏った主役が残っていた。

 

 「すべては春さんのため。ですが、悪魔が愛を以て何をしても、所詮は悪魔の所業です。ふふ、御愁傷様」

 ふん、と、冬人はまた、言葉だけで○○の皮肉を一蹴する。

 「…だが、良かった。まだ、悪魔と呼ばれる程度の、器で収まったことは」

 未だ状況を掴めないままの倉野でも、ここが契機だと言うことは分かったらしい。腰に掛けていた手錠に腕を伸ばしながら、神保を追い越し、…少々荒い息のまま。冬人へと、近付く。





 「…四宮冬人。殺人未遂罪の容疑で逮捕する」


 倉野は、この台詞を、敢えて其の娘に聞こえるように、容疑者へと告げた。冬人は抵抗することなく、両の手を差し出す。すんと、倉野の匂いを肺に入れる冬人。

 「…やはり、まだ○○くんが言う程には、私も鈍ってはいないようだ。御二方、娘が何度かお世話になったようですね。ご迷惑をお掛けしました、有難う御座います。...そう言う私も、積もる"もの"がありまして、ご迷惑を、お掛けする次第ですが」

 目を丸くする倉野と、神保。一目見た段階から、これが例のカマキリかと身構えていたわけだが、其の口から出る、――理解が及ばない節々の言葉以外は、佇まいからも、言動からも、一切犯罪の匂いを感じさせないものであった。本当に、ただの、いち市民でしかないこの男に、澄んだ礼を言われたことから、一瞬、倉野は手錠を構えた腕を、止めてしまう。

 「…そんだけ人を殺したってんなら狂ったフリでもしといてくれ。情報量が多すぎて、どう扱っていいのか分からんようになる。余罪に関しちゃ、とりあえず署で聞いてからだよ。…何人やった?」

 

 改めてガチャリと、警察が介入しているがために野次馬がちらほらと現れ出した路地裏へと、予想以上にその鉄の匂いが広がる。冬人が答える前から、意気揚々と、その数字を。もう暗い空を見上げながら、鼻歌を交えながら、横槍を入れる○○。

 「やれ二百七十九、それ二百七十九。すごいですよねえ?」

 「に…」

 正義を背負う二人が戦慄したのは、年端の行かぬ春でも見て取れた。やはり、誰にとっても異質なのだ、ここまでの次元というのは。数秒経って二人は、聞かぬ振りでもしたのかと思うように、"普段通り"を装い始める。どちらも、目線が冬人から逸らして、泳いでいる。正常化バイアス、とか、聞いたことがある。たぶん、それなんだろう。

 
 「○○さん」


 とりあえず、怒気を孕んだ声で神保が責めたのは、調子付いている○○であった。失礼、失礼、と、鼻歌を止めては、わざとらしい咳払いをしている。冬人が、そんな○○へと、声を掛けた。そうしながらも手元は、手錠の感触を確かめるように、鎖に音を与えて、遊んでいる。

 「…○○くん。春を頼んだ、すまない」

 「いいえ、最初から、そのつもりですよ? …お二方、」

 倉野と、○○に次いで野次馬へと矛先を向けては立ち振る舞いで威嚇している神保の双方に○○は請う。言わずとも、倉野は察することができていた。


 「手短にな。遠目からは見させてもらうぞ」

 すっと頭を下げ、礼を述べる○○。

 「貴方がたに頼んでやはり、正解でした」

 顎を擦り、笑みを零す代わりに、顔を逸らす倉野。

 「よせ。見つかったら、始末書では済まん」


 冬人の手元を無地のハンドタオルで覆い、遠目から見た時に三人の姿が違和感のないように見せては、距離を置く倉野と神保。

 神保は、その光景を遠くから、倉野とはまた異なる面持で、見つめていた。何を、話しているのだろう、と。話を聞く限りにおいては、あの異質な、...化け物と、その娘と。そして、その隣で、顔をほころばせながら、落ち着くことなく、二人を囲んでは歩き回る、○○と。あの輪に立ち入らぬ、警察とは。この春の折、息捲いては桜並木を横目に、正義へと己が身を駆り立てた、自分とは。確かに、あの犯人は、もしも"そう"だとするならば、自分どころか組織としてみても、手に余るほどの狂人だが、それでも。黄色い嘴と言われようが、啄むことすら敵わなかったと言うのか。何のための日々の研鑽だったのか。...否、まだ未熟なのだ。では、何が正しいのか。

