悪魔解体: 続

続 - 御もとに詣づ

 ⇒ 悪魔解体: 五(下) より


 悪魔が一匹消えた程度では、迂闊に眠ることも許されぬ、東の都は中央区に座する、銀座。日比谷との境として機能する高架の下で賑わうコリドー街には、今日も、浮ついた心持ちを、口を並べては品と代える若い男女で溢れていた。交錯する、口紅と香水、横目と小声と、意図せず喉を通る唾液。店の並びには、銀座という名を冠しながらも、膨らんだ財布を持たずして愉しめる居酒屋も構えており、それらの換気扇を掻い潜っては、無秩序なままに混交された匂いが、はたまたどうして。不快とも断ずることも出来ない、無二の麝香として、こちらの食指を動かし、足を運ばせる作用を生み出している。その所為で、人と云う雑音が、上層に響き渡る車輪の音では飽き足らず、昼時にその色の付いた情を衣の下へと隠していた反動だろう、口をかぱり開け、駆け回る。

 他方、亥の刻に入った頃合い。其のさざめきを他所目に、泰明に構えている某小学校では、ちらほらと申し訳程度、明かりをまだ絶やしていないようで、西洋の気品を取り入れた、その特徴的な外装に知らず適当な翳を与えては、寂寥さを脚本もないままに演出していた。その近くのビルのひとつに踏み入り、二階分下へ音を鳴らせば。うねる飛び石と、その傍にぽつり佇む行灯と、木地色の全面格子が。温もりある橙の色香で、今宵も客をもてなしている。

 二十一時二十三分。軽やかな、しかし確かに響く、からからからという、格子の声。特定の店を贔屓にすることは滅多にない彼が、何故この店を、珍しく気に入っているのかは、自分を出迎えてくれるこの音が、実に好みであるから、という理由が大きいらしい。



 「先生、」


 少し驚いた顔持ちの、調理白衣の袖が揺れる。

 「こんばんは。ふふ、お久しぶりですね」

 「丁度、寂しくしておりました」

 「あら、今日は建て前では、ないようです」

 勘弁して下さい、そう言う店主の右手で遊んでいた包丁が反転、その洗練された波紋を、暖色の灯りに反射させた。

 「機嫌が、よろしいようです。何か、いいことでも、ありましたか」


 「ええ、とても。さてさて、今日は奮発しに参りましたよ。久々に、のどぐろを、と思いましてね。カップ麺の食べ比べにも、少々飽きが来ていたのです」

 「お身体、大事になさって下さい。貴方が倒れると、困る方が多いのでしょうに」

 「おや? 最近のカップ麺界の発展の具合をご存じでないようで。ほんとうに美味しいのですよ?」


 今まで出会った人の中で、頭一つ抜けた聡明さをもつ方だと言うのに、この人はいつも会話の途中で、このようにキャッチボールのリズムをわざと崩すことを好む。不器用ながらに何故そうするのかは、理由こそ聞いたことはないが、お蔭で自然といつも、相対して張っていたこちらの気が和らぐことも確かである。

 「私は体調のことを慮っているのですが… ジャケットは、どうぞそちらに」

 「ありがとうございます」

 「お飲み物は?」

 「ふむ。...では、作を、一合」

 「先生…」

 ちらと店内に目を遣る。週の明けだからだろうか、今日は気持ち、いつもよりも混んでいない様子だ。店主の真ん前を陣取る形で、カウンター席へと腰を下ろす。座椅子のクッションは、言葉に起こすほどには、柔くない。しかし、これくらいで、よいのだ。

 

 「いいじゃないですか、今日は古き伊勢の宮を想い、反して現を抜かしている銀座で浸りたい気分なのです。そうは言っても、東海の方面など、久しく行ってはいないのですが」

 「ご多忙とは思いますが、普段からの激務に対するご褒美代わりに、休暇を取って、参られてみては?」

 「そうですね。ふふ、パワースポットの手も借りたいほどですから」


 店主は、ここで口にはしなかったが、確かなことをひとつ、知っている。この人はパワースポットなどに、今までも、これからも。露一つ分の気すら、留めることはないだろう。

 「...どうぞ。お疲れ様でございます」

 「ありがとうございます」


 作の中でも、一層花香る其れが、せせらぎの如く、滑らかに彼の喉を通る。…実を言えば、作は、そこまで好きではない。だが、この舌触りが、微かの過ぎるものではあるが、自分の好みと薄ら異なるから、また心を擽られる。こうして喉へと通す度、舌の上で転がす度。では、半年後に来てみようか、と期待をしてみるのだ。経験上、舌は年齢で変わる。皺がまた一つ増えた頃、美味になっていることも、今まで多くあった。


