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価値の二面性

軍馬も、農耕馬も
同じ馬であることに変わりはない。

違いが生ずるのは、使う側の心持ちである。
銃も、お金も、名誉も同じ事。

「満ち足りた心」で向き合うか
「飽き足りない心」でむさぼるか

その違いで
人を救うこともあれば、傷つけることもある。

社会を豊かにすることもあれば
疲弊させることもある。

少し足りないからもっと、ではなく
少し足りないくらいでちょうどよい。

そう思えることが幸せの扉を開く。

天下に道有れば、走馬を却(しりぞ)けて以て糞(つちか)ふ、天下に道無ければ、戎馬(じゅうば)、郊に生ず。
罪は可欲(かよく)より大なるは莫く、禍はけ足るを知らざるより大なるは莫く、咎(とがめ)は得んと欲するより大なるは莫し。故に足るを知って之れ足れば、常に足る。
『老子』(儉欲第四十六)

走馬(そうば)、戎馬(じゅうば):いずれも軍馬の意
糞(つちか)ふ:耕作をする
郊(こう):田野

「道」の教えを実現している世の中では、平和だから、馬はもっぱら耕作用に使われる。「道」の教えを無視している世の中では、戦乱の世になるから、馬は戦場に引っ張られ、戦いに使われる。同じ馬で世の中次第で、こんなに使われ方が違うのだ。
平和を失い戦乱になるのも、そもそも源は、誰かの強欲から起こるのだ。こうした禍は、もうこれで充分と満足に思った瞬間に消えるのに。こうした咎は、もっともっとと欲しがることから起こるのだ。
だから、人の持つべき心は、過分にならないところで、これで充分と満足するかどうかにかかっているのだ。
『老子道徳経講義』田口佳史

私はこの章を、価値の二面性を教えてくれる文章として理解したい。
古来、馬は農耕用にも、軍事用にも使われてきた。いずれも馬の価値を認めていることは同じだが、用途は180度異なる。

同じ馬を、農耕馬として見るか、軍馬としても見るか、それは馬そのものの特性ではなく、使う側、見る側の目的・意図によって決まる。
老子は、その違いを「道」の教えの浸透度合いの違いだと言っている。

「道」が浸透していない時は、戦いが重視され、馬は軍馬になる。
「道」が広まっていれば、平和な世の中が続き、馬は農耕馬として使われる。

同じことが、お金、武器、名誉にも言えるだろう。
いずれも人を救うことも、傷つけることもできるが、それは使う側、司る側の心持ちが決めるものかもしれない。

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