 神保はそう思考している合間に、ここまでの異常性を孕んでいるがために仕方のないことだとは思うのだが、まだ倉野も気付いていない、根本的な穴を冷静に捉え、認めることことに成功した。しかし、これもまた、自分がまだ未熟であることの裏付けなのだろう、その開いた穴は同時に、別の警察官二人を引っ提げて、気遣いの足りぬ急いた足音とともに、現場へと戻るため、こちらへと駆けて来ていた。その女性は、引き攣った面持ちで、左手首を抑えてはいる。

 それを見て神保は、青さ混じる、誰に向けたでもない妬みを、そっと胸の箱に仕舞った。明日からはもう、誰かがあのカマキリに捕食されることはなくなるのだ。それで、今は十分なのだ。




 「落ち着いたか、春」

 「…気安く話し掛けないで」

 「これは手厳しいな」

 
 まあまあ、と、そんな二人の会話を、にこにことしながら横で聞いていた○○が、口を開く。

 「何はともあれ、ですよ。手短に、手短に。お二方、話したいことを、話しておいてくださいね」

 はい、と気丈に振る舞い、頷く春だったが、正直に言って最早立っていること自体がやっとだった。もういいから、早く帰って、あのベッドにまた、潜り込みたい。眠くはないけど、風邪は治っているけれど、そうしたい。この父擬きの何某への恨み辛みとか、明日からどうしていこうとか、いやでも、さっき○○さんが手助けしてくれるとか言ってたな、とかいう安心感とか。もういいから、明日になってから、考えたかった。

 

 「春」

 再度冬人は、娘の、その短い名前を、重い言葉で声に現す。

 「この人は、決して私のようには成らない。まあ、私と違い、聴き人だと言うのに、ここまで人懐こく飄々としていることに関しては、甚だ疑問が絶えないのは確かではあるが。春に声が聴こえるというのも、彼との出逢いも、私の終わりも。覚えておきなさい、やはりすべてに意味がある。離れず、○○くんの傍にいるといいだろう。...最後に、誠勝手ではあるが、やはり偶には会いに来てほしいというのが率直な思いだ。恐らく、葛飾に運ばれるのだろうがね。お前の顔を見たいという思いを抱くくらいは、ふふ、悪魔と言えど、もっていても、いいのではないかな」


 ふざけるな、というありったけの、春の憤り冷めやらぬ思いが、全身を駆け巡り、容赦なく、冬人へとぶつけられる。筈だったのだが、やっぱり、口から出る言葉は、未だに制御できた試しがあまりなくて。その直後から後悔の念と、気恥ずかしさが警報クラスの波浪となって押し寄せてくるのも、もう知っているけれど。今はもう、何でもよかった。


「…考えとく」



 はじめて。春が今まで、生きてきた中で初めて。冬人が、父が笑った。見逃さなかった。ぎこちなさも何もない、自然と、家族へと普段から微笑み慣れてるかのような、何処にでもいる、けれど唯一の父親の顔をしたのだ。時にして刹那のものではあったが、春にとってしてみれば、もう今後、忘れることは決してないだろうと言うくらいに、鮮明に海馬へと焦げ付いた。温もりと言うには、幾らか痛みが伴っている。


