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混沌の力

神話が語る原初の世界は混沌であった。
あらゆるものは、混沌から生まれた。

聖書に刻まれた終末の世界も混沌である。
あらゆるものが、再び混沌に戻っていくのかもしれない。

宇宙に輝く星々も
生命の根源である原子も
混沌から生まれ、混沌に戻る
悠久の循環システムに組み込まれている。

人間も同じ
胎内という混沌の中から生まれ
やがて朽ち果て
大地という混沌に戻っていく。

大いなる循環システムの
ひとつの要素でしかない。

しかし
歯車に生じた小さな亀裂が
大惨事を引き起こすように
悠久の循環システムからすれば
とるにたらない小さな存在の人間が
大いなる循環を破壊してしまう可能性もある。

たかが人間、されど人間
その重さを噛みしめて生きる。

物有り混成し、天地に先だって生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。獨立して改まらず、周行して殆(おこた)らず。以て天下の母と為す可し。吾、其の名を知らず。之に字(あざな)して道と日ひ。強ひて之が名を為して大と日ふ。大なれば日ち逝き、逝けば日ち遠ざかり、遠ざかれば日ち反る。故に道は大なり。天は大なり。地は大なり。王も亦大なり。域中四大有り。而して王は其の一に居る。人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る。  

『老子』(象元第二十五)

寂(せき):音がない 
寥(りょう):形がない
周行(しゅうこう):循環運動

この世の初めは混沌(カオス)から始まる。天と地が生まれる以前の話だ。耳を澄ませども声もなく、目をこらせども姿もなく、はっきりしないが、確かに在る。それは他の何物も頼りにすることなく独り立っており、長い年月決して変化することはない。その力は、この世の全体に行き渡って一時たりとも怠ることがない。天下の母親ともいえる存在である。
私は、これの正式な名前を知らない。仮に「道」と言っておこう。強いてこれを別の名前で呼べば「大」というべきか。
この大きな存在は、先へ先へと進んで行き、それはどんどん遠ざかって行く。やがてあるところまで行くと、今度は反転して元の場所へと帰って行く。
大である道が産んだ天も大、地も大、そして人間、王も大なのだ。地球はこの四つの大で成り立っている。
われわれのリーダーである王とは、「道」、天、地、と同じ心を持つべきものなのだ。
われわれ人間は、地の上で、地の力で生きている。その地は天の下で、天の力で生きている。その天は、道の下で、「道」の力で生きている。
これ等の大もとの「道」は、自然の中で、自然の力で生きている。したがってわれわれ人間も、地と天と「道」と通じ合い、自然と共に生きることを、生きる大元としているのだ。

『老子道徳経講義』田口佳史 抜粋

抽象的な文章で意味がわかりにくいが、個人的には、スケールの大きなことを言っている、という印象が伝わればそれでよいかとも思う。

大宇宙の循環の一部として人間を捉えている」と、私は理解したい。それを、ーたかが人間、されど人間ー という言葉に仮託してみた。

「物有り混成し、天地に先だって生ず」という冒頭の一節を読んで、「天地(あめつち)初めて発(ひら)くる時・・・」で始まる古事記の冒頭を思い浮かべる人も多いだろう。

あるいは、「神は最初に天地を創造した・・・」という旧約聖書の最初の一文を想起する人もいるかもしれない。天と地が混濁したカオスの中から世界は生まれたとする天地創造神話は、世界共通のようである。

旧約聖書の終末論によれば、世界はやがて終わりを迎え、神によって、新しい天と地の創造がなされるという。世界は混沌から生まれ、混沌に還るということかもしれない。

私達人間も、大宇宙の壮大な循環システムの一部でしかない。
だからといって取るに足らない些末な存在ではない。
ネジが一本抜けただけで、巨大な歯車が軋みだすように、ちっぽけな人間の所業が、大宇宙の循環システムを狂わせることもある。
そんな思いを込めて書いた文章である。

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