悪魔解体: 一(下)

 ⇒ 悪魔解体: 一(上) より


 夕間暮れ。江東区内でも外れに構えている、先の時間よりも更に空いたその店のテーブルにおいてはもう、メニュープレートすら暇乞いをしていた。その一角、陽の斜すら手を差し伸ばさない代わりに、人工の暖色燈がそっと照らしているのは、妙に熱気を帯びた四人組であった。そのうちの、抑揚の利いた声とは裏腹に、真っ黒の色をした男が、口を開く。

 「これまた。楽しい時ほど何かしらの邪魔立てが入る、というのも、確かなようですね、倉野さん」

 ふん、と、顎を撫でながら眼を少し大きく開け、倉野という灰色の男性が返した。

 「なんだあ? 今日はえらいご機嫌じゃないか。…その嬢ちゃんが掘り出し物ってところかい?」

 ちらと春を見やっているようで、しかし春は、この倉野に自分の芯を探られているような感覚を覚えた。穏やかな目つきながら、その鋭さを隠し切れていない。…警察の人か?

 やはり察しがいい、と、怪訝な表情を見せた春を評価する○○。

 「その通り、この方は倉野さん、警視庁直属の警部補です。後ろの方は、はじめましてなのですが、この春辺りに配属されたエリート方、と言ったところでしょうか。…関東出身ですね、聡明なようです。また東大卒が増えましたね、倉野さん。活気の溢れる素敵な方のようですが、貴方の後ろに就くことになったのは、偶然ではないのでしょう。上の判断も間違ってはいない。目利きに秀でた方がやはり、いらっしゃるのですね。今日はその大和の”おのこ”の挨拶も兼ねて、ですか。…ついでに、今回は誰がどのように死にましたか?」

