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真理は内側に眠っている
千利休は
たった二畳の茶室に宇宙深奥の景色を見いだした。
秀吉は
黄金の茶室を作り、あらん限りの名器を手に入れても満足できなかった。
捨てて、省いて、削いで、梳いた者と
欲して、加えて、足して、殖やした者との
違いがここにある。
真理は外にあるのではなく、内側に眠っている。
戸を出でずして天下を知り、牖(よう)より窺(うかが)はずして天道を見る。其の出づること彌々(いよいよ)遠ければ、其の知ること彌々少し。是を以て聖人は、行かずして知り、見ずして名(あきら)かに、無為にして成る。
牖牖(よう):窓
わざわざ外へ出回らなくても世の中のことがわかり、窓から外の様子を窺わなくても、人として一番大切にすべき事がわかる。
遠くへ行けば行くほど、本質から遠ざかって、真に知るべき事は少なくなってしまう。
従って「道」と生きる人は、何処にも行かないで、一番大切な事を知り、何も見ないで本質を理解できる。
情報を得るために視野を広く持たなければならない、積極的に現地に足を運ばねばならない、というのが一般論だが、老子に言わせれば、それは所詮「目に見える」情報に踊らされているだけであって、真理の究明ではない、ということになろうか。
「行かずして知り、見ずして名(あきら)かに」という一節は、老子らしい逆説表現だが、「真理の探し方・究め方」を諭していると理解すればわかりやすいと思う。
人間は、より多くの知識を学ぶこと、世界中の珍品博物を知ることで真理を究めることができると思いがちだが、万物の深淵な真理は、人間の見聞で網羅するには大き過ぎる。
むしろ、外にあるものを探すのではなく、内にあるものを訪ねることが大切なのではないか。
松岡正剛氏は、日本の数寄の文化は「すき」の文化である、と言っている。
目に見える対象を「鋤いて、漉いて、梳いて」残ったものに本質を見出すことにあるという。
目に見えるもの、音として聞こえるものから、余計なものを削ぎ落していくことで辿り着ける世界。茶の湯の心に近いものを感じる。
千利休と豊臣秀吉の対立と悲劇は「真理の探し方・究め方」の違いでもあった。
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