悪魔解体: 二(上)

二 - 多弦楽器

 ⇒ 悪魔解体: 一(下) より


 千代田区。言わずと知れた霞ヶ関近辺は、昔こそ堅苦しい雰囲気を纏っていたが、しかし近寄り難さを断片的に残しながらも、今ではもう、すっかり多くの若者が、その地で足を鳴らすような、そんな陽の当たりも息衝く街となっている。その変遷に眉を顰める、と言うことではないが、煙たがられるような世代へといざ足を踏み入れてみると、やはりどこか思うところがある倉野は、自分を見る、今朝の娘の目付きを踏まえて、しみじみと桜田門へと歩きながら思いに耽る。未だ夏先とは言え、もう暫くしないうちには、庁前の並木に蝉が群がるのだろう。地球温暖化がなんだ、と、初めて聞いて久しいが、いざ、上下左右を無尽にコンクリートで張り巡らされた中に身を置くと、夏を待たずとも、確かに。灼熱へと放り込まれた感覚に陥るほどには暑くなるのは疑いようがなかった。若かった所為もあるのだろうが、精力が溢れる昔の時分においては、さして気にならなかったのだが。

 老体と自認するには、未だ老いていない自負はある。とは言えきっと、今年の夏も、冬も。身体に突き刺さる程に堪える筈だろう。そんな倉野の憂鬱を、まるで些事だと言わんばかりに嘲笑いながら、霞ヶ関に座する警視庁は、今日もこれ見よがしに仰々しく、人々を平等に見下ろしていた。真っ新な正義を背にしたその白い壁は、しかし時代と言う風に当てられ、目を凝らさなくても少しばかりくすんでいる。それは勿論、今にはじまった風化ではない。


 「若い頃は俺も、この壁がもっと白く見えたもんさ。だがな、年を取ればお前さんも分かる。俺らの目の色が曇っただけなんだとな」

 庁内一課で合流すればよいものを、毎朝、出勤の際には、大抵は駅前であるが、ショートメールでの事前合流先の相互確認を怠らない神保。こうして顔を合わせる度に、変に年嵩のいったような愚痴を聞かせれば、喫煙所まで付いてくる神保でさえ、いつかは若干距離を取るようになってくれるのではないかと倉野は薄ら、期待しているのだった。好かれることは満更でもないのだが、あまり持ち上げられるのも性に合わない。


 「ですが、もしも澄み渡るような白い正義が既に在ったなら、我々は職に溢れて行き場を喪っています」

 「馬鹿野郎、ほかにもゴマンと仕事はあるだろうが」

 「…考えが及ばない世界ですね」

 どうにも年端もいかぬ人間は、いつの時代も、最も可能性という名の地平線が目の前に広がっている年頃だと言うのに、つい目を逸らしたがるようだ。ましてや今の世の中など、より選択肢で溢れて返っているというのに、如何せん固く構えて生きては、多くのものを知らず失っていく。それに気付く頃には、目尻の皺が重なるのも、また常なのかもしれない、そう倉野が巡らせては、右手で後頭部を擦る。

 「はあ… 桜田門が誇る第一課の名折れにまだ、付いてくるのか、神保。俺と一緒に笑われちゃ、エリートの肩書きに要らん泥が付いちまうぞ」

 しかし真っ直ぐと、倉野の目を見据え、即座に否を唱える神保。

 「いえ、上層部はそうお考えではないはずです。何より、私自身が倉野さんに付いていきたいと、思っていますので」

 「...参ったな」

 次に顎をさすり出す倉野。今朝、剃り忘れた無精髭を、適度な刺激で、指紋が攫う。

 「まあ、なんだ。〇〇みたいになれとは言わんが、お前さんも幾らか柔軟に立ち回った方が、得することは多いぞ?」

 ここでこくりと、顔を俯かせる神保。眉間に皺を寄せるなどはしていないが、何か思うところもあるような表情をしている。

 「…であれば、損する生き方でよいかと」

 「…例えが悪かったな」

 数秒の間の後。先の貌を外しては顔を上げ、そう言えば、と、話を仕切り正す神保。

 「倉野さん、例のケースですが。解剖医、また現場鑑識の見解からして、凶器は錆びていない、刃渡り二十センチメートルほどの文化包丁の線が強いとのことです。現物はまだ発見されていませんが」

