悪魔解体: 二(中)

 ⇒ 悪魔解体: 二(上) より


 桜の盛り。はじめてA校の校門を跨いだとき、それらより目立つくらいに目の前へと広がり満ちていた桃色の杏も、もうすっかり青々しい緑へと変わり、その果実を実らせている。

 ○○へと歩を進める二人のうち、右側、自転車を手で押していた神田が、ながらに春の横腹へと肘鉄をかます。衝撃そこそこに、痛みはまるでない。

 「なんだかんだ言って男前、捕まえてるじゃないの!」

 隣にしか聞こえない程度の小声で、春をいじった神田であったが、事もなげに、数メートル先に居る彼が、返事をする。

 「ふふ。あまり男前と呼ばれることは未だ慣れないのですが、ありがとうございます。春さんのご友人でしょうか?」

 目を丸くする神田だったが、一拍も打たない間に、いつものにこにこ顔へと戻す。

 「は、はい! 四宮さんの友達の、神田と言います」

 「よい友人と巡り合えたようですね、春さん。神田さんも、春さんをよろしくお願いしますね」

 どこか誇らしげに、自転車のハンドルをきゅっと強く握る神田。

 「はい。…じゃ、春ちゃん、また明日ね!」

 「あ、うん。じゃあね」

 ああそれと、と、謎の気を利かせてか、自転車に颯爽と飛び乗り、勢いよくペダルに足を掛けた神田に、○○は声を掛けた。

 「手先が少し、荒れていますね、神田さん。冬ではないにせよ、ハンドクリームなどの手入れをしては如何でしょう。お肌は女性の武器と聞きます、“たまにはフロアでの接客も一興かと”」

 二人へと振り向くでもなく、神田は背筋を硬直させ、すべての動きを停止させる。ペダルを漕ぐための足すら、細胞単位で凍り付いているようだ。少しの間の後、気の抜けた表情で、○○へと称賛の言葉を投げ掛けた。

 「すごい… 探偵さんみたいです」

 「ふふ、探偵は昔ほど稼ぎにはなりません。私はほんの少し、分かったようなことを言っては、初対面の方を驚かすのが好きなだけですよ」

 「○○さん、なんか私が恥ずかしい…」

 これは失礼、と、笑みを絶やさぬままに春へと頭を下げる○○。ここで、例の如く、神田の履いているソックスに縫い付けられていた、ワンポイントのリボンの刺繍が、若い声色で○○を窘め始める。

 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。装飾を施されることのない、向こう側への道と成る、ありふれた橋よ。激流に逆らうことで、自身の才を誇示するものは、親を亡くした孤児よりも救い難い。そのような一幕で遊ぶな、エドゥ=バル。息すら継ぐことなく、お前は心の臓が止まるまで、踊り続けるのだ。エドゥ=バルよ、お前の才は、他ならぬ自身と深く対話するために在るのだ」

 二人の目線が、自分の足元に止まっていることを告げてくれたことで、すっかり身体の強張りが解ける神田。これ見よがしに、おっと、と、腕時計を見やる。

 「では、遅れそうなので! 春ちゃんも、○○さんも、いずれゆっくり話しましょう!」

 ええ、と○○は返しながら、凍っていた分だけ溜めこんでいた反動を元手に、両脚をフル稼働させ、姿をみるみる小さくさせて行く神田を見送った。


 「神田さん、実によい子ですね。ですが、そういう人ほど、無理をした分だけ影を抱え易い。春さん、神田さんを照らし続けてあげてくださいね」

 「はあ…」

 むしろ神田に救われているがために、○○のその言葉に、もどかしさを覚える。どうにも逢ったときから、自分への、期待値と言う名のハードルが高い。もう、いちいち口には出して問うたりはしないが、どのようにして、彼女が今からアルバイトだと、どのようなアルバイトなのかも踏まえて、言葉を交わすでもなく把握したのだろう。そんなことを考えながら、つい神田と比べては、卑屈な言葉を並べてしまう。

