悪魔解体: 二(下)
⇒ 悪魔解体: 二(中) より
「嬢ちゃんと呼ばれるのは、なんだか慣れません」
久しからず、先日と同じ座り位置で、テーブルを囲む四人。まだ陽が照る浅い時間であると言うこと、であるが故に、テーブルの面へと描かれた、無造作なステンドグラスの文様が光を反射させ、それぞれの貌を明るく浮かび上がらせていた。
「倉野さん、最近の世間では、下手を打たずとも、直ぐに諸問題に繋がる可能性があります、ご留意願えればと」
神保に窘められる倉野は、溜息を見るからに、わざと吐く。
「分かってるよ。…せちがれぇな」
春は慌てて訂正を挟んだ。
「あの、セクハラとか、そう言うわけではないんですけど」
「春さん。倉野さんは、ふふ、御年頃の娘さんを抱えているばかりに、いつも世知辛い素振りをするのですよ。その無精髭、また娘さんの説教が長引いたのでしょう? 大方、母のところに行くだとか」
「…お前さんにはプライベートを重んじる礼儀がないのか」
倉野の表情の変化を見ては楽しげに、○○は更に詰め寄る。
「一人くらい、あなたの心臓を抉る人はいないとですね」
まったく、と、また大袈裟に喉の虫を鳴らす倉野。その割には、○○を見る目が、その尻に皺を作っていた。
「改めまして。先日ぶりです、○○さん、四宮さん。本日は、捜査協力、ということでよろしいのでしょうか」
そうですねえ、と、わざと歯切れの悪い言い方をする○○。
「こちらこそ、呼び立ててしまい、申し訳ありません。ただ単に、この四人でお茶会、という名目でも良かったのですが、それでは神保さんが来てくれないのではと思いまして、捜査協力ということにしておきましょう。先日のケースに関して、こちらの優秀な助手とお喋りしているうちに、もう少し思考を割いてみようと思いまして」
「お前さんが誰かの意見を取り入れる、ってのも珍しい話だな」
心外だと言わんばかりに、○○は左の掌を大きく開く。
「皮肉が未だ不得手なところが、貴方の素敵なところではありますが、しかし倉野さん、私はいつだって、他人に頼り切りですよ」
「…○○さん。もう少し思考を割く、と言うのは」
そう身長自体は変わらないにせよ、○○よりも、鍛えているのであろうその体躯が、背もたれ付きのカウンターチェアに対して、窮屈であると愚痴を漏らしている。それでいて、三点のボタンシングルのうち、上二つを、頑なに留めている辺りが神保らしい。
「ええ、先に少しだけ触れた、犯人像について。あくまでも興味本位、という扉を幾らか叩いての話になります、砕いて言うところの妄言、のようなお喋りだと予防線も張っておきましょうか。…個人的には、より確信に変えて、シリアルキラーと断ずることができる、と考えておりまして。犯行動機に関しては、未だ不明瞭な点もありますが」
「…物騒なこと言うじゃねえか」
倉野の顔は、決して冗談でめかしていない。それは、今、倉野の手前に置かれたブラックコーヒーの表面から、顔を見なくとも分かる事であった。その隣に、スティックシュガーとフレッシュが添えられた、カフェオレが並ぶ。見た目に相反して、正義を背に座る若い青年は、甘党のようだ。
紅茶が美味しい店だと言うのに、コーヒーを頼んでは、にげぇと漏らす中年。その右手が、テーブルに予め備えられていた角砂糖へと伸びようとした直前に、○○が先手を打った。
「砂糖はひとつまでですよ、倉野さん」
「うちの娘みたいなことを言うんじゃないよ」
対して、スティックシュガーひとつでは飽き足らず、ただし倉野の目線を盗むように、神保がコーヒーにこっそりと、角砂糖を落とし入れながら口を挟む。
「シリアルキラー、と表現するのは、意図的ですね、○○さん」
「ふむ。知識を有しているだけでなく、相手の意図を汲み取ろうとする、気付きの素養がある。流石ですね、神保さん」
神保は、いえ、と、強張った顔で謙遜をする。
「連続殺人と何か違うんですか?」
春はきょとんと、何となしに問うてみる。倉野がプラスティックのマドラーで、コーヒーの中へとなけなしの角砂糖を入れては融かせ、答える。
