悪魔解体: 三(上)

三 - 遠隔のマンティス

 ⇒ 悪魔解体: 二(下) より


 艶やかな御器噛毛繕う、名貴き警視庁。その一角に陣取る、刑事部捜査一課の内装は総じて質素なもので固められており、この御時世に若干そぐわぬ様相をしている。デスクをはじめ、後先考えずに資料を立て並べられたラックまで、何の主張ももたないまま、業務用製品特有の灰色で、視界の色調を覆っていた。このご時世にそぐうように、女性も比べて場を行き来するようになってこそいるが、辺りの空気中を漂っているのは未だ、年月と言う風に当てられた、青さを喪った男性の、足掻いた整髪剤の香りである。簡素な長方形の白いプレートが天井からぶら下がっては、各係が何処にあるのかを、もう誰も見ることのない飾りでありながらも、四六時中案内していた。

 中でも四係に相当する倉野と神保の塒は、朝日こそ当たらない代わりに、夕暮れ時の紅が、二人の並んだデスクへと色を加える場所に位置していた。警部補である倉野と、巡査部長相当である神保が何故、階級差や警視庁に敷かれた教育手法を幾らか黙殺し、”二人組”で行動しているのか。その背景には、とある上層部の人間による特別な措置、そして、他ならぬ熱烈な神保自身の要望に因るものがあった。今なお、一課の人間のみならず、その他周りも、この二人に関して、冷やかすことはあれど、目くじらを立てることはしていない。むしろ、神保の面倒を見ずに済んでいることへ安堵している始末だった。そんな時の人として入職してもう暫く。当の神保と違い、倉野のデスク上には、もう数週間前のものであろう、見返すこともしない捜査資料や、一昨日辺りにコンビニで適当に籠へと放り込んでいたおにぎりの八つ裂きに去れた包装たち、そして飲みかけのペットボトルが支配していた。…若干臭う。それはまだしも、神保としては、何が何でも捜査一課内に蠅を飛ばすことは絶対にするわけにはいかなかった。


 「…倉野さん、恐れながら。日を増して酷くなっています、整理させて頂いても?」

 「うるせえなあ。後でやるから、後で」

 もうすっかりと順応してきているこの巣に戻っての日常を、未だ急いた気持ちを抱きながら愉しむ神保であったが、ここで倉野と同じく警部補である山本が、二人が一課に戻って来るや否や、右手を大きく振りながら駆け寄ってきた。相も変わらず、爽やか交じりにへらへらとした表情を湛えている。この青い揶揄い役を絶やさず務めているのは、当然、性分にくわえて、年が上の倉野よりも出世街道を走っている自信の表れ、ということもあるのだと、神保はみている。

 「お帰りなさい、神保くん、倉野さん。ほんと僕、二人が居ないと、どうにも本調子が出ないもので、寂しくしていたんですよ」

 「おう、ただいま。...というか、おまえさんの本調子なんぞ、一緒に居ても見たことないぞ。ちょっと頼まれてた江東区のケースだが、目を通してくれたかい?」

 ええ、と頷きはするものの、両の掌を、大仰に広げる山本。

 「ですがね、収穫は、なーんにも。ここまで手掛かりを掴めないというのも、それはそれでおかしいものでしてねえ。ま、エイソウ処理になるでしょう。…家族の方々には、面目が立ちませんが」

 飄々とした立ち振る舞いの割に、周りから期待を集めているのは、きゅっと口元を締めながらも、最後の一文を確りと言葉に代えていることにある。性分までとは思わずとも、その義憤の持ちようは見習わなければならない、そう神保は思う。

 「こちらも”近隣住民の方”に捜査協力をして頂いたのですが、これという収穫はほぼなく。…恐縮ですが、山本警部補は、この犯人像をどうお考えでしょうか」

 うーん、と、倉野のデスクに散らばる資料を片すでもなく、指でそれらの表面を撫ぜながら思考する山本。

 「普通じゃあない。が、そういう人間もいる。ってのが、僕の意見だ、神保くん。同様の事件が起きれば、まだ捜査の糸口は見えるんだけどね。私怨の線は薄いとは言うが、もしかしたら、もしかするかも、なんてね」

 山本の名実はともに、この数ヶ月、かなり近しい距離から肌で感じていたものだったが、やはり、○○のことを知ってしまった後のためだろうか、話の節々に、あの謎めいた満足感を感じることはできなかった。