 はあ、と、倉野は息を吐き出す。

 「お前さんなあ、仕事前から仕事の話をしなさんな。余計な皺が増えるぞ」

 「申し訳ありません」

 絵になるような姿勢で、直ちに頭を下げる神保。心は込められているようだが、どうにもその自身の性分に間違いはないと確信しているような素早い所作だった。

 「…お前さんのためを想って言っているつもりなんだがな。で、ブツは未使用のものだったのか? それとも使い古しかい?」

 頭を上げ、神保は淡々と口から情報を流し始める。
 
 「後者ですね。錆びていないとは言え、ありふれた食器用洗剤に含まれている物質の反応も微量ながら認められたとのことですので、日常生活で使用していた可能性が高いかと」

 「ふむ。○○が言う通り、食えない相手だ。...念には念をってやつだ、収穫はあまり期待できんだろうが、手が空いてるときにでも、江東区周辺の文化包丁の流通ルートも浚っておいてくれ。数ヶ月も遡らなくてもいい」

 「承知しました」

 神保はここで、これまた思い返したかのように続ける。

 「…そう言えば○○さんは、凶器に関してはあまり踏み込んではいませんでしたね。結果が出ていなかったから、と言うこともあるのでしょうが」

 はは、と乾いた笑いをする倉野。

 「いけ好かないが、あいつが突かなかったところが、後から実は、ってケースを見たことがないんだよ、俺が知る限りはね。まったく、それを突くことに必死こいて飯食ってる奴らからしたら、堪ったもんじゃない話だ」

 「…信用しているんですね」

 声の抑揚が明らかに落ち込んだ神保へと、倉野は咄嗟にフォローを入れる。

 「おっと、気を悪くしなさんな。お前さんと比べてどうのと言っているわけじゃあない。あいつはどこかしら人じゃなく、お前さんはどこまでも人だろう。お互い、良いところを補い合えばいいのさ」

 ふ、と神保が先の貌に張り付いていた影を消して、笑う。

 「いけ好かないですね」

 時折笑うことこそするものの、この数ヶ月中においても一切見せなかった表情、言葉を零した神保をして、目を丸くする倉野。後から、喉を響かせる笑いが、こみ上げてきた。やはり若いうちは、こうでなくては。

 「これまた、たまげたな! ○○と出会ってからこっち、若もんらしくなってるじゃないの」

 「普段からも、出来た大人ぶっているわけではないのですが…」

 いつもならば、気怠いままに庁内へと足を踏み入れる倉野だったが、今朝に限っては、どうにも足が軽い。其れが、その時折でコンディションが左右されるくらいの青さに因るものだと、自分の中にまだ残っているのだと、そう気付いては、倉野は何処か胸を撫で下ろす。朝っぱらから忙しなく、職員行き交う桜田門の中ではもう、一足早く冷房も走り回っているようだった。



 江東区に在る私立A高校は、体育館を除いた三棟から成る、控えめに言っても、小さな高校である。それぞれの棟は、頭の高さを揃えた三階建てであり、東京湾岸へと並行する形で、川の字の如く並べられている。各棟は、二階部分の渡り廊下で連結されており、その上階においても、吹き曝しではあるものの、各棟へと往来が可能になっている。三階、または屋上からなら薄らと東京湾が臨めるが、特段、春はそれを意識した記憶がない。転校続きの春をして、珍しいとも思う点は、三階から降順に一年、二年、三年と、クラスがそれぞれ配置されていることか。一年坊は三階まで元気に階段を上れということだろうが、確かに、古きよき日本における、ある種の理には適っていた。

 「春ちゃんはさ、」

 春のクラスは第二棟二階、中でも陸側の方面に位置している。転落防止のためだろう、気持ち大仰な出格子窓から、少し左手を見やれば、都心部。あそこでは今、どれだけの人が、何のために、何をしてるのだろう。そんなことばかり、取り留めることもせず、髪へと風を通す春に、可愛らしい声が左隣から飛び込んできた。

 「なに?」

 「好きな人とか、そろそろできた?」

 気さく、それ以上の距離感で話し掛けられているのには違いないのだが、来て数ヶ月とも経っていない転校生へと、このように話しかけてくれる神田には、春にとっても幾らか救われる存在であった。住まい、学校を転々とする身になると、どうしても距離を自分から詰めたがらない、そんな善くない癖が、何をしても染みついてしまっているからだ。