 はっ、と彼の言葉を笑い流す倉野に対して、後ろの”おのこ”が、○○へと目を細めた。

 「そうだ新保。こいつが○○、○○○○だ。悪いことは言わん、早く慣れろ」

 「…倉野さん、お言葉ですが。それは難しいように思われます。お二方、初めまして。神保と申します」

 あらあら、はじめまして。と、その反応を見越しているかのように、大袈裟に○○は肩を鳴らした。遅れてひょこっと、首の上下で挨拶に代える春。

 「なに、心配するな。こいつを最初っから好きだっていう人間はおらん。大概が眉間に皺を寄せることになるからな」

 そう連ねる倉野の言葉を、春は何となしに自分の爪の長さを見やりながら流す。

 「○○、こいつは新保。出歴はまあ、お前さんの言った通りだ、ほぼな。で、お前さんが”ついで”と言った件について意見を聞きに来たんだが… 改めようか?」

 瞬きをして、いいえと、彼は返す。

 「倉野さん、神保さん。こちらの方は四宮さん、四宮春さんという方です。私の友人であり、…そうだ、助手でもある、という感じでどうでしょう。同席させても?」

 ここで神保が、半歩進んでは、倉野に並んだ。

 「倉野さん、ですが」

 そのように詰め寄ってくることを分かっていたのだろう倉野は、神保が言い終える前に右手で諫める。

 「俺も分かっちゃいる。第一、それを言うなら、前から俺が〇〇に協力を請うている時点でイエローカードだ」

 「ふふ、重ねたならば、今はもう、レッドカード何枚分でしょうねえ」

 顎をさする倉野を横目に、○○はすっと手を上げ、店員を呼んだ。暇を持て余していたのだろう店員は、幾らかの秒で応え、○○からの追加注文を承る。


 「春さん、よろしければ、こちらに」

 ○○は、自分の隣に座るよう、左の手で春を促す。少しだけ身体が上擦る春だったが、それを掻き消すように慌てて否を伝えた。
 
「や、そろそろ帰ります。邪魔になりそうですし…」

 この春の言葉に、まるで何を言っているのかが分からないような様子で、○○が目を丸くする。やはり鋭い人ほど、鈍い振りをするのが下手である。

 「邪魔? 貴方が? 春さん、この方々は、私たちが楽しくお喋りしているところに割り入ってきただけ。ふふ、邪魔というなら、どちらかは明白です」

 「そういうこった、嬢ちゃん。俺らのことは気にしなくていい。ただ、捜査に関係することだ、他言は無用ってことでよろしく」

 嬢ちゃん、と呼ばれるのが、温かくも歯痒い。

 「…わかりました」

 「倉野さん… はあ…」

 倉野の判断に対し、神保という男は、異を唱えたいようだったが、直ぐに観念したようである。どうにも、振り回されることに慣れているようだ。



 「まあ、とりあえずこれを見てくれ」

 バサッと、倉野という男が皺の寄った資料を○○の前へ出す。この手の資料が予想以上に分厚く、また、そのページ毎が細かな字で溢れていることに、目を見開く春。そんな情報の塊を、一読どころか一瞥すらできているのか不思議に思うほど、○○は手早くペラペラと捲る。中には、恐らく遺体のカラー写真であろうものが記載されているページも見て取られ、反射的に春は目を背ける。何処からか沸々と、先の「主役」の残滓が、自身の脳に取って代わっては、頭の中を満たそうとしてきた。

 「○○、こいつをどう思う?」

 「倉野さん、○○さんはぺらっと捲っただけですが…」

 神保はそう指摘したが、倉野は特別、そのような心配をしていないようであった。○○は、資料を丁寧に整え、言葉とともに倉野へと返す。

「どう、と言われましても、少々面白いきらいがあるくらいじゃないですかね。被害者の家族や、当時の発見者を含め周辺人物への聴取も、十分に材料として揃っていると見受けられます、私怨の可能性が低いケースですね。恐らく、快楽殺人の類でも無い。まあ、それくらいですかね」

 「面白いきらいがある、と言いますと?」

 明らかに、○○を見る神保という男の目つきが変わった。伴う形で、その場に幾らか張り詰めはじめた空気を、春は敏感に感じ取った。…正義感が溢れる人だ。

 「新保。慣れろと言っただろう」

 火を点けていない煙草を口で遊ばせながら倉野は言う。神保は、しかしここでは下がらない様子だった。気持ち、上半身をぐいとテーブルへと乗り出してすらいる。

 「しかし、○○さんの今の発言は、殺人をはじめとする犯罪行為を否定していないものと自分は理解しました。過敏であることは承知ですが、看過できるものではありません」

 ○○は表情を変えることなく、おや、と返す。

 「これは失礼。他意はありません。どうしてもこのような言い回しを好む性分でして。ちなみに、犯罪行為に関しては、肯定もしていませんよ?」

 「…我々は言葉遊びをしに来ているわけではありません」


 神保は目を更に吊り上げる。それを他所に、○○は倉野へと話を続ける。大人も、其処らの高校生と変わらないくらいには、直ぐにピリピリするのだなあ、と、そわそわしながら春は思う。…やはり、居場所がない。そんな春に、一拍遅れて○○は気付いた。

 「これもまた、失礼。春さん、居心地を悪くさせてしまいましたね。このように、どうにも、初対面の方とはピリついてしまうのです。これでも、トラブルなどが起きないよう、善良な一市民として過ごしているつもりなのですが… 日々精進ですかね」

 「つもりなんですね…」

 さすがの神保も、改めて春の存在に気付き、乗り出した上半身を引き、喉を鳴らしながら正す。そんな様子を、幾らか見てきたことがあるのだろう。一連のやり取りが終わった後、穏やかな声色で倉野が場を和ませる。

 「ははっ、すまないね、嬢ちゃん、○○。神保は優秀で良いやつなんだが、同時にとても固い男でね、どうにも正義感が突っ走ってしまっているのさ」

 すると、倉野のくわえている煙草が、少し震えた。

 「エドゥ=バル、エドゥ=バルよ。では、正義とは何だ? 人はそれをよく好み、しがみつき、死んでいくものだが、しかし其処に誇りを見出すのだと聞く。では、人は、何が正義で、何がそうでないのかを知っているということだな? エドゥ=バルよ、お前はきっと知らぬ、エドゥ=バル。人を尊ぶ、人でない、人の生きる地に囚われぬ渡り鳥よ」

 …やはり、この警察の二人には聞こえていないようだ。春はそう改めて確認しつつ、じっとその煙草を眺めていた。

 「嬢ちゃん、嫌煙家か何かかい? 心配せんでも、ここは禁煙だよ。見るのも嫌なら、仕舞うが」

 「ああ、いえ、大丈夫です」

 その会話に続く形で、すんと、○○が空気を身体に満たす素振りを見せた。後、ふふと、笑いつつ口を開く。

 「今までと違って、少しメンソールの香りがしますね、倉野さん。大方、娘さんに嫌な顔をされたからでしょうが、煙草を嫌う方からすれば、メンソールにしようがしまいが、それこそ煙たがる素振りは変わりませんよ。どころか、メンソールの成分は、喫煙者自体に対し、依存をより高めると聞いたことがあります。家族関係の修復を主とするなら、そもそも、喫煙は控えたほうがよろしいかと」