「連続殺人ってのは、一日単位の短期間で、数件の殺人を繰り返す犯人に使われるのさ。対してシリアルキラーは、次の殺人までにある程度のクーリング期間を設けるんだよ。ざっとな違いは、そんなところだ。…どちらも狂人には違いないよ」
「警部補は伊達ではないようで」
「冷やかしにしか聞こえん」
熟れた茶化し合いを他所に、神保が更に踏み入れる。
「その推察の根拠、またそう断ずるに至った経緯は?」
気持ち、○○へと耳を向ける春。すらすらと、その低い声で言葉が目の前を漂う様の心地良さを、もう充分に理解できていたからだった。
「おさらいしましょう。このケースは、犯人が殺害を冷静かつ確実に実行している点、またそれに伴う熟達したスキルを有している点を除けば、動機を垣間見せるような特徴がほぼ見られず、徹底して機械的に執り行われています。最初こそ、そのような犯行を重ねることで、何かしらのプロパガンダや、その他思想を伝えようとしている型の像をイメージしていたのですが、どこか噛み合わない。神保さんのことです、直近半年から一年の間に、このケースに類似した、犯人不特定の刺殺事件は無いかと洗っていますね?」
○○が言い終える前に、神保は、古びたビジネスバッグからひとつ、まとまった書類の束を取り出す。素早い手つきから、準備は周到であったようだ。数十の赤と黄の付箋が、至る所から顔を覗かせ、白い長方形を彩っている。
「…昨日までに、とりあえず向こう二年のリストを洗いました。刺傷事件は全国各所で、数ヶ月に一度のペースで発生してはいるものの、すべて加害者は逮捕されていますね。対して、明らかな殺人事件であるのにも関わらず、刺殺した犯人が未だに不特定なものは、三件ほど。それも、ここ東京でなく、関西、九州、東北各地でばらけて一件ずつと言った形です。○○さんの仰る通り、機械的な手法を採られているのかと、それぞれの内容もさらっとなぞりましたが、今回のような刺殺方法に近しいものなどは見受けられませんでした」
○○はほう、と、顎に右手を遣る。
「私の見立てでは、今ケースと同一の殺人犯である、と確信していたのですが。神保さんのことです、確認を怠ってはいないでしょうが、また暇のある際にでも、もう一度眼を通して見ておいて損はないかと」
分かりました、と答える神保に対し、倉野は両肩を、呼吸に合わせては、これ見よがしに上げて、落とす。
「あのなあ○○。さすがのお前さんでも、それは飛躍が過ぎないか? 何より、口ぶりが同じ犯人に仕立て上げたいかのように聞こえるぞ。…あと、そんなやつ、人間じゃなかろうが」
ふふ、と○○は何かを含みながら返す。
「ですから妄言の類でもある、と保険を掛けたのですよ。人間じゃない、という指摘に関しては、先日、そうような切り口も大事だと教えてくれた方が、こちらの春さんになりまして。あの言葉を反芻するうちに、”そのような人間”もいるのではないかと」
神保は、先に拾い忘れた疑問を言葉に代える。
「では、○○さんご自身がシリアルキラーと断定しながらも、これらの殺人を通じて、何らかの主張に代えるタイプの人間ではないと推し量る根拠は、何処に在るのでしょうか」
あっけからんと、○○は簡潔に即答した。
「まあ、凶器ですね」
「…はあ?」
倉野が、たまげたように返す。その素っ頓狂な声に、神保も眼を細めた。○○との付き合いの長い倉野ですら、未だ見たことのない面だったのだろう。この期に及んで、倉野を驚かせる、○○の、その変わりぶりの所以。二人は、確りと春をここで「主役のひとり」であると認識することに至るのだった。...しかし、本当に、失礼なようだが、この場には未だ似つかわしくない。それくらい、神保には普通の女子高校生に見えている。
「そうですね、一度些事としてスルーしたことは認めざるを得ませんが、このように仮定してみてからは、やはり凶器、またその行方が根拠へと準ずるものに成り得てくるのではと。私の読みが外れてなければ、ですが。神保さん、解剖医や、現場鑑識の見解はもう出ていますね?」
