悪魔解体: 三(中)

 ⇒ 悪魔解体: 三(上) より


 「冗談じゃねえ」

 「…そう、ですね」


 二十時。見上げれば航空障害灯、赤く乱れては四方で煌めき、視線散らした先のタワークレーンたちが、月に照らされ黒く浮かび上がり、まだ息絶えることなく、ベースラインと成っては雑踏というメロディを支えている。言葉起こさずとも、梟が交うわけもない、そんな宵の東京の涼しい風が、二人の背広を優しく撫でていた。少し駅の方へと目を遣れば、花の金曜日と言われて久しい週末ということもあり、スーツ姿の人々が、気持ち靴底に空間を創り、解放されたような顔持ちで闊歩している。

 その浮ついた気に当てられたのか、倉野の表情は強張りを緩ませ、口調までに影響を与えていた。


 「…どっかで一杯飲むかあ、神保?」

 「宜しければ、是非。…ですが、娘さんには?」

 はっ、と、喉の近くから、溜まっていた空気を押し出す倉野。

 「いんや、むしろ俺が家にいない方がせいせいするだろうさ。…ってか、まだこの時間なら、ファミレスなりで駄弁ってそうだけどな」

 そう話しながら、灰色に染まったスーツの内ポケットから、使い古した様子が窺える、ガラパゴスケータイを取り出す。くらべて、その角よりぶら下がっている、ひと昔のご当地キャラクターらしいキーホルダーには、皮脂の汚れも見られず、やたらに綺麗な状態のようだ。

 「…メールも未だに慣れん。ちょっと待ってくれるか」

 「はい。…電話でお伝えしないのですか?」

 目線を光る画面に落としたまま、倉野はその節介を足蹴にする。

 「馬鹿野郎、わざわざ嫌われたい親がいるか。俺が話しかける度、声が二段は低くなるんだぞ」

 たどたどしい手付きながら、メールを送信し終わったのだろう倉野は、パタンと携帯電話を二つに折る。そうしてから数秒、しかし、足を止めたまま、何やらうーむ、と顎を擦り出し、再びそれを開き出した。何か閃いたのだろうか、今度は頬に添え始める。


 「…おう、さっきぶりだな。今、少し空いてるか? …わかったわかった、適当に店、決めて入ってるぞ。場所はまた後で、電話入れるわ」

 ピッという音とともに、ふん、と笑みを零す倉野。神保は、その話しぶり、顔つきから、それとなく察する。

 「○○さんをお誘いしたのですか?」

 「おう。…なんだろうな、ほんのさっきまで、呼ぼうとも思ってなかったんだが。管理官と睨み合った後だってのに、ふとなあ、あいつの顔を見たいと思ったのさ」

 ひどく同感する、神保。先刻、○○を元手に、奥知れぬ思惑を握り締めた外上の握り拳が、僅かながらに緩んだ、否、恐らく意図的に緩ませたのは明らかだった。...だが、知ってなお、外上は、その在り方に一切の邪の類をもたせず、どれだけ斜に構えて彼を見ても、非の打ち所がないままに、ただ人の世のために尽力している人間だと見受けられる。それは疑いようがなく、神保自身がただ、子どもがペーパークリップを捩り曲げてはバラバラにするように、曲解に曲解を重ねているだけで、外上はただ、○○への興味本位で、また、自分たち二人を遊び半分で、ただただ揶揄かっただけなのかもしれない。思い返せば、夕刻の一時も、何とも煮え切らないままに打ち切られたようなものだ。○○へと、独り善がりの警鐘を鳴らしたい、というのも確かであったが、何れにせよ、神保の脳裏からは、他人がよく用いるような、張り付いたような笑顔や言葉たちを決して持ち合わせていない、あの○○の顔が張り付いては剥がれないままでいた。

 「○○さんがお酒を飲む姿を想像できません」

 神保は、つくづくと思う。彼が、酔いを回して、酒の所為にして、何かしらの粗相をする姿を、全くに想像できない。それどころか、果たしてアルコールの作用が働くのかどうかすら、疑いたくなるほどだ。倉野は、その神保の疑念を顔から察したのだろう、笑いながらいやいや、と正し始める。