 …倉野さんは、この人は。どれだけの人と話す中で、どれだけそう思ってきたのだろう。

 「まあこっちも、お前さんと似たような感じだ。これ以上、今の情報だけ追っても、シッポを掴めるかは怪しい。他にもヤマは積もってるからな、切り替えようか」

 「ですねえ。…おっと、コンパの時間です、失礼」

 倉野が言い終わる前から、綺麗に磨かれては光沢を放つ腕時計へと目を遣る山本。恐らくそれを言いたいがために、近く寄ってきたのだろう。他に残る一課の人間にも大手を振りながら、足早に帰っていく山本。ビジネスバッグを吊るした左手の振り子が、いつも以上に触れているご様子だ。

 「…ま。あんな風になれとは言わんが、神保、おまえさんも息抜きは必要だぞ」


 心の内で返事をする神保。庁に戻ってきてからこっち、微睡んでいるかのように時間を浪費しているが、時が過ぎる毎に、気が張っていくのを感じる。神保は本日の一大イベントは忘れてはいなかった。

 「それよりも倉野さん。外上警視を待たせてしまっているのでは?」

 「あのなあ… 一服くらい、つかせてくれ」

 顎を擦る倉野が、そこまで言っては言葉を止め、しかたねえ、と、ぶっきらぼうに神保へと手招きをする。一課を後にし、その背についていく神保。…他も、この人のように、接してくれれば、こちらも気にせずに済むのだが。

 人も疎らになり始めた頃合い、先月に新調されたばかりの、ガラスエレベータ。時間も時間であることから、横に一列並ぶそれらの筐体は、疎らに息を潜めて動かないものもいた。その内のひとつに、倉野と神保、その他乗り合わせの三人組。彼らは、嘲りを交えた笑みを絶やさず、二人を横目で舐め回している。…二課の人間だ。

 「おや、これは倉野さん。こんな時間まで、さぞお忙しいようで」

 「野暮用だよ。まったく、老いぼれをそんな風に虐めるもんじゃないぞ?」

 失礼しました、と、態度に表れている通りに、頭を下げるでもなく、倉野へと言葉だけを投げ捨てる一人。その後ろにいる二人も、目を合わせては眉を上げて遊んでいる。神保ももう、このときに前に出るほど、青くはない。


 「それでは倉野さん、神保さん」

 あいよ、と手を小さくする振る倉野と、深く頭を下げる神保。三人の割には、やけに足音が大きく聞こえた。エレベータが再び閉まってから、神保は目を開ける。

 「…横が繋がらなければ、立ち向かうべきものにも、立ち向かえないのではないかと」

 
 顔を上げきれずにいる神保へ、倉野は穏やかな表情でしみじみと言葉を漏らす。

 「だな。だが、どうにも日本人ってのは、横の並びを気にしちまう。いつだって、何歳になろうが、辺りを見渡しちゃあ、誰も前にはみ出してないかを見張り、はみ出ていれば全員で引き戻そうとするもんなのさ」

 「…変わると、思いますか」

 漸く背筋を真っ直ぐにした上で、倉野を見据える神保。

 「はん、そうだな。俺ら、古臭い人間が全員死ねば、少しは良くなるさ」

 あるいは、と、倉野は続ける。

 「そんな、誰がいつ敷いたのかも分からんラインを、事もなげに足で消してくれるような誰かが居れば、ってな感じだな。それがお前さんや、別の意味で○○、また、目の前の部屋にいる異例の警視様ってところなんだろう」

 改めて下に眼を遣っても、ネクタイの首元の綻びは見えない。で、あればと、ビジネスシューズの埃までチェックに入る神保。

 「その並びに挙げて頂くのは、恐れ多いものがあります。一度だけですが、研修期間の折、目に焼き付いていたのが、管理官の立ち振る舞い、そしてその采配でした」

 「ふむ。まあ、警察側の化けもんといやあ、ここのお人に成るだろうな。俺もそんなに密に接したこともないが、まあ、数回会わずとも分かるもんだ」


 定刻に沿ったノックを、みたび。どうぞ、と、明らかに階級が下の二人へと掛けるには丁寧過ぎる言葉が、神保の耳に残った。ドアハンドルを、下げる倉野。

 「お待ちしておりました。倉野さん、神保さん」



 神保は言うまでもないが、普段から作法やしきたりに関して苦言を呈する倉野ですら、さすがに。両の踵を縫い付け合わせ、背を伸ばしては、敬礼をしている。そういえば、この人が敬礼をしているところを、初めて見た気がする。気に入らんだの、性に合わんだの、そういつも愚痴を零す割には、手本のような、寸分の綻びのない所作であった。

