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【小説】みずうみ ①

この作品は、生活に寄り添った物語をとどける文芸誌『文活』2022年2月号に寄稿されています。定期購読マガジンをご購読いただくと、この作品を含め、文活のすべての小説を全文お読みいただけます。

あるみずうみの畔に、少年がひとりで住む小さな小屋がありました。その近くには、ひとが住む建物はまったくありませんでしたから、少年は「ぼくがこのみずうみに沈んで消えてしまったら、だれが気づいてくれるだろう?」などと、ある晩に想像したりもするのでした。

一昨年に育ての母親がゆくえをくらませてから、少年はムラを追われて身寄りはなく、毎日連絡をとるような相手もいませんでした。ただ少年は週にいちどほど、林を越えた先にあるムラの商店に、卵や干し肉やコーヒー豆を買いに出ていますから、買い出しが途絶えたら、もしかしたらそこの店主が、はじめには訝しんでくれるかもしれません。

しかし、あの店主は、とてもじゃないけど親切という感じではないから、わざわざ少年を探すでしょうか?

いつも商店の奥の座間に鎮座してカラー・テレビでレスリングを見ながら煙草をふかし、客が来るとめんどうくさそうになにかぶつぶつ呟きながら、客を舐めるように観察する彼。商店は常にほこりっぽくて小汚く、棚は在庫切ればかりなので――とくに"小麦パン"の棚には現物が並んでいることを少年は見たことがありません――掃除なり仕入れなり、やることはあるはずなのですが、彼はいつも動いてはおらず。少年のことは認識しているはずですが、毎週やってくる彼と何か会話をするでもなく、代金を淡々とやり取りして、ときには目をテレビのほうにやりながら、商品を紙袋に入れてぞんざいに渡すのでした。

しかも、少年が来ないことを彼が訝しんだとして。少年の安否を知るには、あの林を越えて、誰かがみずうみまで足を運ぶしかないのです。彼が自分で直接確かめるか、ムラの青年にいくばくかの駄賃をやって、確かめに向かわせるか。しかし、みずうみまでの道は過酷ですから、それ相当の駄賃をやらなければならないでしょう。

林にはツガやヒノキなどの背の高い針葉樹が等間隔で生い茂り、赤っぽくて荒い肌理の幹が垂直に並びます。針葉樹は低いところに枝も葉も伸ばしませんから、林の中は見通しがよく、ただし夥しい量の垂直線が無限に四方に続き、まるで合わせ鏡の迷路に迷い込んだように、幾何学的な不気味さは感じられました。天を見上げれば、空を塗り潰すように各木から葉が生い茂っています。それのおかげでカーテンがかかったように日が遮られ、林はいつもどこか薄暗い。地面から生えている植物はあまりなく、その代わりに苔がびっしりと覆っていて、すえてしめった匂いと水蒸気が、林にしんしんと充満していました。

ムラとみずうみの間を行き来するには、慣れた少年の足でも三刻ほどはかかり、慣れていないものなら、よくいって六刻。ふつうにいけば一日がかり。わるくいけば、迷って林から出られなくなってしまうかもしれません。

いずれにせよ、そんな不気味な林の中を、あの商店の店主が確かめにいくはずもなく。もし少年がみずうみの底に沈んで消えてしまったら、だれも気づくことなく、少年はただ消えたままになるのです。

= = =

5年ほど前に付近の森林が開拓され、重動機が木を伐採してから、どうにも山を伝う雨水の導線が変わったらしく、そのみずうみは水量をどんどん増していきました。少年が住む小屋には、もともとコンクリートでできた地下ガレージがあって、バイクや、農機具や、備蓄米などを入れていたこともあったのです。しかし、みずうみが水位を増して水際が小屋に近づいていき、いつだったかに、すっかり水没してしまいました。

小屋の西側の窓のすぐ先にはもう水際。もしみずうみの水面からひょっこりと人魚が顔を出して小屋のほうを見たら、小屋はみずうみに浮かんでいるか、みずうみの朝霧に映る蜃気楼のように思うでしょう。

少年はそのみずうみを泳いでみたことがありました。みずうみは、岸からすぐに腰ほどまで水位が高くなり、15メートルもしないうちに足がつかなくなります。風のない日のことでしたから、水面は鏡のようにつるりと平面で、波は立たず。泳ぐ少年が手でみずをじゃぼりと掻くと、束の間欠けた鏡面がしぶきと細かな泡を出しながら揺らめきます。そして波紋が、繊細な浮かし彫りのように、波のただ表面だけを撫でてひろがっていくのでした。それから、やがて波紋が行ってしまうと、またみずうみは、つるりと凪の鏡面にもどります。何度か少年はそれを繰り返して、やがてみずうみの沖のほうに来ると、立ち泳ぎの姿勢のまま、すこし泳ぐのをやめて、浮いてみました。