 「そんなに俺もあいつと飲んだことがあるわけじゃないが、はは、まあなんだ、酔うには酔うぞ。…強いのには違いないが」

 「それは楽しみです。お店を探しますね」

 さっと神保は、スマートフォンを取り出す。...倉野のことを考えれば、有楽町からそう離れるわけにはいかない。慣れた手つき、その指先でフリック入力を行う神保の手元と、自分の手にあるガラケーを交互に見遣る倉野。

 「ふむ、別に拘ってるわけじゃあないんだが。第一、それに代えたところで、使い道は変わんねえしなあ」

 「ふふ、以前の父も、そのように顔を歪めては、偏に便利になればよいと言うわけでもない、と口癖のように言っていました」

 そうか、と、倉野はずいと、神保の携帯電話の中を覗く。そうしながらに小さな声で、俺に合わせなくていいぞ、と囁くあたりが、どうにもこれまた、その父の温かさと重なる。

 「そういえば、○○さんはどのような好みがあるのか、ご存知ですか。お酒や、料理など」

 「うーむ、なんでも食べて飲んでた気がするがな。俺はビールがあるところなら何でも構わんぞ。奢りだ、お前の好きなところを選べ」

 ありがとうございます、そう感謝を伝えるものの、どこか○○はイタリア料理を好みそうだ、という自覚できる偏見で、有楽町近辺のバルを検索し続ける神保。週末の東京は、居酒屋と言う居酒屋が、明日にもクリーニングで落とす予定であろう皺で草臥れたスーツたちに占領されるわけだが、その居酒屋の数自体に際限がないこともまた、東京の良きところである。



 有楽町方面へと五分強、歩を進めた、その沿線。南へと少し下った通りにひっそりと佇む、カウンターがメインの、隠れた名店と言われたイタリアンバルが、そこに在った。インターネット上で高評価であるにも拘らず、"隠れた"、というのも可笑しなものだが、この無機質なコンクリートで覆われた外面と、ランタン調の屋外照明を見れば、その表現も頷ける。踏み入れば、対して、おおいに二十から三十代の活気で包まれていた。店内全域を照らす濃い暖色灯と、薄ら遠くより聞こえるジャズミュージックが、突き抜けた華やぎの人々とは裏腹な、アダルトな毛色を付け足している。

 「いらっしゃいませ。お二人様で、よろしいでしょうか」

 「いえ、遅れて一人、合流する予定です。席は空いていますか?」

 アルバイトをしている大学生だろうか、その若い女性が元気よく頷いては、カウンター奥にあるテーブルスペースへと二人を案内する。神保が見る限り、空いているのはもう二組分のみで、しかもそのうち一組は予約席、と銘打たれたシルバープレートが、机上に置かれていた。ネットの評判、その確かな影響力の通り、この時間に飛び込みで案内できるのは珍しい、とそのバイトの女性は言う。


 「…なんだあ、やけに洒落てんなあ。まったく、最近の若いやつは、ませてるんだな」

 「好きなところで、と、仰っていただいたもので。煩わしいのであれば――」

 その言葉をいやいや、と、即座に遮っては辺りを見渡し、それでいてソワソワした素振りを見せる、大衆居酒屋肌の倉野。配慮が足りなかったか、と、自責する神保であったが、それでも、○○は喜ぶのではと、であれば、倉野には申し訳ないが、押し通らせて頂こうと自己肯定を始める自分が勝っていた。

 ここで、カウンター側の客につかまっている先の女性店員に代わり、バルの店主らしき人物が、挨拶とともに、おしぼりとメニューを二人の手元に置いてゆく。左手を上げては感謝の意を伝えつつも、他所目に、倉野は、どこか腹に虫が居るのか、振り払うように多弁に続ける。