先日の報告を、神保は○○に繰り返し説明する。なるほど、と、頷く○○。
「大方読みの通り、というところでしょうか。何かしらの主義、思想を有している場合、殺害の現場へと、特定の凶器や何かしらのシンボルを痕跡として残すものです。だが、それをしていない。同一の凶器を使い続けることで意味を持たせるケースも看過できませんが、既に使用済みのものを凶器として用いては象徴に代える、とするとはあまり考えられません」
「待て。今回が初犯であるというのも捨て切れん。あまり考えられないとは言うが、今後、何らかのプロパガンダに繋げることを仕出かしてくる場合も大いにあるんじゃないか?」
倉野は、真っ直ぐと、○○から紡がれる言葉の数々から、更に犯人像を絞り出そうとする。弁の立つ○○に喰らい付いては、綻びがないものかを考え続けるその姿勢から、付き合いの長さが伝わってきた。
「その可能性は、思考を割けば割くほど薄くなっていきます。たとえば、犯人の身になったとして。先の凶器に関する情報も揃えた上で、何かを他人に訴え掛けたいと思い、犯行に及ぶとき、このケースを第一号とするでしょうか? 手練れのようなイメージこそ世間、警察側に植え付けこそするものの、それ以外は機械的であるがために、今後の”イベント”のオープニングとしては些か地味が過ぎるのですよ。それほどまでに犯人は、殺人と言う一点のみに何かしらの真髄を求めている、と解釈できる。…あと、洗剤の成分が付着していたとか?」
「はい」
○○は微かに笑みを絶やさないままに、紅茶を飲み干す。合わせる形で、神保もコーヒーを口元へと運ぶ。
「きっと、持ち帰っては今頃家庭で使っているんでしょうね」
「…馬鹿な」
冗談はさておき、と付けて足す○○。
「あらゆる仮定からどのような解釈へと繋げても、今回の犯人は頭が振り切れている、ということには違いありません。春さんの言葉がなければ、ここまで深く思考することもありませんでしたが」
気恥ずかしさから、さっと、紅茶に視線を落す春。そのとき、目の前に座っている神保が手で遊ばせている黄色の付箋が、触れられないままに、風も受けないままに、突如として揺れた。
「そうだ、エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。淀んだ沼より生を受け、他に感応し拡大する蒲の草よ。妄言とは斯くも甘い蜜の味がするものだ、厳しさを湛えた現実しか突き付けられぬ神とは、お前は、対照的だな? エドゥ=バルよ、御伽噺は、神は読まぬ。エドゥ=バル、神に声があると思うか?」
聴こえていたのかと思うほどに、ヤオロズが消えたタイミングで、顎をさすりながら、倉野は渋い声で喉を鳴らした。
「…で、○○。仮にそうだったとしよう。仮に、シリアルキラーで、過去の、三件だっけか? お前さんが妄言だって言うそれらの刺殺事件も、どころか、それ以前の犯人不特定、お蔵入りになってる殺人事件たちも。このケースと同じ犯人が行ったものであるかもしれないとしよう」
ずいっと、灰のスーツの袖でコーヒーカップをどかしては、○○へと少し前のめりになる。
「どうやって捕まえるんだ?」
倉野から目を逸らすことなく、これまたあっけからんと、○○は答えた。
「何を仰っているんですか。不可能に決まっているでしょう」
はあ、と、倉野は溜息を吐く。
「だよなあ… だから妄言とか言って保険を掛けているんだろうと思ったよ」
ここで、ウインクをしながら春に顔を向ける○○。…恐らく生涯で初めてウインクをしたのであろう、ぎこちなさが過ぎる。...というか、右目も同時に閉じてしまっているほどだった。
「ま、そういうことですね。…しかし、天啓が降れば、話は変わって来るのかもしれませんよ?」