 「…強い人を見ていると、尊敬します」

 確かに、と○○は頷く。

 「ですが、弱い方が懸命に生きる様もまた、往々にして、それはそれは美しいものですよ?」

 一度斜面を転がり始めてしまった手前、春は更に顔の角度を下へ調整する。

 「それでも、強い人が、強く在り続けようとする姿勢は、弱い者には叶いません」

 「ふふ、懸命に生きている、という点においてはそのどちらも同質です。春さん、言葉遊び、お好きですか?」

 「それこそ敵わないので結構です…」

 ○○は、特段隠すわけでもなく、にこにこと春の反応を楽しんでいるのが、手に取るように分かった。慣れてさえしまえば、もちろん、何のことはなく、むしろ下手な詮索合戦に乗じなくて済む分、気は楽である。

 「遊びですから敵うも何もありませんよ。おっと、ここで立ち話もなんです、これから幾らかお時間はありますか?」

 先の神田の件だけでなく、どうしてA校に通っていると分かったのか、そしていつから待っていたのか。様々な質問が次から次へと泡のように浮かび上がって来るものの、確かに○○の言う通り、自分の通う高校の門前で立ち話から生じる気恥ずかしさが上回り、直ぐに弾けた。…当然この会話の最中にも、疎らながら、二人の隣を往来する学生が、絶対的な距離感を示す目線を伴って過ぎていく。

 「…紅茶がおいしいところなら」

 ふふ、と、○○が口の隙間から漏らす。

 「そう仰ってくれるのではないかと、予めスマートフォンで口コミ評価の高い紅茶が美味しいと噂のお店を探しておきましたよ! いやはや、便利になりましたねえ」

 彼は続ける。

 「ですが、今の世では。道に迷い、隠れた名店を探す楽しさも、どうして忘れがちになります。春さん、道には迷いましょうね」

 「いや、迷いたくはないですけど…」

 そう他愛のない言葉を交わしながら、春は少し、安堵を覚えていた。彼はきっと、紅茶を嗜まないのだろう。何故自分が紅茶を好きだと知っているのかはさておき、彼にも、知らぬことがあるのだと。本日は、いつぞやとは違い、黒が反射するほどに、快晴である。

 


 千代田区の中央に構える神保町には、幾らか来たくらいでは網羅できぬほどの、洒落た喫茶店が歩かずとも散見できる。気取った街並みを行き交う、働き盛りのスーツたちと、ラメに彩られた胸元のサングラス。時計の短針に遠く及ばない、乱れた音を刻むハイヒールと茶の髪。誰かが壇上に立って演説をしていると言う訳でもないのに、足元から犇めく声、中りに黒。

 「その隣に、過ぎた春。黒に添えるに、過ぎた白。ふむ、どうでしょう」

 「…すらすらと、よく言葉がでてくるものですね」

 上機嫌な○○の隣で、薄い皮肉で巻いたように見せかけた感嘆を伝える春。外来語をひとつでも、日常で使える人は確かに羨ましさを覚えるところだが、日本語もここまで遊ばせることができると、ただひとつを突き詰めるのも楽しいのではと、思わざるを得ない。

 「その通りです。私はとても、日本語が好きなのですよ。表現の幅が広過ぎるほどで、故に生じる曖昧さが、更なる可能性を生み出していますからね。本当に、日本に生まれてよかったと思います」

 見上げるまでもなく、足元のコンクリートの反射が、今日の暑さを物語っている。着きましたよ、と、彼が案内してくれたのは、また、白を基調とした、小奇麗な店だった。○○と歩いていたこともあるのだろう、神保町までの体感距離はそれほどでもなかったが、肌からは正直に汗が滲み出している。

 「身を包むには黒が落ち着くのですが、それ故か、周りを包まれるには白でして。無いものねだり、でしょうかね」

 まだまだ言葉を遊ばせながら、店内へと入って来た彼を見る店員は、一瞬、怪訝な目線を遣りつつ、意識的に上げられた口角を以て対応する。いらっしゃいませ、と声を掛けられた○○は微笑み交じりに、二名であることを伝えた。