 「○○は近くにいるのはいるみたいだが、少しだけ、遅れるとさ。ここの名前は教えといたし、あいつのことだ、迷うことはないだろう」

 「…○○さんが、喜んでくれるとよいのですが」

 「はん、それこそ、そんな心配はいらん男だ」

 ふふ、と、ここで店主らしき男性が、二人に笑みを漏らした。その格闘家と言わんばかりの筋骨ともに隆々とした体格の反面、とても穏やか、かつ透明感が溢れる表情、声色をしている。

 「なんと、○○さんのお知り合いでしたか。よかった、彼にも、お酒のお連れ様がいらっしゃるですね。はじめまして、店主の小林と申します」

 店主の話しぶりから、○○が以前に、ここへと足を運んでいるのだろうだと言うことは、自明であった。○○という苗字自体が珍しいがために、店主にとっても、その二文字、そして二人の会話内容、表情から、同姓の別人であるとは考えられなかったのだろう。神保はすっと、頭を下げて挨拶をする。

 「…このお店を選んで良かったようです。○○さんは、よく来られるのですか?」

 「ありがとうございます。そうですね、数ヶ月に一度でしょうか。ふらりと訪れては、彼のことです、独り、嬉々として私としか喋らないものでして」


 すると、見計らったかのように、カランと、銀製の警鐘が入口で揺れた。ヌラリ、スラリとした長身の、真っ黒の、つい先刻に、見た男。店主が、また、くすくすと笑っては、十歩ほど、入り口側へと歩み寄る。

 「本当に、噂をすれば、の体現者ですね、○○さんは」

 「お久しぶりです、小林さん。…お店の匂いがこれまた変わりましたね。夏故か、または、貴方の香水が変わった故か。前のもの、お気に入りであったでしょうに。リードを許した女性の色に染まってゆく男性と言うのも、見ていて飽きませんねえ」

 「...参ったなあ」

 神保から見て、楽しそうに言葉を交わしている二人。...店主のバツの悪そうな顔を見るに、大方、開口一番、例の言い回しをしては、揶揄っているのだろう。...いやらしい趣味である。店主を茶化しては満足したのか、○○が二人の席へと歩み寄る。道すがら二つほど、ブラックテーブルを過ぎ去る○○を、やはり座る女性たちが、確かに視線を送っていた。無論彼女たちは、決して、店のテーブルと同色であるからと、その身の一切を黒に包んでいるからと、訝しんでいるわけではない。その歩く様は、何かしらの癖を微塵も感じさせない、一見すれば気品のある奥ゆかしさを、確と見れば人間臭さを感じさせない不自然な整合性を孕んでいた。


 「お待たせいたしました、お二人。ふふ、つい夕刻に、お会いしたばかりですが。さておき、神保さん。やはり貴方は、その若さながらに見張る嗅覚をお持ちのようです。ここのお店は、本当に美味しいものを提供してくれますからね。ですが、私は和食や中華も、ジャンクフードも、場で言えば、それこそ倉野さんの愛して止まない大衆居酒屋も、好むところですよ?」

 席に座る前から、先と変わらない弁を舌の上で回す○○をみて、神保は、やはり外上と異なる何かを感じ取っては、未だ僅かに気の立っていた神経を落ち着かせることができた。…出逢った頃には、到底、こうは思わなかった。慣れれば、と言った倉野の言葉通りとはなったが、しかしやはり、この早さで幾らか心を許してしまうのは、○○の在り方に因るのだろう。

 「おう、おう、○○。呼び立ててすまんな。まあ、一杯しようや」

 既にビールを飲み始めている二人を見つつ、ふふ、と、息を漏らしつつ、○○は漸く座った。

 「一杯、という意味を、果たして倉野さん、いつになれば学ぶのでしょうかね。こちら、どうぞ。赤ら顔で怒られぬ前に、娘さんにお渡しくださいね」

 ハンドポーチほどの大きさをした、白い紙袋を倉野に手渡す○○。何処かのブランドであろう、描かれているそのシンプルな英字ロゴは、男女のものを問わず、流行にある程度明るい神保でさえ、見たことのないものだった。

