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不完全の妙、未完成の美

スケールが大き過ぎるものは
凡人には理解できない。

それは、視覚に収まらない部分が
欠けているように見えるからかもしれない。

翻って
不完全の妙、未完成の美というものもある。

ミロのヴィーナス
サグラダファミリア
漱石の『明暗』

欠けている部分にいったい何があったのか。
欠けているものを補えば
いったいどうなるのか。

欠けているものの存在が
人間の創造力を駆動させる。

いや、ひょっとしたら
大き過ぎて欠けているように見えるのではなく
欠けているかのように思わせるために大きさを求めたのではないか。

そんなふうに思ったりもする。
 

大成は缼(か)くるが若くなれども、其の用は弊(つまず)かず。大盈(だいえい)は沖(むな)しきが若くなれども、其の用は窮まらず。大直は屈するが若く、大功は拙つなるが若く、大弁は訥(とつ)なるが若し。躁は寒に勝ち、静は熱に勝つ。清静(せいせい)もて天下の正を為せ。 
『老子』(洪徳第四十五)

大成は缼(か)くるが若く:大いなる完成は何か欠けているようにも見える
弊(つまず)かず:疲弊しない
大盈(だいえい)は沖(むな)しきが若く:大いなる充実は空っぽのようにも見える
躁:活発に身体を動かすこと

ほんとうに完成していると、かえって何か欠けているように思えるものだ。しかし使ってみるととてもよく使うことができる。
ほんとうに充実していると、かえって何か足りないように思えるものだ。しかし使ってみると、かえってその足らないようなところが活きてきて、充実感を味わえる。
ほんとうに真っ直ぐだと、かえって曲っているように見える。ほんとうに巧みだと拙いように思える。ほんとうにうまい弁説は、かえって訥弁で心に入ってくる。
身体を動かしていれば寒さなど吹き飛ばせる。静かにしていれば、熱が出ても勝てるものだ。
心が清く頭が冷静ならば、この世のほんとうの正しさを知ることが出来る。
『老子道徳経講義』田口佳史

「大成」「大盈」「大直」「大巧」「大辯」という言葉は、スケールが大き過ぎて凡人には理解できないものの象徴である。

あまりにスケールが大きいと、視野に入らない部分が欠けている、不足しているように思えるものだ。
それは「不完全の妙」「未完成の美」というべきものかもしれない。

古代ギリシャの彫刻「ミロのヴィーナス」は、二百年前、ミロス島で発見された時には、すでに両腕が欠けていた。
さまざまな芸術家や科学者が欠けた部分を補った姿を復元しようと試みているが、いまだに定説と呼べるものはないとう。その神秘性が美しさを際立たせている。

バルセロナの「サグラダ・ファミリア」は、ガウディがライフワークとして設計・建築に取り組んで以来、百四十年経ってもなお未完成である。
世代を継承した建築はいまも続いている。

夏目漱石の遺作である『明暗』は途中で終わっているゆえに、その続きはどうあるべきか、後世の作家の創造性を刺激するようだ。
いまでも続編を書く人が絶えない。

欠けているものを人間の創造力が埋める。それが文化なのかもしれない。

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