 「外上警視、失礼致します」

 外上と呼ばれるこの男性の貢献具合から言うならば、警視ですら足りないと誰もが言うであろうに、その部屋の見てくれは本当に質素なものであった。白を基調としながらも、ありふれたオフィスの一角をただ切り取ったような、世辞にも羨ましさを覚えない、十五畳ほどのこじんまりとした待合室のよういすら感じる。もちろん、目に留まらぬかと言わんばかりの木彫りの何某どころか漆塗りの長机も中央になく、代わりに入って左側の壁に添える形で、それこそ神保と変わらぬほどの安いデスクに、彼、外上門人が座っている。身に着けたスーツは、神保が一瞥するだけでも、ブランド物でも何でもない、一般に手に入るものであることが窺えたが、皺などはひとつも見当たらず、安っぽさを感じさせないように着こなしていた。


 「折角の客人だと言うのに、申し訳ない。信条、と言いましょうか、高価なもので揃えることはどうにも好かないもので。心地は良くないかもしれないですが、どうぞお掛けてください。…おっと失礼、未だに上下関係に合わせての敬語の使い分けも、ままならないもので。誰に対しても敬語で話すようにしていると、経験上、おおよそトラブルになりにくいのですよ」

 と、二人に勧めた先の、三人は掛けることが出来るパイプ製の長椅子の対面に、座る外上。倉野もこうしてじっくりと、彼と話すのは初めてなのだろう、丁寧な所作を崩さず、長椅子へと座る。倣う神保。ギギ、と、クッションでは捌き切れなかった衝撃が、パイプを軋ませた。

 「改めて、多忙の中、呼び出してしまって済まないね。…まあ、そうは言いつつも、身分を背に、こうして気ままに呼び出せるのも便利なものなんですが。どうぞ、崩してください。神保さんも、ほぼほぼ、初めまして。外上と申します」

 声が上ずるのを、命を賭して阻止する神保。両膝の上に置いた握り拳の先、十の爪が、手の平に食い込んでいるのが、分かる。

 「恐縮です、外上警視。先の研修以来でございます。自分は、その以前から。警視の経歴に触れ、その躍進ぶりと手腕に、畏敬の念を抱いておりました」

 ふむ、と笑みをそのままに、ギシと背をパイプ椅子に預ける外上。

 「畏敬、ね。なるほど、やはり、抜きん出た聡明さだ。単に東京大学を出て、エリート街道をひた走った人間ですら、そう得ることのできる質ではない。私の上への念押しは、よい方へと確かに作用しているのだと、倉野さん、喜んでよろしいですね?」

 いえ、と、首を振る倉野。

 「それを見抜いた警視の慧眼も言うまでもないことですが、何よりも、神保巡査部長が、一個人として、私の背の後ろでは覆えぬほどの素養を持っているに過ぎません。…荷が勝ち過ぎます、私なんぞで、良かったのですか?」

 そんなことはない、と、神保が反射的に口を開く前に、外上がそっと、左手で制する。

 「ときに、聞けば神保さんのことを呼び捨てにしているのは貴方だけだと伺っております。神保さんも、故に貴方を慕っているのではありませんか?」

 ここで、つい顎を擦ってしまう倉野が、神保に横目交じりに小言でつつく。

 「…そうなのか?」

 さあ、と、口元を緩ませて応える神保。しかし、この外上という人物、予想以上に上下問わず広いコミュニケーションを図っているようだ。雲の上の存在と、思っていたのだが。

 「先の警視総監の御子息。周りが気を遣ってしまうのも無理はありません。もちろん私も、例に漏れず。神保さんは、其処に歯痒さを覚えるのでしょうが、どうか、周りに咎を打ち立てることのないようにだけ。社会とは、難しいものなのです、誰にとっても」