眼を見張る洞察力、推理力に舌を巻きながらも、果たして神保は、この○○が捜査に協力するつもりでいるのか理解できないままでいた。犯人像こそ、今の会話の中で掘り進めることが出来たものの、最後に匙を投げ出しているために、結果、特に収穫はなかったように感じる。本当にお喋りがてらとして、我々を呼んだのだろうか。...または、何かを、はぐらかしているのか。しかし、先日とは異なり、そうして○○に振り回されることは、もう苦々しく胸に積もるようなものでもない。そんなことを思いながら、手元のコーヒーの揺らぎを、じっと見つめる。昼間に食べたカツサンドの名残だろうか、幾らか油分が浮いており、口元を十分に拭き取れていなかったことを教えてくれていた。昨日まで、惜しまず眼を通し、貼り続け付箋の数々が、少し休めと語り掛けている気がしたが、まだ、甘えるわけにはいかない。
今日も今日とて、応酬を散らす三人を他所目に、本当にただの高校生として、春はメニュー表を眺めていた。よく聞く割に、飲んだことのなかったアールグレイ、と言う紅茶を堪能できたことは幸いだったが、三杯目を頼むつもりもない。○○も、それに気付いてはいるのだろう、春を時折見やりこそするが、春の挙動には口を挟まないでいる。それどころか、よく聞いておいてくださいね、というような、積極的に会話へと参加するよう促すこともしないでいた。…助手とは、いったい何なのか。ここに居て、よいのだろうか。また、父を待たせてしまう。…また、どうせ揶揄われる。
「殺人という点のみにおいて、ストイック、ねえ」
対して内野の倉野は、先ほどの○○の言葉を改めて突いていた。肯定の言葉に代えて、頷く○○。
「個人的には、向こう二年で見られた三件以外も、犯行を行っているのだと睨んでいます。たとえばそれは、事故に見せかけたものであったり、たとえばそれは、病気に見せかけたものであったり」
神保が、詰め寄る。
「…そこまでして、殺人を行う理由は?」
「私個人の見解ですが、修行僧みたいなイメージじゃないかと。だから、動機も何も見えてこない。ただただ、スケジュールをこなすように、更なる自分のために、人を殺す。性的欲求の充足や、ましてや生来の殺人衝動があるわけでもないのかもしれません」
また、突拍子もない仮定を並べる○○に、さしもの倉野も辟易さを滲ませ、溜息を吐き出す。
「そんなやつ、とうにシリアルキラーって甘々な範疇を超えてるだろうが。化けもんだよ、化けもん」
「失敬ですね。私はそんなことしませんよ? 倉野さん」
ふん、と、後ろに身体を退いては顎をさすり、コーヒーカップに指を掛ける倉野。その反応を見るに、どうにも裏で○○のことを、茶化して化け物と評しているのも、彼にはお見通しのようだった。
「話を戻しましょう。捕えるどころか足跡を捉えることすら極めて困難と言うのは、当然、犯行の時期や場所、殺害方法など、犯人のすべてにおいてランダムであろうタイミングを予測しなければならないことに起因しています。それを実行できるだけの卓越した頭脳、思考、危機管理および回避を可能にしている犯人の知性。それを化け物と言うなら、間違った呼び名ではありません」
「...お前さん以外にそんなやつ、いるかあ?」
「そんな方の登場を、楽しみにしているんですよ。おっと、変な意味はありませんよ? ね、春さん」
「いや、あの。ついていけないです…」
けたけたと笑い出す○○。善良ないち市民、とやらを若干、否、舐めてはいないだろうか。わざとである辺りが大変失礼である。
「まあなんだ、あくまでもお前さんの大好きな可能性、ってやつだ。悪く聞こえたら済まんが、上に報告するほどの情報もない、他からのサポートも頼めないだろう。何せ、捜査一課でも”鋭意捜索中”ってなところで一度保留になりそうな勢いまであるくらいでな」
はい、と、にこにこしながら○○は黒い袖を揺らす。
「無論、承知しております。あれやこれやと言葉を良いように羅列こそしましたが、未だ妄言、という範疇を出ないことは、第三者から見ても疑いようがありません。また、私も本業はこれにはなく。保留であると警察の方が判断するならば、私も一般人の端くれ。掻き回すことはしませんよ」