 「…高いやつは受け取れねぇぞ」

 「物の価値というものは、それを人が後にどう扱うのかによっても、大きく変動するものです。倉野さん、貴方から娘さんへと渡すことに意味があるのですよ。たとえ渡したときに、”気持ち悪い”という言葉を、口をついて貴方に浴びせてしまっても、自室の扉を閉めた途端、子と言うものは心中で謝っては、頬を緩ませるもの。ご安心ください、それほど高価なものではありませんよ」

 「ひとりもんが分かったこと言うな。…ありがとうよ」

 受け取る倉野の顔は、すっかりと、週末の道端を歩けばどこでも見受けられるような、あのありふれた父性を滲ませたものに変わっていた。神保が予想していた通り、○○が少々遅れて合流したことにも、やはり意味があったと言うことだ。姿勢を、○○へと改める。

 「すみません、○○さん。改めまして、出会いが出会いであったがために、過度な印象を、持ってしまっていたみたいです。すべては私の青さに在ります、申し訳ありません」

 頭を下げる神保に対し、ほほう、と、倉野の真似か、顎を擦る○○。

 「その若さで、引っ込みがつかなくなる前に謝ることができる、というのは、真のある人にしかできません。何を仰いますか、神保さん。救われているのは、私の方ですよ」

 今、気付けば。○○と言うこの男は、出逢ってこの方、自分のことを、揶揄いこそすれど、称揚しかしていない。それは歪さを伴うきらいもあるが、それでも、決して、一般の人間にできることではなかった。手元のアルコールだけではないものが、神保の身体に染み渡る。

 「さて、それにしても珍しいですね、倉野さん。何か、嫌なことでもありましたか? “私になぞらえることのできる何かが”」

 話しながら、手元に置かれたヒューガルデンに口をつける○○。対して、まだ一杯目のビールだというのに、貌が赤らみ始めている倉野が応える。

 「敵わねえな。そうさ、不愉快な思いをしたんだよ。...お前さんのような人様に会ってな」

 ほう! と、危うく手元のグラスから泡がはみ出るくらいに身を乗り出す○○。その幼さを禁じ得ない仕草に驚いたのは、神保だけでなかった。ここまで、文字通り着飾らない子どものような食いつき方をするとは、倉野も思っていなかったらしい。

 「なんと、なんと。やはり、面白くなってきましたね、いよいよ。退屈だったとは言いません、今までの人生をね。ですが、なんともまあ」

 「やけに食いつきがいいじゃねえか。どうした、最近、お前さん。様子がおかしいぞ? …あの嬢ちゃんも関係があるんだろう?」

 ふふ、と、いつの間にか飲み干したビールのお代わりを店主に手を上げる○○。神保とは違い、そのペースの早さに店主は驚くこともなく、次のビールの用意をし始めていた。顔は、まだ赤くない。

 「勘の良い人はかくかくしかじか、ですよ、倉野さん。ですが、その通りである、と、言っておきましょう」

 彩りを豊かに仕立てられたスズキのカルパッチョを作法も何もなく、倉野は箸で皿の上を、右から左へ攫う。...その肘元には取り皿が、丁寧に用意されているのだが。

 「…お前さんがそこまで言う、ということは、それ以上言う気はないってことだな? まったく、匂わせることだけ好きだからな、お前さん。面倒くせぇ」

 そういうことです、と、笑みを絶やさぬまま、次に神保へと言葉を掛ける○○。

 「神保さん。お聞きの通り、倉野さんの側に居れることは、何にも増した僥倖です。ここまで勘の良い人は、この私もあまり出会ったことがありませんからね。其れを確かに、日々認知、咀嚼し、研鑽を積んでくださいね」

 と、そう話したかと思えば、これはこの前仕入れていませんでしたね、など、メニューを見ながら店主を呼んでは会話をしている○○。倉野は、酒が入り始めた証拠だ、やはり今日もまた、頬を擦り始めている。


 「話を戻します、○○さん。先ほどのお話ですが。...貴方とは少し毛色が異なるものの、上司に貴方とよく似た、類稀な洞察力をもった方がおりまして。夕刻にも少しお聞きになっていたかと思いますが、先ほどまで、その方のお時間を割いて頂いては、相対していたのです」