 「…いやいや、ここに来てまだ三ヶ月も経ってないのに、惚れた腫れたって、ねえ」

 神田は、持ち味の愛嬌が溢れんばかりに、にこにこしながら、春のそっけない返しをうんうんと流し愉しんでいる。…笑顔を常に湛えられる女性は得だ。神田を見る度、自分もそれができたら、と思わざるを得ない。

 「や、一目惚れとかもあるじゃん。というか、言い寄られたりするでしょ。春ちゃん、美人だし」

 衣を着せない、神田の澄んだ褒め言葉に、うーむ、と、前髪を少しだけ、くるくると指で遊ばせる春。

 「照れるね。それを言ったら神田さんもじゃん。…って言うか、いきなりどうしたの」

 えへへ、と何やら含みをもたせて口角を上げる神田。ずいっと、春へと身体を寄せる。

 「サキで良いって。いやねえ、夏と言えばイベントが多いじゃん? 夏休みまで一ヶ月切ってるっていうのに、独り身は寂しいじゃあないか」

 つい、その言葉に釣られては、春の表情が緩む。

 「またおじさんみたいなことを…」

 「いいや、我々は乙女だよ。…おっと、バイトの時間だべ」

 「ん。私も帰る」


 まだ夕暮れというでもない時間帯。窓を背に踵を返した春の耳に届き、聞こえて来る喧騒は、遠くに響く自動車群のエンジン音と、窓越しの開けたグラウンドに点在する、運動部員の掛け声から成っている程度だ。言われてみれば確かに、春は、自分自身があまり恋愛とやらの道を、まるで通ってきていないのだと振り返る。今このとき、神田とともに一階へと降りる階段の道中でも、顔立ちの整った、あるいは爽やかな男子生徒などとすれ違っているというのに。格好良いと思う同級生や上級生と顔を合わせないこともないのだが、其処から恋愛に発展するという、そのきっかけ、手順がまるで分からない。そうして見知らぬ標識の先に行かないような、余分な変化を好まないきらいであることは自分でも把握しているつもりだが、それらはすべて、父の所為にしてしまえば、済む話だった。

 「恋はね、理屈じゃないのよ」

 一階の渡り廊下から棟外へと踏み出し、乾いた晴天の空を指差す神田。

 「謎に説得力があるね... あ、そういえば。おしゃれな店、見つけたんだ。今度さ、…あちゃあ」

 繰り返すようだが、A高は春の転校歴から見ても、比べて狭い。その渡り廊下から校門まで、実に歩いて一分もかからないくらいの距離である。…かからないが故に、一瞥するだけで非日常の「黒い何か」が校門で微動だにせず、立っているのも、春は数秒で認めてしまうのだった。視界に入った瞬間、頭を抱えた仕草とは裏腹に、眼の奥でその脈が感じ取れるくらいには、身体の内が熱を帯びる。

 「春ちゃん、とうとう不審者とつるむようになっちゃって…」

 とうとうと表現されるのは納得がいかないにせよ、確かに、全身が黒に染められた男が立っているというのに、その校門の周りには、教師の人影が見られない。帰宅部やその他、部活動のないだろう生徒たちが続々と、その門を通る度、全身の強張りを以て彼を視認しては、見て見ぬ振りをして、後にするばかりだった。…一応都会だというのに、どうにも危機管理の甘い気がする高校である。

 「いや、まあ。不審者じゃないんだけど。...まあ、不審者に見えるね」

 ここで、そんな春の何かを察知したのか、唐突に顔を上げ、瞬きひとつで春を視界に捉えた○○。整えられたその顔をまた、子どものようにくしゃっと崩しながら、こちらに右手を挙げていた。

 「これはこれは春さん、奇遇ですね!」

 「いつか、不審者扱いされますよ、○○さん…」

 溜息混ぜては、そう言葉に起こしながらも、何処か臓の腑が躍る。そんな春の顔つきを、これまた、にやにやとしながら覗き込む神田。毎度のことながら、自分の周りに、やはり普通の人なるものはいないらしい。


 ⇒ 悪魔解体: 二(中)

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