…一般人と自称するのは止めて欲しいところではあるが、やはり○○という男、どうにも掴みきれない。そう、しみじみと神保は思う。自身の能力を認めて欲しいなどの承認欲求がまるで見えないのだ。あたかも、手だけをすっと差し伸べる、無償の聖職者のようにさえ、感じる。
「…とはいえ、○○さんの推察も、捨ておくには信憑性に欠けている、というわけではないと自分は考えます。今後、とりあえずは、東京周辺での刺傷事件に関して、引き続き眼を光らせておきますので」
○○は、ほう、と声を上げ、少し顔を長くした。これまたわざとらしいが、僅かながら確かに驚いているようではある。
「これはこれは! で、あれば。神保さん、東京周辺でなく、全国地域、死傷者でなく死者の、また、できれば交通事故などを含むものをすべてリストアップしてみるとよいかもしれませんね」
途方もない無理難題を澄ました顔ですらすらと○○は話す。そのような時間がない、というのは、彼も分かっていることだろうに、と、神保は右手の指で額を強く押す。
「…そこまでの労力を割けるかは怪しいですが、空いた時間で可能な限り取り組んでみます。…死者、ですか?」
「ふふ。この犯人、必ず殺しそうな気がしませんか?」
倉野が、二人の掛け合いをそっと、隣から微笑みつつ眺めていたが、ここで口火を切った。
「よし、わかったわかった、○○。少しばかり、俺ら二人はお前さんの口車に乗せられることとするよ。だが、期待はするなよ? 忙しくなりゃ、お前さんを優先したくてもできないこともあるからな。まあ、そういうこった、...話の腰を折るようで悪いんだが、俺らはちょいと今から野暮用があってね。神保、行こうか」
目を丸くする神保。事情を一切聞かされていなかったのだろう、春から見ても、メニュー表を横目でちらちらと見ては、何を頼もうか思案しているようであったため、神保の顔、眼が落ち着きのないままに倉野へとピントを合わせようとしていた。
「申し訳ありません、聞きそびれていたのでしょうか、失念していたようです」
倉野は、笑いながら首を振る。
「うんや、ちょいとな。例の管理官様がお前さんに会いたいとよ。行く前から息捲かれても困るから、直前に言おうと思ってたんだ」
聞くや否や、背広を舐め回すように、再び眼球だけを高速で動かし、埃や目立った皺がないかのチェックを始める神保。追い付く形で、身体全体が急に、そわそわと動き始める。
「…承知しました。倉野さん、一度自宅へ戻ることを許可して頂けますでしょうか」
「そう言うと思ってだな…」
うなじを擦りながら、すっと立ち上がる倉野。腰を椅子から浮かした瞬間に、神保が音を立てて左に倣った。...若干、呼吸が浅い様子だ。
「ま、楽しかったわ。○○、嬢ちゃん、…四宮さん、またな」
「ええ、はい。ありがとうございます…」
倉野の不器用な気遣いへと、咄嗟に何故か感謝を伝えてしまった春の横で、にやにやと。おやあ、と、首を傾げて倉野を声で引き留める○○。
「倉野さん、漢気は何処にありましょう?」
「はん。お前さんが今日話したのは妄言だ、って自分で言ってただろう?」
「それを座って聞いていたでしょう?」
はあ、と、ジャケットに手を差し込みながらカウンターで待機している店員へと歩を進める倉野。倉野はそんな寂しい背中を追いながらも振り返り、頭を下げる。
「先日に引き続き、どうにも落ち着いて話せぬようで。では、○○さん、四宮さん。一刻を争うようですので。急ぎ早で申し訳ありません」
「はい。ではでは。警視さん、ですかね、よろしくお伝えください」
「…控えておきましょう」
果たしてどちらの意味なのか、春が分かりあぐねている最中ながら、自動ドアの開閉音とともに、二人が何時しか姿を消していた。
ここで、隣から、ふふふ、と、刻んで喉を震わせては漏れる声が聞こえる。いつも以上のその笑みは、不気味さすら覚えるものがあった。
「掻き回すことはしない? とんでもない、私と”同じ類の人間”が近くにいるのかもしれないんですよ? 見過ごすわけがないでしょう、突っ込むところまで首を突っ込みますとも。このケース、あのお二人の興味を絶やさぬようにしなければなりませんねえ」