 「相対? これは面白い、素直な話し方をしますね、神保さん。例の管理官様、ですね。まるで、今までは尊敬していたのにも関わらず、何かの片鱗を見てしまい、今ではもう、十全に尊敬してよいのかどうか、考えあぐねている、と言っているかのようです」

 冷静に、かつ的確に。ひとつひとつの単語からニュアンスを汲み取り、すべてを繋ぎ合わせて、他人の心情を推測してくる○○。話せば話すほど、未だ、どれだけ自分が未熟者で、言葉を選ぶ難しさを理解しきれていないのかを、今一度実感させられる。

 「…仰る通りです」

 「お名前は?」

 一瞬、憚った神保だったが、酒の席だという免罪符もある、ビールをくいと飲み干し、応える。倉野も、大皿のポテトサラダを頬張るばかりで、止めることはしない。…気付けば、肘で取り皿を壁際へとどかしていた。

 「...ふう。外上警視、外上門人と言います」

 おお、と、再び大きな声を出しては、眼を輝かせる○○。やはりと言おうのだろうか、”そちらでも”著名らしい。

 「素晴らしい! 勘が当たりました、彼は警察官でもある、という噂も聞き及んでいたものでして。そうですか、そうですか。これも何かの縁、というものですね。あの外上さんでしたか」

 倉野が、先に店主から種類の説明を受けた、しかしきっと聞いていなかったであろうチーズの盛り合わせに、ポテトサラダを食べながら目移りさせている。食い上戸、と、世間では言うのだろうか。注意を促すでもなく、きっと後日のネタにするのであろう○○は、倉野の頬張りを確りと目に焼き付けている様子だ。

 「やっぱ知ってんだな。俺は警視の小説だの、一個も読んだことないんだが」

 「一冊。ですよ、単位は」

 うるせえ、と、笑う倉野。いつの間にか、ネクタイが緩み切っている。

 「私も、『鵺降』という本を一冊ほど、流して読んだ記憶はあります。ただ、言い回しや表現が巧み過ぎて、とても難解であるという印象がどうにも。日本語の妙、というものは感じ取ることが出来ましたが」

 ○○は、ほうほう、と相槌を打つ。神保が見ている限りでは、もう彼の手元に在るビールは、四杯目だ。

 「日本語の妙、その外上さんのエッセンスであるものを捉えておいでなら、今一度、読んでみると、新たな発見があるかと思いますよ。個人的には、年端のいかぬ頃合いに書いたと言う、詩編『懺詩』、短篇ながら小説であれば『寅命』などがお勧めですね。メディアで大きく取り上げられるほどではないにせよ、故に一部からカルト的人気を誇っている物書きが、外上さんです。私も、例に漏れることなく、ファンの一人でして」

 そうして、と、○○は続ける。今度こそ目を盗んだかのように、いつの間にか頼んでいた、知多のロック割をきゅっと二割ほど、喉に通している。

 「その外上さんが、どうにもいけすかなく、そのいけすかなさに私を重ねてみては、お酒の場で多少なりともその鬱憤を晴らすことができるのではないかという算段に至った、ということでしょう? 倉野さんは分かり易すぎますね」

 はは、っと先に比べても大きな声で笑い出す倉野。同時に笑い上戸であるのを見るのは、神保も悪い気はしない。だが、○○はそう澄んだままに卑屈な言葉を並べるが、無論二人とも、当てつけのためだけに会いたいと思ったわけではなかった。

 ここで、ちらと数秒ほど、○○が、なぜか倉野が羽織るジャケットの袖から覗かせる、白いシャツへと視線を落としていることに神保は気付く。何か気になることが、と聞こうとした時にはもう、視線と、そして話も戻していた。


 「ですが、少々意外でした。てっきりそんな倉野さんの提案を、断るのものだと、神保さん?」

 酔いの回りだけでなく、返す言葉も早くなってきていた神保が、思いの丈を、気恥ずかしさを振り払い、即座に綴る。…先の言葉選びに留意しなければと言う自戒ももう、アルコールが吹き飛ばしていた。もっとも、恐らく今後も、○○の前で幾ら着飾ったとしても、すべて見抜かれるのだろうが。