 「…よろしければ、ご注文を伺いますが」

 案内された窓際の席は、窓越しに大通りが映る。

 「本日のおすすめの紅茶などあれば、それを二つ、お願いします」

 かしこまりました、とカウンターへと踵を返す店員。二度目になる、春は座る際にも、足の位置などを気に掛けることはもう、しない。

 「…紅茶、好きじゃないんじゃ?」

 自分の予想以上に紅茶の種類があることへと目を見開きつつ、○○に問う。

 「そうなんですよね、楽しみです」

 「言っていることが滅茶苦茶では…」

 笑みを絶やさず、おしぼりで手を拭きながら口を開く○○。

 「座って早々ではありますが、少し、楽しいお喋りでもしましょうか。春さんは、よい食事とは、どのようなものを指すと思いますか?」

 この唐突な問いも、最早春にとっては待っていた節すらあった。もちろん、待っていたとはいえ、咄嗟に巧いことを言えると言う訳でもない。

 「ん。うーん、良いもの、美味しいものを食べる、飲むことですかね」

 「確かに。人を良くする事、と書いて食事ですからね。ですが、よいもの、にも色々あります。たとえば、身体によいのか、精神、心によいのか。小さな頃は、身体に悪いと言われるファストフードに、嬉々として惹かれて食べては、親に感謝していたかとは思います。それらの食物が身体に悪いことは語るまでもありませんが、子が喜べば親も喜ぶこと請け合い、理想的な食卓の雰囲気を築き易くなりますね。これも立派なよい食事の例だと言えるでしょう」

 なるほど、と、春は膝を打つ。

 「…逆に言えば、美味しいと思わぬまま、しかめ面をしながら、身体によいものをとることも、立派な食事だと」

 「その通り! まあ、此度の紅茶に関しては、美味しくないものを飲むわけではないので、少々例からは漏れますが。要するに、であればこそ、美味しいものを美味しいと楽しく、美味しくないものを美味しくないと愚痴をこぼしながら楽しく食べる、これが食事の肝なのではないかと言うことですね」

 「…嫌いなものも楽しく、ですか。難しいですね」

 そんな春の言葉に応じて、微笑みながら、○○は言葉を紡ぐ。それは妙に、刺さるものがあった。

 「そのために、人には他人がいるのですよ」


 ここで、お待たせしましたと、ステンドグラスが散りばめられたガラステーブルへと、注文した紅茶が、置かれる。淡い桃色と、紺色で染められたティーカップ。その縁の精微な装飾から、高価なものなのではないかとまじまじと眺める春に対し、○○は既にカップを持ち、紅茶の香りを身体に通していた。

 「ふふ、やはり紅茶はどうにも慣れない。どうせ、美味しいだけなのでしょう」

 「それでいいんですけどね…。ん」

 特別、紅茶に詳しい訳ではないが、その美味しさに思わず声が零れる春。濃厚過ぎない甘みと、温かみが、胃から四肢へと、じんと流れてゆく。そんな春を○○は、穏やかな眼で見つめる。

 「自分は満足していなくとも、ともに食事の席に座る人が満足気であるならば、それもまた、自分にとっての良い食事です。さしもの私も、今回のお店選びは、スマートフォンに華をもたせないといけないようですね」

 ○○が言い終えると同時に、隣のテーブルに座っている女性二人組、その片割れのイヤリングが声を漏らした。

「食とはエドゥ=バル、何かの命を食らうことだ、エドゥ=バル。言わずもがなという言葉は、肝要なことを繰り返し反芻するための枕詞。エドゥ=バル、何かが今も、何かの命を食べては、何かの命が何かに食べられている。だが、エドゥ=バル、お前は食べられる存在か? では、お前は、何を喰らい続け、何を代償として差し出す? 空腹か、エドゥ=バルよ?」

 音を立てるでもなく○○は、紅茶をガラス仕立てのテーブルに添えられたカッププレートへ戻す。

 「これはまた、丁度良いときに。メインディッシュなトークです、春さん。先日は、ふふ、邪魔が入りましたからね。…ヤオロズさんの声。貴方には、どのように聴こえているのですか?」

 おおよそ、察しはついていた。そして今日もきっと、その擦り合わせ、話は尽きぬことだろう。もっとも、春自身が、それを望んでいたからこそ、今此処に座っているのだった。知らぬまま抱えるには、全貌が見えない、不安定な危うさをもっているような気がしてならなかったからだ。

 「うーん、声として、聴こえるには聴こえるんですが、何というか、ぱっと、頭の中に文字が浮かんできて、それを声がなぞっていく感じですね。ヤオロズ、さんは、文字に起こすと結構喋っていると思うんですが、体感的には、すっと数秒ほどですべて頭に入ってきます。...分かり辛いかもですが」