 「歩いて来られたのですか?」

 「ええ。鼻歌交じりに。若いとはいえ、やはり健康にも、気を遣わなければ」

 「暑かったでしょうに」

 「それが、夏の楽しみ方ですよ」

 「はは、今日は、良く喋って下さりますね、先生」

 「もちろんですとも。久方ぶりに舞い上がってしまい、旧友に電話をかけてしまったほどです」


 ...はじめて、先生から、友人の話の聞いた。切り身を捌く指先の力が、自然と薄まる。

 「それはそれは。疎遠になっていたのですか?」

 「半分、半分です。私では行えないことも当然ありましてね、そんなとき、たまにお手伝いを願うのです」

 「先生にできないこと、ですか。はは、ないように思いますがね」


 「そうですか? 例えば、ふふ、人殺しであるとか」



 「これまた、冗談のお強い。聞いていなかったことにしておきます、警視殿」

 「あら、最初に日本酒を、と言う私を止めなかった貴方の責任でもありますよ?」


 「参ったなあ。...お待たせしました」


 出された肴が、艶やかに灯りを羽織る陶磁器を以て、外上の前に出る。箸でその身を掴んで、口に入れて、咀嚼して。そうそう、こののどぐろの、俗に云う旨みが凝縮された濃厚な味わいが、一口の大きさながらに舌上で、野原に放たれた童のように、駆け回る。

 本当に、嫌いだ。己が日本人としての、生来の奥ゆかしさを、根元から殺ぐ味だ。...そう言えば、九州では泥パックの温泉が著名だと、山本警部補から聞いた。試したことはないのだが、本当に、泥をそのまま顔に塗るのだろうか。その効能は? 成程、伊勢も然うだが、今度の休暇は、もう少し遠出をしてみても、よいのかもしれない。

 とても、美味しいです。そう店主に伝えて外上は、さっとスマートフォンを取り出す。無難なところで良い。皆にとっての、一抹の話題になれば、それで良い。


 その画面の壁紙は、久しく白一色のものにしていたが、のどぐろの油が口の中でこびり付いていることへと眉を一瞬、店主の目を盗み顰めたためか、外上はとりあえず今の気分のままに、黒一色に変えてみた。...成程、こうすると、自分の顔が、映ってしまう。それも別に好まぬが故に、どうしたものかと、この食事処の風情も十分に愉しめぬまま。くわえて作の加減だろう、この日はもう、九州の温泉地を仔細に検索することはなかった。そうしてまた、翌日の勤務中に、外上ははっと、思い返す。




 真の夏、蜃気楼二歩手間。疎らではあるが、整えられた針葉樹と豆腐が並ぶほっそりと敷かれた歩道に複数人。疲弊した命一つ。その横に、その命嗤う命一つ。


 「さてさて。春さん、代えとなる苗字、何がよろしいですか? 私も決めあぐねているのです」


 先日までの、暇を知らぬ、重なる聴取で、傾げる首も重たくなってしまった春は、適当な相槌を以て返した。


 「何が、と言われても... と言うか、単純に○○でいいんじゃないんですか? ...○○、という名前、気に入ってるんじゃ」

 「ちっちっち、春さん。気に入るものにはね、"順番"があります。あと、そうするのにも色々と理由がありましてね。...そうだ! 江藤とかどうです? 江藤春。ふふ、何処かで聴いた名では、ありませんか?」