 「お酒の場です、気兼ねなくお伝えしますと、初対面の時に比べて、不思議と憎めなくなってきていまして」

 だっはっは、と、絵に描いたような大声を出して笑う倉野。周りの客の視線が、一瞬だけ、集中する。○○も、それを見てか、くすくすと笑い始めた。

 「そうだろう、そうだろう、神保! こいつはな、どこか憎めないんだよ」

 「なんとも嬉しい話でありますが、恥ずかしいものですね。では、今度は、こちらからも二、三、質問を。互いに、酔いが完全に回ってしまう前に、ね。外上さんはどのように私と似ているのでしょうか」

 未だ、顔を赤くしておらず、話し方もまるで変わらない○○に対し、やや気分も踏まえて紅潮してきている神保は、しかしお酒に呑まれぬよう、頭と視線を回転させながら、浮遊感に抵抗しつつ話す。

 「その、相手を一瞥するだけで人柄や仕草を見透かせているかのような観察力、何があろうと、相手にどう立ち回られようと、常に数手先にいるかのように、全く動じず、飄々とし続ける立ち振る舞い。…一見、それらは、見下しているように見えて、どうにも違う。そんなところですね、具体的に伝えたいのはやまやまなのですが、申し訳ありません」

 ○○はふむふむと、しかし幼子のようなきらきらとした眼で神保を見据えている。

 「…なるほど、的確に射貫くような表現をするものです。しかし、そう考えると、些か、疑問が生じるのではありませんか? それほどの才覚を、言うまでもなく、物書きとして躍進を始めた若い頃からお持ちであったであろう外上さんが、警視という階級を軽視しているわけでは決してありませんが、未だに警視で留まっている。さて、どのようなお考えがあるのやら」

 そんなこってりとした油揚げを、酩酊数歩手前の鳶が、左右に身体をふら付かせながら、攫いに来る。

 「…お前さん、今、自分のことを遠回しに自分を褒めただろう?」

 「評価した、ですよ」

 ぬはは、と、笑う倉野。呂律こそ若干怪しいが、その述懐はぶれていない。

 「確かに、警視で留まっているのは、意図的ではあるだろうな。お前さんと同じく、何を考えてそうしているかはわからんが」

 「警視となりますと、未だ捜査指揮と言う形なりで、現場の動きに介入することがままあります。皆は外上さんがそのような第一線を好んでいる、そのような気質なのでは、と、思っている次第なのですが」

 「確かに、下の経験の蓄積に重きを置いている、みてえな話はしていたな」

 「なるほど。故に表を見れば、皆が信を置くに値するヒーローのような存在です。しかし、裏を返せば」

 ここで、カラン、と、氷だけを残したグラスを傾ける○○。

 「皆から信を置かれているがために、各課なりを容易に、そう、如何様にも、コントロールできる立場にいる、と言うことですね。彼のことです、些細な噂や与太話まで、仕入れているのではないでしょうか。ですが、それでも妙です。もし仮に、同じ類だと称される私が、その立ち場にいたとしても、その程度で悦に浸る趣味を持つとは思えないのですが...」

 そりゃまあ、と、倉野が割って入る。二杯目のビールが折り返しから、急に減らなくなってきている様子だ。...興味本位で下腹部を見ようとも思ったが、既のところで堪える神保。

 「お前さんよりは人間っぽいってだけなんじゃあないか? あるいは本当に、地を往く現場至上主義者なのか」

 「ふむ、それもまた一理。…腹の読めぬお方ですね。今、私が思考しているよりも、何か根深い糸があるのだと思います」

 知多でなく、次にマッカランのロック割を頼む○○は、今、手元にある氷しか入っていないグラスを降る水滴を見つめている。糸、と比喩するその心を探りながらも、神保は全く別の観点から、○○を訝しむ。