 ぺらぺらと喋る○○を、感心したような顔つきで見ては、同調する形で、追い打つ神保。

 「…何か癪ですが、私も喫煙は控えた方がよいかと思います。やはり、身体が資本ですので」

 神保が○○に同調したあたりから、また顎をさすり出す倉野。

 「参ったもんだな。そうなんだよ、うちの娘がなあ… 話をずらすな、○○」

 「他人の話をずらすのが趣味のひとつですので」

 「悪趣味な…」

 ○○の言葉に、思わずぽつりと、思ったことを口に出してしまう春。癖なのか、曲がらない性根の部分なのか。いつもの通り、口を閉じると同時に後悔をし始める春を見つめ、微笑み掛ける○○。

 「ふふ、未だ、会って間もないというのに、すっかり私と打ち解けてくれているかのようです。嬉しさを禁じ得ませんよ、春さん」

 「…お前さん、俺に逮捕されるようなことしなさんなよ」

 そう○○へと釘を刺す倉野ではあったが、口角は上がっていた。

 「肝に銘じておきましょう」


 ここでゴホンと、喉の奥で虫を鳴らす神保を受けて、おっと、と、再び○○に踊らされていることに気付く倉野。

 「…また、話が逸れたな。見てもらった通りだが、ホシは一度、被害者の腹部を刺した後、”刃物をそのままに”抜かず、更に奥へと抉る形で心臓を正確に一突きしている。もちろん、この時点で被害者は即死だ。滅多にこんな殺しを見ることがないもんで、一言、お前さんの意見が聞きたかったんだ」

 応える形で○○は、ふむ、と、すらすらと言葉を紡ぎ出す。

 「言うまでもなく犯人は、医療関係、または、人体の構造を正確に把握している方です。また、凶器を抜かないままに心の臓を一突き、ということから、殺人という一大イベントなのにも関わらず、冷静さをまるで欠いていない、至極機械的な犯行であるという特徴も押さえることができますね。快楽殺人と断ずるにしても、殺害後の過度な痛め付けや弄び、何かしらのマーキングもみられない。くわえて私怨の場合は、怒りの方が勝り、あるいは情動のままに犯行が定まらず、手当たり次第に滅多刺しにするのが大半です。先にも述べた通り、そちらの聴取状況を併せても、私怨の方面は九割九分方、考えられないでしょう。まあ、凶器に関する情報は、現物含め捜査中、とのことですので、発展するにしてもそこからじゃないですかね」

 「…以前に、探偵やそれに近しい経歴をおもちだったのですか?」

 思わず、言葉の数に圧倒された神保が、興味本位で口を開いてしまう。

 「いいえ、とんでもない。俗にいうところの、人間観察が好きなだけですよ?」

 「…にしては、鋭いようですが」

 また、○○の口ぶりからか、神保の興味深い顔は一瞬にして消え失せ、その顔は緊張を湛え始めた。この張り詰めた感じ、さっきから数えて何回目だろうか、と、春はまた縮こまる。

 「まあまあ、神保。お前さんと馬が合わない分、もっと言えば、変人な分、あらゆる角度から物事を見ることができるんだよ、○○は」

 神保の噛み付きに構うことなく、○○は続ける。

 「少し面白い、というのは、この犯人の動機にあたるところですね。文字、写真、何れをとっても、入ってくる情報群が、あまりにも淡々とし過ぎています。先も触れた通り、犯行の一から十まで、非常に機械的です。動機が全く見えず、掴めず、まるで”動機自体が存在しない”かのような感触を覚えますね。もっとも、そうは言ったものの、いち意見、感触として挙げただけで、そんな犯人はいないでしょうが」