 「…絶対来ますよ」


 眠気はないにせよ、もう回す頭も持ち合わせていない春でも、容易に想像できたように。二人の道端に転がる小石が、溜息交じりに噛み付いた。


 「何と情けない、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。人の情を指の輪に代える、愚かにも契約を形にした人の末路よ。呆れる、とはこのことなのだな、エドゥ=バル。お前自身は変わり往くものでなければならないが、それは不変の其の名有ればこそ。新たな発見を与えてくれることは光栄だが、呆れることは喜びには繋がらない。それとも、お前が、私たちに呆れているのか? 教えてくれ、エドゥ=バル、で、あれば。私たちは、何のために此処にいる?」


 良い線いったと思ったんですがねえ、と、顎を擦る○○。春は、申し訳ないという念から、アスファルトへ顔を伏せる。

 「引き取り人とか、苗字変えるのとか、...転校の手続きとか。大変なんじゃないんですか? 迷惑掛けるのであれば…」

 んん、と彼は喉の音で春の言葉を遮った。

 「私は案外、こう見えていろんなお得意さんが居ましてね。頼めば、ちょちょいのちょいです」

 「口調が段々崩れてきてますよ…」


 この人は"そのようなこと"を、微塵も。頭の片隅に置いていないのだろうが、恐らく同じ、屋根の下で住むことになる。だが、だからと言って、何かが起こるわけでも決してないのだ。娘名義というだけで、とりあえず"上がり"。それでも、確かに脈打つ高揚感があることを、もう春は隠さないことに決めていた。○○も、きっと、気付いているのだろうが当然、触れることをしないでいる。


 「そういえば春さん、神田さんには、さよならを伝えましたか?」

 更に十度、下に視線を調整する。あの時、胸の奥底に刺さったままの硝子の槍が、また春へと痛みを思い出させた。

 「…電話で。夏休み中には、会おうねって」


 「それはまた、会った時には、気まずそうな顔を、互いにするんでしょうね!」

 「なんで喜んでるんですか…」


 元はと言えば、貴方が突き回したからではないのか。こっちは、貴方と出逢ってから。...どうにか皮肉を、喉に滞留する其れを吐き出したい春は、彼を刺き指す言葉を捻り出すため、脳髄へと右手を入れて、語彙のスープをぐじゅぐじゅに掻き回し始める。


 「…○○さんと出逢わなければ、今まで通りで。父は、父のままでしたよ」


 そんな精一杯の、言の葉も。想定した通り、彼には通用しないようだった。


 「ふふ、そうは言いつつ、すっきりしたでしょう? 顔に書いています」

 「…はあ」


 人の気も知らず、蝉がもう喚いていると言うのに、この道へと植えられた、自然と言うにはほど遠い、人工植林が、しかし何処かまだ、新緑の匂いを鼻腔へ届けていた。そういえば、聞けず仕舞いだった、多忙だろうと踏んでいた○○であるが、平日の昼間から、自分なんぞに時間を割いて、良いのだろうか。

 こちらが気を遣っているとも、知ってか知らずか。前を行っては、お勧めだと言う店のために、春の数歩遅れた足取りを振り返ることなくすいすいと、人込みを掻き分けていく○○。それでも、背丈が高いために、黒いために。春も見失うこともなく。時折、人込みに当てられ過ぎることで、なぜ今自分が、此処を歩いているのかを見失いがちになる東京だが、もうそこまで、嫌だと言うほどでもない。


 「もうすぐ、着きますよ。ふふ、絶品ですから、お覚悟をば」

 「…何が、美味しいんですか?」

 「何って。貴方、サザエに決まっておりましょう」

 

 こちらへ振り返った○○を確りと認めてから、春は思いっきり眉間に皺を寄せた。

 「...下衆な…」

 「しかし上衆よりは気さくでしょう? おっと、ここです」

 

 なるほど、上衆というのもあるのか。またひとつ、いつ使うのかも分からない知識を脳に送りながら、昭和を想起させる格子戸を鳴らし、○○の後に続いて店内に踏み込む春。そういえば、と、席に座る前から、乍らのままに。明日、埼玉に移りますと○○から聞かされて。そこからはもう、満足にサザエの味を味わえず、どころか夕暮れまで。詰問と言って差支えのない勢いで○○を拘束し続けたという話も、後日あいつに会ったときのネタのストックとしたならば。


 比べるとこの人は、悪魔とたとえるには、可愛げが過ぎて。

 しかし神とたとえるには。言葉が過ぎて、幾分たちが悪い。



 -続-

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