 「ありがとう」


 呆気にとられ、返事がままならない春から直ちに目を逸らし、さっと、真顔に戻る冬人。


 「さて、そろそろ行かねばならん。○○くん、どうか、改めてではあるが、春を頼む」

 ええ、ええ、と二度頷く○○。

 「改めてではありますが、もちろんです。この世界を救うには、私一人では荷が重いものでしてね」

 冗談交じりに、冬人が口で嗤った。

「ふん、きみはキリストにでも成ろうというのか?」

 ○○は、この問いに関しては、珍しく即答でなく、どころか冬人の言葉に被さるように返した。先までとは異なり、笑みは絶やしていないが、足を止めている。


 「いいえ、殺しますとも。あの場所を頂きます」

 冬人は、その言葉を聞いて、じっと、○○を、口を少し開けて、見遣る。実に、二秒。春から見ても、その眼は、確かに輝いていた。宝でなく、その在処が記された布切れを見つけた冒険家のような。こんな眼の色を、していたのか。


 「今、すべてに合点がいった。そのように、"本来は"使うのか。なるほどな」

 ○○は、肯定や否定で返さない。

 「貴方も、独房でのんびりするばかりの余生にはなりませんよ? その折は、どうかよしなに」


 うーむ、と顎に手を遣る冬人。

 「なるほど… いや、なるほど。なるほどな」


 「...頭、悪くなってる」

 ここぞと言わんばかりに、今までの仕返し程度に、毒を吐く春。今、○○の放った一言は、前に言っていた、継承やら何やらに関する話なのだろう。ただ、前に聞いていただけだけれど、ちょっぴり。春は父に対し、背筋を反らした。...我ながら、痛々しい。


 「む、すまん。だが、そうかもしれん。○○くん」

 「はい」

 「もしきみが、私が聴き人と呼ぶ者に出会った際には、是非とも私のところを尋ねてきてほしい。幾らか示し合わせることくらいは出来るだろう」

 そうしたいのは山々なんですがねえ、と困り顔で冬人に首を振る○○。

 「実はもう一人、既に当てがないこともないのですが、これがまた、難儀なものでして。うーん、私の忍び足を以てしても、貴方の顔を見に行くことは、容易ではないでしょう」


 「随分、含みのある言い方をする」

 むふふ、と気色の悪い笑みで、○○は続ける。

 「砕いて言いましょう。その人、ヤバい気がします。もしかしたら、私も貴方も、殺されるかもしれませんね」

 地面にたまった泥が、気持ち揺れる。そうか、と続ける冬人。

 

 「な、何、何の話?」

 途端に、二人が死ぬかもしれないと言う言葉に動揺してしまったのと同時に、話についていけなくなった春が、慌てて確認を求め出す。

 「春は心配しなくていい。が、尚更、春には生きてもらわんと困ると言うことだ」

 「その通りです」

 「重いんだけど…」


 このトリオの緊張が良い具合に解れてきたというときに、これまた仰々しい、別のサイレンが、通りへと近付いてきていた。これ以上引き延ばしも効かない頃合いだと、神保と倉野が、三人の方へと歩み寄る。

 「...はあ」

 溜息を漏らしたのは、倉野だった。○○は今度、こっぴどく説教するとして、今回は、終始、神保に悪いことをしてしまった。本当に、この前は、ただただ○○という人間を、紹介したかっただけだと言うのに。どう穴埋めをするべきか、確かにそれもそうだが。もう今回の件で嫌気がさして、自分の隣にいることに懲りてくれないかと、そう願ってしまう、正直な自分もいた。自分で言うのも何だが、桜田門は伊達ではない、もっと、こいつを育てられる良いやつなど、ゴロゴロいるのだ。このカマキリとやらの所為で、どうせ煙草の本数が、明日から増える。

 これでも神保が、自ら去らなかったとしたならば。その時は、今まで以上に横で煙を吹かせては、最近幾らか取れていた眉間の皺の数を、また元に戻してやろう。



 ⇒ 悪魔解体: 続

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