「やっぱり… そんな気はしてました」
○○は、何度も頷いては、先の一時をまた、反芻し始める。
「自分でも、言葉に直せば直すほど、確信が強まっていくことに興奮を覚えていました。妄言でありようがない、シリアルキラーで間違いないでしょう。この犯人、確実に狂人の域を超えています」
独りでに盛り上がっているところ悪いとは思いつつ、適当に、話を乗るため、春はひとつ、問うてみる。
「どんな人だと、思いますか?」
「そうですね。私の仮定からすれば、まず、いち地域に定住をしている、という可能性は前提で消えています。それに囚われることのない、むしろ逆手に取りやすいイレギュラーな生活をしている、ということが妥当でしょうね」
問うておきながら、その○○の返しで、一度、春の思考が止まった。幼い頃、物心のつかない頃、ついた頃。その道すがら、経ての今。父が一身を注ぎ、自分を育ててくれている、今。何の縁か、この黒尽くめの男性と話す、今。笑ったとき、泣いたとき。…母さんの死んだとき。そんなざらついた記憶の断片が、割れて尖ったガラス片のように、海馬を裂き、漏れ出してくる。
「…たとえば、どういう?」
春は、こうは聞いたものの、彼がどう答えるのかは、目に見えていた。彼の眼が、もう次の言葉を用意している眼だったのだ。言われるくらいなら、という青い心持ちが、たまには頼もしい。
「ふふ、貴方の置かれている環境と同じく、親御さんが転勤族であったり、とかですねえ」
「…そういうところ、嫌いなときもあります」
「なんと! 嫌われるほど、仲良くなっていたとは」
何を踏み越えるでもない。彼の言葉を借りるなら、あくまでひとつの可能性にしか過ぎない。それも踏まえた上で、春の心を根から揺さぶる、この悪魔のような悪戯を、しかしどこか堪能していた。何故か自分に、このような耐性があるのかなどというのは、この後、家に帰ればわかることなのだ。
「はあ…」
誤魔化すあたりが、優しさなのか。何処か子ども染みている彼が、そこまで出来た人物でないことを祈る春を、夕暮れの神保町がそっと照らす。千代田区の中央に構える神保町には、幾らか来たくらいでは網羅できぬほどの、洒落た喫茶店が歩かずとも散見できる。帰りの道も、それらは変わらない。
カン、カン、と響かせ。エレベータでなく、マンションに外付けで備えられている、まだ錆び付いていない鉄骨の階段を伝い、七階へと上がる高校生。その宙ぶらりな拘りは、つい先程、紅茶を二杯も飲んでしまった分の、そのカロリーを消費しようとしていることに因るのだと、別の自分がその解釈を肌に貼り付けていた。今日は一段と、カラスの声が響く気がする。
部屋へと続く、長細い廊下に、遠くに薄ら見える山々を掻き分けるでもない斜陽が垂れ込む。歩を進めるなか、隣の田村さんの家から聞こえる、小さな男の子の声。確かに、快活な声のはずなのだが、この頃合いに聞くと、どこか一抹の寂しさを感じるものだった。
「...ただいま」
丁度、自室からリビングへ向かおうと、廊下を歩いていた冬人が足を止め、背中越しに声を返す。
「ふふ、お帰り。なに、私も一度経験しておいて、同じことは繰り返さぬ出来た男でな。また、遅れてくるやもと思い、夕食はサンドウィッチにしておいたのだ」
「…気を遣わなくていいよ」
「世の中は広い、とは言うが、そうではない。ただ人が、世の中に多いだけなのだ。故に子を殺める親もいるわけだが、しかし含めて子へと気を遣わぬ親などいない。その角度がほんの少し、他者と異なるがために起きた、ひとつの結果だ。もっとも私の場合、その角度は春、お前にしか向いていないことが嬉しき難点なのだが」
その娘の前で、子煩悩ぶりを発揮しているには表情を喪ったまま、つらつらと語る冬人。その背を追う間に、ふと、あることに気付く。
「…磯の香りがする。海に行ってたの?」