 「心得ているつもりであります」

 おっと、と、ここで徐に立っては、部屋の右側に添えられた木製の食器棚へと歩を進める外上。意外にも年相応のセンスか、そのライトブラウンカラーが、妙に映える。

 「これは失礼致しました。呼び立てておいて、茶のひとつも出さぬとは」

 途端に慌てふためく、客人二名。おやおや、と、笑いながら独り外上は、茶の準備を無駄なく、こなしてゆく。


 一拍、後。

 「ふう。さて、貴方がたに会えただけで、私としてはもう、満足なのですが、一点だけ。今、先日の江東区で起きた殺人事件を、気に掛けているとか?」

 はい、と答える倉野。

 「ただ、ほかの第一課の人間を含めても、犯人像すら未だ不明瞭のままであり、その足跡すら満足に掴めない、というのが、至らぬ我々の現状であります」

 おお、と、少し目を輝かせる外上。

 「エイソウ、でしょう? この前、嬉々として山本警部補が教えてくれましたよ。一緒に流行らせましょう、とね」

 はあ、とため息を吐く倉野と神保。まったく、山本警部補はどうにも、その功績よりも他の分野で名を轟かせているらしい。

 「警視、あまり山本をおだてぬようにだけ。悪戯っ子が振りまく火の粉を振り払うには、私も年を取りすぎました」

 倉野の刺した釘に対し、あらあら、と、外上は微笑みを湛えたままに、ぽつりと、言葉を紡いだ。

 「にしては、エイソウとは全く思っていない。ですね、お二方。"どなたでしょう、そのお方は"」



 倉野も、○○に会ってまだ日の浅い神保でさえも。部屋に入り、膝を合わせ、ほんの少し対話するだけで。予期はしていた、ここ最近の誰かとの其れも踏まえれば、尚更。細微は異なるにせよ、匂う。同じ”類”だ。確信に変わるとともに、部屋中に。絞られたピアノ線が無尽に張り巡らされては、締められ、ギリギリと音を立て始めた。

 「…お人が悪いな、外上さん。ってことは、俺は”倉野正人”でいいってことだな?」

 急に、言葉とともに、ふふ、と、覚えのある、文字に起こしやすい笑いを湛えはじめた、外上。先に、もう充分なまでに聞いた二文字だ。

 「最初から、そのように。肩書では、お二人のことを呼んでいませんからね、神保忠義さん」


 「…試して、いるのでしょうか」

 仕事である以上、体面を全力で取り繕う神保。伏せている感情は、怒りとも言えない、不可解な情動であった。抱いていた畏敬が、芯を残しては、融け出す。きっと、この警視のことである、○○と同様に、そんな自分の気持ちの揺らぎすらも見抜いているのだろう。

 「滅相もない。私も、少々、このカマキリに関して思うところがありましてね。山本警部補とも少し話しをしたのですが、まあ、この事件に重きを置いていた様子ではなかったものでして」

 「この場なら、単に”この私の期待に沿うような答えじゃありませんでした”で、構わないんじゃないか、外上さん」

 ずいっと詰め寄り倉野は、不敵な笑みを浮かべては外上へ詰問する。

 「そう。その顔、その眼。そして、その勘、という一文字に済ませるには勿体のない恵まれた天稟。久しく、そして恋しく思っていたものです。今ではすっかりと、周りの方々がそのように火を灯した眼で見てくれたり、しなかったもので」


 「…カマキリ、とは、犯人を指していますね」

 倉野から目線だけを横に動かしては、そう問うた神保へと、向いて頷く外上。

 「その通り。捕食者、との意味合いで、ふふ、私の中だけの流行りですが、呼称しています。在るがままの本能に従っているのか、何せ思考を捨てたような作法だ、自然を連想させるような、そんな美しさすら覚えるほどに。カマキリと言うのは、その食欲の旺盛さも特徴的ですが、動き生きるもの、その命に執着しては相手を裁き、貪ると聞きます。その点が、第一印象の時点で過ったものでね。何にせよ、常軌を逸した殺人犯だ」

 妙なことを言う、と口を挟む倉野。

 「ならどうして、あんたが突きに来ない? あんたほどの人間なら、上手くやってのけることもできるだろうに」

 「買い被りが過ぎますよ、倉野さん。今ある情報だけでは、さすがに幾ら思考を巡らせても、捕えるまでのヴィジョンが浮かびません。個でなく、チームとして、正義に代わりそれをこなすのが、警察、という組織なのでは? そのために、個々が優秀な人材として育ち、機能しなければならず、そのために、貴方がたのような逸材がまず経験値を積み、後進へと説いていかねばならないのですよ」


 微かに歪さを帯びた、大いなる期待。その背後に潜むであろう真意、その一言一句の隙間に滲んでいるものが何であるかを、全く掴み切れないままでいる神保。依然、警視で留まり続ける理由に通じるのであろう、それを捉えきれないことが、ただただ歯痒かった。…つくづく、○○を想起させる人間だ。