 なるほどな、と、くわえた煙草を上下に口で遊ばせる倉野。

 「○○でも犯人像が見えてこんか。やっぱ、このケースは厄介だな」

 しかし冷静に、○○は倉野の言葉に訂正を加える。

 「このケースだけ、ならばね」

 「…まだ犯行が続く可能性があると?」

 ○○のリズムに慣れてきたのか、神保は、○○から情報を引き出そうとする。ええ、と、○○は更に言葉を並べた。

 「ここまで人間味を感じさせない犯行が、この一件だけで済むと思いますか? もしもそうであるならば、それこそ、文字通り前例のない常軌を逸した犯人、ケースとなることでしょう。似たような、あるいは一貫性のテーマを持たせた犯行を連続させ、重ねることで、犯人が何かを訴え掛けようとしているのでは、と判断する方が、よほど理に適います。強いて犯人像を挙げるのであれば、そんなところではないかと。まだまだ思考することもできますが、個人的には現状、そうするには、そそられるものはもう無いかなあと」

 徐々に慣れてきているとは言え、やはり○○の言葉の節々に怒りの引き金を持っている神保が、口を開こうとする。よりも先に、諫める形で話を強引に進め、○○へと詰める倉野。

 「そうだとして、このホシは何を考えてるんだと思うよ?」

 「ふふ、人の考えることはよく分かりません」

 はぐらかすように、両肩を上げて答える○○。そうだ、と、ここで唐突に、○○は春へと話を振った。

 「春さんはどう思いますか?」

 「…は?」

 肩身が狭く、話にも入れないままに過ごしていたにも関わらず。…本当に気ままと言うか、何なのだろう。

 「犯人は、何を思ってこのような犯行に及んだのでしょうか」

 「うん? うーん。…さっき、○○さんが言ってた通り、実は本当に動機も何も無かったりするのかも…」

 特に集中して、三人の会話を聞いていたわけでもなかった春は、薄ら耳に残っていた言葉を適当にばら撒いた。変に利口ぶる必要もないだろう、期待外れでいいのだ。だが、ほう、と、○○はずいと春へと顔を向ける。

 「やはり春さんもそう思いますか! …ですが、自分で言っておいても、なお、一点。そんな人間、存在すると思いますか?」

 変に突っかかってくるにしては、○○の目が澄んでいた。動揺した春は、どう答えていいのか分からなくなる。


 「…人間じゃなかったり」

 「嬢ちゃん、妖怪の仕業だとかってことかい? 妖怪なら刃物は使わんだろうに」

 春の望んでいた通りの、冗談めかしては流す模範的な倉野に対し、先と違い、へらへらと笑うこともなく、何やら神妙な顔つきをしたまま、春から、○○は全く目を離さないままであった。気付き、前髪をいじる春。

 「なるほど、なるほど。春さんはやはり。なるほど」

 「何がなるほどなんだ、○○」

 「ふふ、秘密ですよ。秘密」

 ふむ、とあっさり身を引く倉野と、その引きの速さに驚く神保。まだ席に座って間もない筈だが。であれば、これ以上問うても聞き出せない、○○との会話における、ある種の締めの常套句なのだろうか。と、神保が思考している間にも、倉野は話を畳み始めた。やはり、今回の引き際らしい。

 「…わかった。今日はもう陽が暮れる。嬢ちゃんも、時間を取らせてしまって、すまなんだ。○○、また、何かあったら声を掛けるわ」

 「ふふ、きっと、そう遠くないことでしょうね」

 神保がここで、慣れた手順でビジネスバッグから封筒を取り出す。スーツや身なりこそ未だフレッシュマンではあるが、やけにバッグは使い込まれているような印象を受けた。

 「…○○さん、ご協力、感謝致します。こちら、謝礼金となります」

 何度も使用しているであろう定型文を、○○に対してだからだろう、どこかぎこちない様子で伝える。

 「ありがとうございます、結構です」

 対して、日本刀のように鋭い○○の返しが、神保の努力を両断した。神保も、あまりの清々しさに、憤りを感じるでもなく、一瞬驚いた後、封筒をバッグへと戻す。これ以上、受け取るように言っても、○○が聞かないことくらいは、神保も理解しはじめていた。
 
 「はあ…」

 春は何となしに、このような警察の聞き取りにおいては、謝礼かなにかは出るだろうとは思ってはいたが、○○が受け取らないこともまた、予想通りであったため、何とも言えない溜息が吐いて出てしまう。

 「その代わりと言っては何ですが、ここの御代金は甘えてもよろしいですか、倉野さん?」

 まったく、と、席を立ちながら鼻を鳴らす倉野。

 「お前さんはいつもそれだな。謝礼は謝礼だ、受け取ってくれんことには、こちらもブレてしまうんだが」

 「ふふ。むしろ、私は倉野さんのように、私なんぞと気兼ねなく接して下さる人とお話しできることが、何よりも嬉しいものなのですよ。中でも貴方は、お父さんみたいなものです。では」

