不完全の妙、未完成の美
スケールが大き過ぎるものは
凡人には理解できない。
それは、視覚に収まらない部分が
欠けているように見えるからかもしれない。
翻って
不完全の妙、未完成の美というものもある。
ミロのヴィーナス
サグラダファミリア
漱石の『明暗』
欠けている部分にいったい何があったのか。
欠けているものを補えば
いったいどうなるのか。
欠けているものの存在が
人間の創造力を駆動させる。
いや、ひょっとしたら
大き過ぎて欠けているように見えるのではなく
欠けているかのように思わせるために大きさを求めたのではないか。
そんなふうに思ったりもする。
大成は缼(か)くるが若く:大いなる完成は何か欠けているようにも見える
弊(つまず)かず:疲弊しない
大盈(だいえい)は沖(むな)しきが若く:大いなる充実は空っぽのようにも見える
躁:活発に身体を動かすこと
「大成」「大盈」「大直」「大巧」「大辯」という言葉は、スケールが大き過ぎて凡人には理解できないものの象徴である。
あまりにスケールが大きいと、視野に入らない部分が欠けている、不足しているように思えるものだ。
それは「不完全の妙」「未完成の美」というべきものかもしれない。
古代ギリシャの彫刻「ミロのヴィーナス」は、二百年前、ミロス島で発見された時には、すでに両腕が欠けていた。
さまざまな芸術家や科学者が欠けた部分を補った姿を復元しようと試みているが、いまだに定説と呼べるものはないとう。その神秘性が美しさを際立たせている。
バルセロナの「サグラダ・ファミリア」は、ガウディがライフワークとして設計・建築に取り組んで以来、百四十年経ってもなお未完成である。
世代を継承した建築はいまも続いている。
夏目漱石の遺作である『明暗』は途中で終わっているゆえに、その続きはどうあるべきか、後世の作家の創造性を刺激するようだ。
いまでも続編を書く人が絶えない。
欠けているものを人間の創造力が埋める。それが文化なのかもしれない。
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