 「この犯人が、今後も犯行に及ぶと、外上警視はお考えなのでしょうか?」

 はは、と、外上は乾いた笑いを見せる。

 「私に対して、分かって問うことは意味を成しませんよ? その通り、十中の十、前科持ちどころか今後も確実に犯行を実行するであろう、広義でいうところのシリアルキラーでしょう」

 後頭部をポリポリと掻く倉野はもう、ピアノ線の緊張を幾らか緩めているようであった。○○との既視感が、そうさせているのだろうか。

 「神保はさておき、俺はそんなに持ち上げられるような人間じゃない。...大体、そこまでヒントをくれるんなら、もう少し手伝ってくれてもいいだろう。その若さで、忙しくて手が回らんとは言わせんぞ」

 「ふふ、生憎。この若さで、忙しくて手が回らないのですよ、実のところ。しかしやはり、貴方がたは見込んだ通りだ。きっと、確かな正義があるのでしょう。その"お手伝いさん"と協力すれば、いずれ、ふふ、もしかしなくても近いうちに、犯人を逮捕することが出来るでしょうね。期待、しております」


  「…外上警視の考える、正義とは?」

 ふと、噛み付いた神保の青さにも、丁寧に。しかし、外上は、この男は、あっけからんと、何の感情を吐露するでもなく、淡々と即答した。

 「今の世の中そのもの、ですよ。それを保つために我々がいる。であればこそ、保とうと足掻き生きる我々もまた、正義なのだとは思いませんか?」

 「お偉いさんがそこを疑問形で返すもんじゃない」

 倉野の足元を掬おうとする一手を、ひらりと躱し、これは失礼、と、言っては頭を下げる外上。

 「まあ、ここまである程度、本音を交えて打ち明けたことにも、当然意図があります。…他人を不快にさせるばかりで危うく有名になりかけた、この私のお喋りにも、”慣れたものだと言わんばかりに”柔軟に対応した二人を見て、こちらも少し掴めたこともありますから。...ふふ、今日もまた、夜が更けます。フクロウの目が光る前に、帰ることが賢明でしょう」


 どのタイミングで、○○の存在に気付いたのか。紐解くに、その存在の確認が、呼び出しの理由だったのだろう。...二人が仮に逢ったとして、どのようなことになるのかは、興味こそあるが、直感的に逢うべきではないと理解する神保。目の前のこの男は、何が目的なのだろうか。そう、考えては黙りこくる神保を見かねて、場の空気をより緩める倉野。

 「…お前さんみたいな人間が、これ以上俺の周りに出ないことを祈るよ。まったく」

 「ふふ、何かの折、私が”何番目”か、教えてくださいね?」

 「...失礼致します」


 先の経験から、この流れになってしまえば、退散あるのみと学んでいた神保が、まだ何かを言いたそうにする倉野の腕を掴み、立ち上がった。深々と一礼し、外上がこちらを見据える視線を切っては、踵を翻す。

 倉野はここで、顎を擦りつつ、外上を改めて振り返り、深々と頭を下げた。

 「外上警視。数々の発言、大変失礼致しました」

 「いいえ、何も、何も。こちらこそ、ありがとう」


 手を振りながら二人を見送る外上。扉が閉まった後に、ふと、二人の手元に置かれた、百円均一店にも、粗雑に並べられているような、名無しの陶磁器を見やった。不思議と、入れた茶が、二つとも空になっている。今までの客人には、あまり手を付けられていなかったがために、自分のセンスが悪いのかと、別の茶の葉に、変えようと思案していたのだが。ふふ、と、胸を撫で下ろしていると、そのうち、神保の湯呑が、安物故の代償か、薄らピシ、と、悲鳴を上げた。


 「ミウチ、ミウチよ。ただ、正義、掲げるべし。正義とは、お前だ、ミウチよ。人を取り持つのはお前だ、人と人とが行き交う要所で、見守り、見下ろすのはお前だ、ミウチよ。躊躇うな、迷うな。ミウチよ、ただ、正義、掲げるべし」

 何故、木彫りと言えばヒグマなのか。まだまだ自分も、謙遜でなく、教養が足りない。また今日も良い日だったと、茶の葉の香りを肺に満たしては、思い思いに筆を走らせようと、即興の鼻歌を奏で始める外上。机上を片付けながら口ずさむそのメロディは、我ながら上出来で、思いの他、気に入ることになってしまったのであった。定年退職の後は、音楽でも嗜んでみようか。

 尖らせた鉛筆は、”7B”。


 ⇒ 悪魔解体: 三(中)

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