 「…参ったな」

 また、満更でもない貌で、顎をさする倉野。

 「じゃ、またな。神保、行こうか」

 「…はい」

 そう答えこそするものの、神保は何処かまだ、この一時における、核となるようなものを掴めないままで去ることに、幾らかの無念を抱いていた。本題である筈の事件すら霞む何か。それは、上司の倉野と、気兼ねなく、気さくに言葉を交わす、○○と言う存在。何故か、娘でもなく、また変哲もない一人の女子高校生を、大事にしては可愛がる、○○と言う存在。妙に、胸中にこびり付く、その○○と言う存在を、一片も理解できぬままに去るということが、倉野の背に着いていく足を重くした。

 

 そうして、勘定を済ませた後に小さく響くドアベルとともに、二つの影が遠のく。いつの間にか、客は○○と春だけになっていたようだ。

 「…そういえば、お代わりは頼まず仕舞いとなってしまいましたね。申し訳ない、代わりに今度、ご馳走しますよ」

 「…じゃ、それで」

 店内に生じた、先の時雨ともいえる時間を、さっとなぞっては反芻する春。ちらと外を見やる。あちらも、雨模様も消えたようだ。

 「ふふ。帰りましょうか、私たちも。送ります」

 「いえ、大丈夫です」

 恥ずかしさ交じりということもあるが、どうにも、自分の家の近くにまで○○が寄る、ということに抵抗があったため、つい即答してしまう春。…万が一、遭おうものならば、碌なことにならない予感が過ったのだ。

 ふむ、と手元のコーヒーを飲み切りながら何かを思考している素振りを見せる○○。さすがに即答は可愛げがなかったかと、これまた後悔し始める春を他所目に、埃の薄く積もった窓ガラスが、風で軋んだ。

 「エドゥ=バル、エドゥ=バル。今日は愉快な日だったことでしょうね。貴方にとって、それは即ち、私たちにとって。けれども、心が躍り過ぎて、少しお喋りも過ぎたようね、エドゥ=バル。口を開き、言葉を紡ぐこと。それは、度が過ぎれば、至言を狂言に変えるもの。エドゥ=バル、そういえば貴方、心があったかしら?」


 「…大変だな、とか、苦痛に感じることとか、ないんですか?」

 ヤオロズの言葉を受け、○○の心中に、春が寄る。答える○○は、そのガラス越しに、外を眺めており、春からは表情が見えなかった。

 「ふふ、それを言うのはいつも、大変だと思う人、苦痛に感じている人だけですよ」

 「…やっぱり、送ってもらいます。家、少し遠いですけど」

 変に暗い雰囲気にしてしまったと言うこともあり、観念した春だったが、途端に、○○がくるりと振り返り、満面の笑みで、春へと言葉を返した。

 「同情を煽るような雰囲気を作ってしまえば、大体の人が折れてくれる、春さんも、その例に漏れずですね!」

 「褒めてはないとは思いますよ、それは…」

 嬉々とする○○を見下ろすシーリングファンは、いつの間にか止まっている。雨宿りには、長居が過ぎたようだった。



 この東京という街は、あらゆるもの、人を受け入れる懐こそ広いが、それ故に風潮が物を言う。禁煙という二文字の風当たりも、年々強くなってきており、倉野も日々堪えている始末である。歩くだけで疲労が溜まるような年になったと言うのに、○○と別れてから、およそ十分。漸く探し出した喫煙スペースの一角で、倉野は存分に溜息をついた。

 「肩身がせめぇなあ」

 今日の勤務を終えたこともあり、また明日、と伝えているのにも関わらず、半歩後ろを、やはり着いてきていた神保が、そうですね、と一言、答える。

 「…彼と出会ったのはいつ頃ですか?」

 煙をこれでもか、と口から吐き出す倉野。どうにも普段の話し振りから、神保が嫌煙家であることは察しているのだが、嫌な顔をまるで見せずに、傍で倉野へと質問を重ねてくる。