 「…倉野さんが、貴方にお酒が入るとよりお喋りになる、と、お聞きしたのですが、いつもと変わりのないように思います。…まさか本当に、アルコールが効かないのですか?」

 いやいや、と否定する○○。

 「これしき、未だ酔っているとは言いませんよ、神保さん。…まったく、何を吹き込んでいるのやら」

 「うい、○○はこんなもんじゃないぞ、神保。もっと飲むとな、ペラが止まらんくなるんだ、ペラが。ボロを出させるには、○○と酒はセットよ、セット」

 それは貴方では、と口走り掛ける神保。相槌も、もう母音で収束させ始めていた。

 「…今以上に、ですか」

 「心外ですね。私はこれでも、寡黙なキャラで押し通そうとしているんですよ? それはさておき、外上警視は、彼のケースに関してはどうお考えで? 少しは、思考を交わしたことでしょう」

 マッカランを口に運びながら、うむ、と反応する○○。ウィスキーなるものにまだ慣れない、ビール党の神保が、その飲みっぷりに眼を走らせる。

 「カマキリ、だと。捕食者のようなイメージを覚える、と仰っていました」



 「ブラフですね」



 即答する○○に、もうどれだけ酔いが回っているのかわからない倉野が、途端に、仕事時の顔つきに変わった。

 「何故わかる?」

 失言したかのような表情もまるで見せずに、にこにこと、彼の男は、ここでマッカランをぐいと飲み干す。

 「…ふう。失礼、アルコールに弱くなってしまったのか、酔いが回って、久々に失言をしてしまったようですね。何故かは秘密ですよ、倉野さん。ですが、ブラフです。…なるほどね」

 すっと、右手の人差し指をこめかみに添えては、目を閉じる○○。最後の一言だけ、取り繕わない言い回しであることも踏まえ、二人は何かを確かに嗅ぎ取った。

 「お前さん、実は犯人の目星、付いてたりするんじゃないか?」

 ○○は瞼を開かぬまま、即答で否定する。

 「いえ、こればかりは本当に、未だ特定までは。外上警視も、そういっていたかと思いますよ。...ふむ、くわえて、それよりも何かしら、そちら様も複雑なようですね。興奮を覚えるのと同時に、何やら危なげな香りも漂い始めています。…春さんに会いたい」

 「問題発言になりかねませんよ、○○さん…」

 失礼、と、ここで目を開けては、真顔でまだ、脳内で思考を巡らせながらであろうままに返す。その名に反応し、思い返したかのように、倉野が突いた。

 「そうだ。あの嬢ちゃん、気になってるんだよ。お前さんが誰かをあそこまで可愛がるってのは、まあ見たことがない。あの子は何だい?」

 「ふふ。倉野さん。秘密ですよ、秘密」

 こめかみから人差し指を頬をなぞらせながら、唇へと当てる○○。

 「…犯人を追い詰めるより、お前さんを尋問した方が早そうだな」

 そう聞いて、○○は思い付いたかのように、両の手の平を広げて見せながら続ける。

 「それでは、是非とも外上警視にお願いしたいですね! サインも貰わないといけませんし。是非、彼にも会ってみたいものです、そのときは、ふふ、良しなに。小林さん、」

 特段、大きな声を発したでもない○○の呼び掛けだったはずだが、それは不思議とカウンターまでに及んでいた様子で、小林は即座にテーブルへと駆け付けた。

 「お帰りになるのですか?」

 「ええ。何時にも増して、楽しい時間を、ここで過ごさせて頂きました。いずれふらりと、また、お邪魔します」

 深々と頭を下げる小林。さて、と、唐突に話を切り上げて席を立つ○○。

 「それではお二方。…滑稽かつ、ペラの止まらないところを見せれず終いで申し訳ありません。考えを巡らせなければならないことが増えたようです。楽しい時間でした。さておき、花金と言えど、宵が回る時間は誰にとっても同じもの。倉野さんを、お願いしますね。神保さん」

