見出し画像

誤解の先にある本当の「教育 デジタルリテラシー」

※本記事は2020年7月12日の一部記事を再転載しています。
 

■誤解の先にある本当の「教育 デジタルリテラシー」

 教育問題でファイナンスの次に挙げられるテーマは “デジタルリテラシー” です。ここでいうデジタルリテラシーとは、机上で語られる“リベンジポルノ”や“チャット内のいじめ” “個人情報意識”などについてやプログラミングという個別技能についてではなく、“実際に教育課程に組み込み使う”ことで得る、デジタルツールを使いこなす力のことです。

 実社会で数十年前からWordやExcel、Web検索が基本スキルであるのに対し、現状の教育環境では、“鉛筆と紙を用いて、暗記をする”ことが求められています。このような環境下で一部授業にPCを用いても、アナログ思考から抜け出すことはできません。これは英語教育と同じで、日本語9割の授業で実用的な英語が身につくのか、そして義務教育課程で英語を学んだ人口数と実社会で英語を使える人口数に相関があるのか、という英語の問がPC授業にも当てはまって来るように思います。

 この点における対策は、デジタルリテラシーの定義を“実社会に直結するツールを使いこなすこと”と明確に定義し、学校システムにデジタル思考を組み込むことで解決されるでしょう。ただここで課題となるのは、利権とインフラ問題です。しかしこれらの問題も解決不可能ではありません。

 特にデジタル化に伴う学校不要論が受益者を刺激してしまいますが、これは完全にミスリードで、不要とされる学校とは旧態制度を指し、コミュニティーや教職員が全て不要ということではないものです。例えばオンライン学習でも、共働きの家庭では自宅に子供1人で過ごさせることは不安でしょうし、授業そのものは動画学習を取り入れても詳細なケアがなければ学習効率が落ちる子供も出てくるでしょう。また、全ての子供が独自の社会的繋がりをもてるわけでもありません。そのような問題には、預けられる地域コミュニティーや世話をするメンターが必ず必要になるということです。

 つまり、旧態依然の一元化教育を強要する箱物は不要ですが、江戸時代の寺小屋のような教育コミュニティーを設けることで、結果的には教職員の過酷な労働負担を削減し社会的必要性も確保されます。本来のデジタル化とは、子供、親、教職員など全てのステークホルダーにとって有益なシステムです。

 次にインフラですがこれも寺小屋を前提とするならそこまで難しくありません。タブレットやPCはコスト的に配布しても問題ないでしょうし最低限の通信費も支援していいと思っています。問題は何らかの理由から家庭環境で通信が難しいケースですが、その場合は寺小屋を利用することも考えられますし、オンライン教育という言葉に騙されがちですが、必ずしもオンラインである必要はありません。授業が動画であればダウンロード可能ですし、宿題も教科書も全てオフライン化はできます。

 このように、最低限のインフラ支援をした上で、オンラインとオフラインの相互利用を行えば、意外と障害はないものです。結局のとこ残る課題は、動画をどの企業が受け持つのか、システムを地方と中央のどちらが管理するのか、予算をどの省庁が受け持つのかなど、政治的利権だけが、デジタルリテラシー最大のボトルネックではないでしょうか。

 本日はここまでです。政治的利権が課題であるとしても国際的なデジタル化の潮流には抗えず時間の問題でしょう。形だけのデジタル教育を行い、デジタルネイティブの可能性を積むのではなく、教育環境、そして教育思考そのものをデジタルネイティブに合わせて次の世代へバトンを繋ぐことが、本当の教育であるのではと考えています。次回は、R&Dリテラシーについて考察したいと思います。


※記事を読んで下さる皆様へ.本稿の内容に興味をお持ち頂けたなら、大変に光栄です.有難うございます. お気軽にTwitterで交流をして下さい.

[黒川 和嗣(Kazushi Kurokawa)Twitter ]

[はてなブログ「勾玉日記」]

Top Image by ProPhotos from Pixabay

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?