 「だいぶ前になるな。もうあんまり覚えてはいないね」

 「会った時から、”あのような”感じだったのですか?」

 少しばかり、曇った顔つきのままである神保から、何時しかの若さを感じ、ふと笑みが零れる倉野。

 「なんだあ? 今日はいつになく落ち着きがないじゃないか。…ふむ、言われてみれば、会ったときから、大体あの調子だ。…今日は少し様子が変わって見えたがな」

 「…隣の高校生でしょうか」

 「だな。あそこまで気分よく饒舌に話す○○を見たことがない。冗談めかしたが、本当にあいつにとって掘り出しものなのかも知れん。...普通の嬢ちゃんに見えたんだが」

 まあ、と。倉野は煙を燻らせながら続ける。

 「いいことだ。あいつにも、人っぽさの欠片があったんだと思えばね」

 それを聞いて、神保の唇が少し緩む。表情を崩せば、何のことはない、ただの好青年だ。最近の若者は、自分自身に真面目で、厳し過ぎる。

 「まるで人間じゃないような言い方をしますね」

 「はは、あいつは確かに人間じゃないよ。化け物って言いたいわけじゃないがね」

 もう、日も暮れ、昼下がりよりも多くの人々が、二人の目の前を忙しなく過ぎていく。ある人は独り、表情もなく俯いて。ある人たちは、これから鬱憤を晴らすための場を求めてだろう、笑顔を湛えて闊歩している。

 「…だが、得てして、色んなことが宙ぶらりんな今の世の中だからこそ、ああいうやつが必要とされることもあるってもんだ。きっとな」

 生き辛ぇなあ、と、最後に煙を吐き出しながら、携帯灰皿で煙草を始末する倉野。ぶっきらぼうに語るその言葉たちは、しかし不思議と神保の心を揺さぶるものであった。いつもは、正直に言えば、心の中で顰め面をしているものだが、今日の倉野が香らせたメンソールは、その点、不愉快ではなかった。



 「…ただいま」

 春は、帰宅の合図を、キッチンフロアのテーブルに腰掛け、カレーであろう、夕食の段取りをしながら文庫本を読み耽っている男に伝える。ぐつぐつと小さな音を立て続ける鍋を見るでもなく、帰宅した愛娘を見やるでもなく。胸元に構えた本の文字を追いながら、背中で春に言葉を返した。

 「お帰り。…ほんの少しばかり、この私も。娘の成長を見くびっていたようだな、デートか何かとお見受けするが?」

 「無粋っていうんだよ、それ」

 「当たりのようだ」

 「…むかつく」

 ここで本をパタンと閉じ、春へと振り返る男。娘を見る表情は、昔から何一つ変わらない。顔から筋繊維のすべてを奪われているかのような顔つきのまま、春へと声を掛ける。

 「娘への理解、そして読みが甘かったせいか、もう一度カレーを温めることになってしまってな。掛けてくれ、そろそろ頃合いになる。もっとも、私の読みと違い、味は少々辛口だが」

 「…後で食べる」

 春のその返しを読んでいたかのように、おや、と即座に返す男。

 「父としても、デートの内容を詳しく、いやほんの一部でいいから聞きたいところではあるのだが」

 「いやだからデートじゃないって。…はあ、分かったよ」

 ソファへと学校指定のカバンを若干放り投げた後、春はリビングの椅子に腰掛ける。

 「何と。今日は一段と往生際が良い。…ふむ、もう乾いているとは言え、週末には制服を一度、クリーニングに出したいところだな。だから、傘を持って行きなさいと言ったのだ。しかし、そんな父の気遣いを汲み取るでもなく、気持ち大きめの音を以て扉を閉めては学校へ向かう、可愛い娘の背中を見るのもまた、私にとっては楽しい一時なのだ」

 「…長い」

 「聡明なものでな」

 無表情のまま、しかし言葉としては、ふふと、漏らす冬人。そんな彼を横目で見つめる春が、ぽそっと呟く。

 「…父さんみたいな人に会った」

 「ダウトだ。そんな人間はいない」

 「何の自信…?」


 カチッと、冬人はコンロのスイッチを切る。越してきて数ヶ月ながら、彼のお蔭でもう、少しばかり汚れが目立つ個所もある。一寸、匂いを嗅ぎ、うむ、と頷く。

 「春への愛情でたっぷりなようだな」

 「変質者みたいなことを...」

 「さて、それでは事情聴取といこう」

 何をしても、変な男性に囲まれてしまう運命なのだろうかと、自分自身を今一度、呪う。そんなことを、今日の出逢いも踏まえて思考する春の頭の中にはもう、先の自殺体のことなど、何処かへ吹き飛んでいた。

 なんとも舌触りのよい、辛口のカレーである。


 ⇒ 悪魔解体: 二(上)

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