 はい、と答える神保と、腕を組んでは首を横に振る倉野。茹蛸と言う表現は、確かに秀逸であると感心する。

 「俺を満足させる前に帰るたあ、お前さん、偉くなったもんだな」

 「あなたを満足させるものは、心行くまで小林さんが出してくれますよ。あとは見計らい、幸さんに怒られる前に、帰ることです。それと」

 すっと神保を、○○の眼が捉える。やはり、到底この短い時間であれほどの酒を摂取したとは思えぬ鋭さを放っている。

 「謝らねばなりません。貴方の出歴や、一瞥しただけでの当時の私の判断というものは、全くに間違っていました。私もまだまだ、学びが足りません。神保さん、貴方はきっと、この世を担う一人であるのでしょう。…父君のように、貴方もまた、人とはどう生きるべきなのかを、見据えることのできる御方です。是非とも、そのままで」

 予想を遙かに上回るストレートな褒め方をされたが故に、遅れて来る高揚を必死に誤魔化しては、神保は冷静さを取り繕う。

 「…父のことを話した覚えはありませんが」

 「ふふ。顔に書いているのですよ。それでは」



 ○○を見送る店主の背を、何の気なしに眺める神保。きっと、倉野さんも自分の父のことなどを伝えてはいないことだろう。...最初こそ、その観察眼に背筋がぞわついたものだったが。

 「…あいつ。タダ飲みして帰って行っちまった。俺が奢るのはお前さんだけだぞ、まったく」

 すっかり下を向いて、テーブルに話しかけるようになった倉野。それを耳に挟んだ店主が、優しく声を掛ける。

 「ご心配なさらず。追加の注文を含め、御代金は結構ですので、ゆっくりとお過ごしください」

 一瞬、何を言っているのかを把握できなかった神保だったが、直ぐに得心がいった。

 「○○さんとは、それほどまでに親しいのですか?」

 いえ、と返す店主。

 「恩人です。私が数年前、故も知らぬ酒屋で飲んだくれていた頃、さっと手を、隣で差し伸べてくれたのが、だいぶ前になりますが、○○さんでして。先生、いえ、○○さんのお蔭で、この店を開くこともできたと言っても過言ではありません。ふふ、"真に商いをするのであれば、如何なるお人に対しても、出来得る限りの全てでもてなし、そしてその代価を、違わず確りと頂戴しなさい"。...そう○○さんも最初は頑なでしたが、私も当然譲らず、昨年の暮れに漸く折れてくれまして。お蔭で、数ヶ月に一度しか、来てくれなくなりましたが」

 「先生、ねえ…」

 ○○に対して、しっくりとくる表現故か、ぽつりと、倉野が相槌を打った。

 「東京、特にこの近辺では、きっと。他にも先生に救われた人が多いことでしょう」

 そう誇らしげに語る、もう四十は超えているだろう店主に対し、神保は興味本位で問うてみる。

 「数年以上前ともなると、今の私と同様に、○○さんもかなり若い時分にあると思いますが」

 「…年齢や、その他の事柄はあまり関係がないのだと、先生は先生自身を以て証明されるお人です。人が少し、肌寒いときに、どこからか現われては、温めに来てくれるような、そんな、お人です」

 ○○と密に過ごせばそうなるのか、どうにも店主の言い回しが詩的で、しみじみと聞き入る神保。ここで気付いたように、目線を横に向ける。

 「…倉野さんもそのクチでしょう」

 顔も上げないままに、神保でなくテーブルにある空いた皿に答えを返す倉野。

 「…それ以上聞くな。公私混同がこれ以上ばれるわけにゃあいかねえ」

 「そうなんですね…」

 頬を擦る倉野を微笑ましく眺める神保。店主が、カウンターへと戻る前に言葉を続ける。

 「人のことが、本当に大好きなんだと思います、先生は。私たちは、同じ人に対して、それほど慕うほどに、その価値に。きっとまだ、気付けていないのでしょうね」

 小林の声に耳を傾けながらも、神保は、明日は確かに休みであることを脳内の片隅で改めて確認しつつ、マッカランのロック割を頼んでみた。と同時に、それを喉に通す前に、そう、きっとその前でなければならない、倉野の家へと走るタクシーを予約しておこうと、スマートフォンのホームボタンを押し込む。

 …そう言えば、連絡先を、未だに聞いていない。


 ⇒ 悪魔解体: 三(下)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?