……しずかでした。雄々しくそびえる周りの山々は、木々の一本一本がまぎれて緑に塗りつぶされるくらいには遠く、ただ囲んで少年を威圧する大人のようでした。向こう岸は水平線になるかならないかのところまでとおくに伸びていて、みずうみが広大なことを示します。そこでは少年はただあまりにもおおきな自然に無視されているだけの、ちっぽけな存在でした。少年は急に怖くなり、岸のほうへまたみずをじゃぼりじゃぼりと掻いてもどりました。

岸はぬかるんだドロに枯れ色の葦の茎がなんぼんも生えていて、少年は靴をドロだらけにしながら、ぬちゃぬちゃと小屋に戻ろうとしました。水分を含んだからか、少年が履く短パンにドロや細かい葉のきれ・・や虫の死骸が付いていました。なんだかそれらは、みずうみが少年に持ち帰らせた呪いのようにも感じました。少年は怯えてみずうみを見やります。

みずうみはただ泰然として、でっぷりと、純粋なみずを溜め込んでいました。少年が上がってからは、また、波風ひとつ立てません。水面はただそらのみずいろを映し、音は無く、ただ生気だけがたゆたっています。そのようすは、獲物を待ち構えて息をひそめる猛獣をも思わせました。事実、みずうみの広さを見誤った野生動物――ヤマイヌやシカなど――が、泳いでいるうちに力尽きて、溺れしんでしまうことも、時たまにあったのです。そういったとき、みずうみは、動物たちのし骸を浮かばせたあと、ゆっくりと水底へと、沈めてしまいました。物理法則によれば、水面が動物の体積ぶん、すこし上がるはずですが、でっぷりと大量のみずを溜め込んでいるみずうみにとって、それは誤差の範囲です。つまり、そのみずうみで溺れた動物たちは、沈んだあと、生きていたことがまるでなかったように、この世から、消えてしまうのでした。

= = =

とある夜のこと。少年が麻のベッドで目を覚ますと、あたりはもうまっくら、でした。少年は身体の底が冷え切っていることに気づきます。西側の窓を閉めきれていなかったようで、そこから、みずうみの冷気と湿気が、ずずずと入ってきていました。少年は窓を閉じるためにベッドを降りようと、注意深く目を凝らします。質素で持ち物もすくない小屋のなかでしたが、少年は育ての母親がゆくえをくらませてから、かなりずぼらに暮らしていましたので、床に物が散らばっていたのです。今日はいくばくか月明かりがあるようで、しばらくたつと、小ぶりの鉄フライパンや、夜回りようのランタン。その国の古い言語で書かれた小説。西瓜の種。といったものが、夜目に慣れて見えてきました。少年はそれらを踏まないように気をつけながら歩き、窓のもとへたどり着くと、窓枠に手をかけて、しっかり下げようとしました。すると、窓の外の永遠の闇、とも言えるはずのみずうみに、どうにも不思議なものが映っていたのです。

それは、なにか巨大で、光球が無数にまたたく水映像でした。百…いや二百。丸い光らは下が尖った円錐上になって、かすかにゆらめき、光量はぼやけ。みずうみのおおきさから考えても、かなりおおきな、例えば山のようなサイズを持った集合体でした。しかも不思議なのは、水面が映しているはずの主体が、どこにも見当たらないのです。みずうみは、あるはずのない光の主体を、くっきりと実像だけ映しているようでした。

少年は、この像をもっとよく見ようと、はだしのまま家を飛び出し、みずうみの中にじゃぶじゃぶと、くるぶしが浸かるまで入ってすこし波を水面に浮き彫らせたあと、注意ぶかく水面を見やりました。

少年が目を凝らすと、光球の集合体の裏に、ある輪郭があることに気づきました。それは都市、でした。中央に大きな塔が立ち、円錐状になりながら建物が並んでいる、ひとつの都市。大量の光球に見えた一灯一灯は、その都市の街灯だったのでした。

よく見ると光球のなかのいくつかは、水面の中を左右へ、上下へ、ゆっくりと移動しているようでした。それは少年が噂だけ知っている、新型の、自動四輪車の灯りかもしれません。すくなくとも、その都市には、夜にたくさん灯りをつけて活動する必要があるくらいのエネルギーがあるらしいのでした。

(あの都市に行ってみたい)

ムラから離れていた人恋しさか、単なる好奇心か、それとも、みずうみの底に消えるきっかけとなったからか。理由は誰にもわかりませんが、そのとき少年は、都市に向かって歩みを進めるだけの正当な動機がありました。だから、一歩一歩、じゃぶじゃぶと、水底に向かって、少年は歩き出しました。あるはずのない、みずうみに映る光の都市。少年はそこに向かって、みずから、沈んでいったのです。

<つづく>

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』2022年2月号に寄稿されています。今月号のテーマは「チョコレートな戦い」。バレンタインで巻き起こる様々なドラマが集まっています。小説は定期購読マガジン内で毎週投稿されます。投稿スケジュールの確認と、公開済み作品へのリンクは、以下のページからごらんください。

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