リビングの食卓に、会話をしながら座する二人。テーブルの中央には、ラップに捲かれた大皿が二つ。ざっと見るだけで五種類以上、具が異なるサンドウィッチが、整然と並べられていた。…手を掛け過ぎである。大皿はいつしか、イギリスの貴族が使っている立派なものだとかなんだとかと教わった気もするが、もう、どんなブランド名なのかも忘れている。茶を入れたプラスティックのピッチャーに、まだ結露は見られないあたりが、父の周到さを物語っていた。
「ふむ、そうかな。なるほど、やはり鼻が利く親を持つと、鼻が利く子が育つようだ。…母さんもそうだった。血は争えない、とはまた、先人を侮ること勿れといったところだな」
パラ、と、予めテーブルに置いていた、読み掛けの文庫本を、右手で取っては開き、目を文字へ落とす冬人。先の神保を思い出すわけではないが、思えば父が、栞を使っているところを未だ見たことがない。
「匂いって言っても、ちょっとだけね。…頂きます」
「どうぞ。仕事帰り、美味しい蛤を少し、見繕っていたのだ。少し車を走らせてな」
「…ん? 蛤?」
ページを捲るその手の早さは、緩まることもない。
「ふと、思ったのだ。そういえば、蛤などを、家族で七輪を囲っては食べた記憶が、あまりないと。遠く忘れたことを久方ぶりに試してみるのも興のひとつ。サザエも、と思ったのだが、そこの店では売り切れていてな」
「ふうん」
マヨネーズ、マスタード、それら調味料の加減に関して昔から、その寡多で不快さを感じたことがない。舌の鼓が、食道の道で打たれては、胃へと滑らかに滑り落ちていく。
「では、幼心を携え、私も香りで競うてみるとしよう。…ふむ、どうだろう、今日はまた、例の方々と会っていたそうじゃないか」
「ああ、そうそう。…匂いで当てられるほど、あの人、何かつけている感じはしないけどなあ」
冬人も、左手にサンドウィッチを携えている。食に集中すればいいものを、何故か、おおよその意識を本へと割いて読みながら食べる癖がある。かと言って、対面に座る自分が、蔑ろにされている気持ちになったことはない。
「まるで意識外でふわりと舞う、草花の綿毛のようだが、石鹸の香りがするのだ。清潔感を保つという意味もあるのだろうが、目立つことを嫌うのだろう」
なるほどねえ、と、何千回目かの感心を、父に覚える。ここで、幾らか遅れて、残りのジグソーが、ぴたっと。父と話すときは常に気を付けていることながら、その語頭から語末までの情報を縫い合わせては、理解する。茶を入れたコップへと伸ばした手が、止まった。
「…この前、話したときは。○○さんの話しかしてないけど」
「さすが私の娘だ、徐々に気付きが早くなってきているな。私よりも五、六歳年上の男性が二十代の頃に流行し、皆がよく好んで使っていたコロンの香りが、そして、最近の若者が清潔感を気にするときに使用する、市販の清涼スプレーの香りが、それぞれ。先日と同じくな」
○○を想起させるようでいて、○○よりも愛嬌のない自身の父へと、恐縮ながら、褒め言葉を贈呈する。
「…化け物だ」
「心外だな。化け物から天使は産まれんよ」
やはり、この父、四宮冬人は、○○と出会ったからは、より”そういう力”が、在るのではないのかとも疑うまでにきている。かと言って、○○の時のように、今まで父の近くに居て、そのような声の類は一切、聴こえてきたことはない。思えば昔から、父の洞察力においては、驚かされることが多かった。そのためか、母は、あまり他人の中を覗くものじゃありません、と、毎度父を窘めていたものだが。当の今の冬人は、左手片手にサンドウィッチを抓んでは食べながら、左手で本のページを一定に捲りながら続けていた。
「話を戻そう。コロンの香りから察するに、本当に古き善き精神を持った、ストイックな方なのだろう。○○さん、とやらと違って他を引き合いに出さないということは、その清涼スプレーを使っている男性であろう青年とペアだな。…なるほど、警察の方々かな。先日は、春。帰りの道中、どうにも快くないものを見てしまったらしいから、その聴取と言ったところか?」