 ほう、と声を少し大きくする○○。

 「ふふ、質問攻めとなりそうですね。先の内容は、ざっとで結構です、どのようなものでしたでしょうか? また、彼らは、春さんに呼び掛けているのですか?」
 

 先のイヤリングが語った内容を繰り返し伝える春。持ち主はもう、店を後にしていた。

 「…という内容ですね。あと、エドゥ=バルという名は聴こえて来ますが、特に私に対して語り掛けているわけじゃないようです」

 「なるほど。今までの素振りから見るに、声の出所も把握しているようですが」

 「恐らく、○○さんと一緒だと思います。さっきので言えば、そこに座っていた女性のイヤリングからでした」

 ふむ、と、既に空席となったその場所を○○は見やる。

 「…どうにも、私に聴こえている内容や聴こえ方、そのプロセスまでもが同一のようです。聴こえているという事実だけでも十二分に満足なのですが、どのように聴こえているかも大事だったもので。ますます、心置きなく死ねるかもしれませんね、私は!」

 「はあ…」

 嬉々としている割には、細かなところまで擦り合わせてくる彼の姿勢に、やや春は椅子の背へと、もたれる。悪い気はしないのだが、どうにも荷が勝ち過ぎる。そもそも、まだ自分が何故聴こえるのかを含め、あらゆる理解が十分に及んでいないからだ。○○と喋る時以外は、全く聴こえてきた試しもなく、また他の時間で何か特異なことが起こったわけでもない。○○とともに過ごしている時以外は、まったく普通の、斜に構えた子どもに過ぎない、そう春は自覚していた。

 「…仮に、期待されていたとしても、私に何かができるとは思えません」

 ご謙遜を、と、意味を持たせるには統一性のない、色や絵柄を度外視している歪なステンドグラスを指でなぞる○○。

 「私も、何かを成したわけではありませんよ。そして、春さんの世代で、何かが成し得ることができるとも、あまり考えていません。そこがキリストさんとは違うミソだとは、先日にもお伝えした通りです。まあ、春さんの後に誰かが続くのかも、これまた不明瞭なのですが」

 春の相槌を待たず、活き活きと○○は続ける。

 「繰り返しにはなりますが、春さんとの出逢いは、あらゆる可能性を、私の中でクリアーなものにしました。そう、あらゆる疑問が浮かんではまた、水面に上がってきては、どの気泡から突いてみようかと、楽しくなるほどに。これを機として、私のような人間と立て続けに、出会えたりしないものですかねえ」

 身内の変人を含め、その可能性を否定しない、できない春。

 「...案外近くにいるのかもしれませんね」

 ○○はふむ、とだけ口で応える。目線は、まだ少し夕暮れと言うには早い時分のためか、そこまで情報量の多くない外の雑踏を眺めていた。

 「推測ではありますが、春さんのように、誰かのその能力とやらを共有出来たりする方は、私のような人間よりも珍しいのではないかと。また、私には私のヤオロズさんが、他の方には、その方なりの聴こえ方が、きっと在るのだと、そう私は思っています。見たところ、春さんは未だ、そういった方の声は聞こえたことがないようですが」

 「そうですね。○○さんと出会うまでは、特に何も」

 手元の紅茶に目線を戻す○○。ぐいと飲むことはあまりないのだが、気付けばもう、底を尽きかけているようだった。

 「私が第一号というのは確かに、嬉しいものがありますが、そう考えると、やはりそのような方々が思っている以上に少ない、ということなのでしょうね。現状、私たちだけの間にのみ、成り立つ作用。ときめきを覚えるようで、それはそれで悲しいものです」

 別の意味合いを、春の中では隠して持たせながらも、悲しいと言うのは止めてくれと○○に口を開き掛けたその時、先日の喫茶店と異なる、自動ドアの開閉時に響く、よく聞く電子音節が木霊した。見覚えのある、二人。

 「おいっす。店は間違っていなかったようだが、○○。お前さん、紅茶も嗜むのかい? 先日ぶりだね、お嬢ちゃん」

 「○○さん、四宮さん。ご無沙汰しております」

 理解が追い付かない割に、そういえば、前もそうだったなと冷静さを保つ春。

 「お二方、どうも。無沙汰というには、間隔は短いですが。ふふ、春さん、今回はお邪魔虫ではありませんよ、倉野さんたちは」

 小さな声ながら、春は店員を呼び、捕まえる。残念ではなかった、と言えば嘘になるが、先日の間違えをまた冒すほど春も、子どもではない。代わりの紅茶は、既に決めていたのだった。


 ⇒ 悪魔解体: 二(下)

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