「…その件、今言われるまで忘れてた。まあ、確かに刑事さんなんだけど」
察する度合いが極まっている冬人から、そんなこともあった、と、思い出させられる春。衝撃自体は未だ、身体が覚えているものの、正直に言って○○との出会いの方が鮮烈であったために、脳裏に焼き付いていたはずの映像自体はもう、喜ばしいかな朧気であった。
「この私が、推理を外すことがあろうとは。恐れ入ったよ、春」
「だから何の自信なの、それ」
しかし、と、冬人は続ける。
「警察の方も多忙の身だ、あまり迷惑を掛けないようにな」
「…だね」
軽い夕飯を口に運びつつ、何となしに、父の過去を想う。人も、ここまで鋭利になってしまうと、生き辛くなかったのだろうか、と。母と、どのようにして出会い、生涯を共にしようと決めたのだろうと。...以前、○○が言っていたように、実は、過去に”例の何か”が聴こえていたりしたことがあるのだろうか。父とはあまり心霊現象の類の話をしたこともないのだが、もしかしたらもしかするのかもしれない。そんな浅い質問を何気なしにしてみようと口を開いた春だったが、自分の口から出た言葉は、真に自分へ素直なものだった。残酷なまでの裏腹さが意図せず胸中に隠れていたのは、わざわざ階段を使って七階まで登り、気持ちストレスを抱えていた両足から、直ぐに分かることでもあった。
「父さんは人、殺したことある?」
「無論だ」
「…へ?」
あまりの即答に、自分の口から出た言葉と重ねて、思考が停止してしまう。対し冬人は、まったく。春の眼を見るでもなく、唐突かつ要領を得ない娘の問いに顔を顰めるでもなく、ましてや怒りを顕わにするでもなく。一定の目線が、ただ活字を追っているだけだった。
「なんと、私としたことが、滑ってしまったのかもしれないな。しかし春、冗談はさておき、人は常にあらゆる形で他の何かを殺すものだ。直接命を奪う、という最もシンプルな方法以外にも。言うまでもなく、言葉ひとつで相手を壊すことも可能だ。知らず奪われることだけでなく、下手を打てば知らず奪うことになる恐怖もまた、我々は確と認識しておかなくてはならんよ。あまりの可愛さ故に、春が私の心を奪っている、と言ったようにな」
最後の一言で、全身の硬直が漸く消え失せる。淀んだ二酸化炭素を吐き出しながら、まったく、と脱力する春。小さな頃、特に転勤時などは、強く父にあたることも多かったのだが、常に即答ではぐらかされては、宥められていた。
私の、父なのだ。
「冗談だよ、冗談。そんな話を、さっきしてたから」
「その割には、心から問うていたように見えるが。まあ、良しとしようか。だが、その確かな疑念は常に持ち続けるべきだろう、春。親だからと、友だからと。相手に信を置くには、この世界はあまりに宙ぶらりが過ぎる。自分だけだ、頼りになるのは」
うーん、と、手にサンドウィッチを持ってこそいるが、頭に神経を集中させては、冬人の言いたいことが何であるかを、いつものように、探り始める。
「…結局は裏切られるから、人は信用しなくていいってこと?」
「違うな。裏切られようが、それでも他人を信じようとする、自分の信念が肝要だということだ」
ほお、と素な相槌をしてしまう春。自覚もしているが、未だ変に斜に構えて生きてしまうのは、小さな頃からこの師が、親として傍に居たからなのだろう。
「…たまにはいいこと言うね」
「普段から茶化すような言葉遊びをしておくことは、ここぞで良いことを言うためのスパイスになる。覚えておくといい」
謎に打算的な気もしないでもないが、これが大人と言うものなのだろう。また、うーむ、と、手元のサンドウィッチを見つめる春を他所目に、表情を一切変えることなく、ふふ、と声を漏らしつつ、春に気付かれないままに、数十のページをパラパラと戻す冬人。後から思えば、その読むペースの割りには、文庫本のタイトルが変わっていない気がしないでもなかった。
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