僕はなぜトヨタの人事を3年で辞めたのか
2年前、ぼくは大好きだったトヨタの人事部を辞めた。
思い返せば、入社式で豊田章男社長がこんなことを言っていた。
「つらいと思ったら、まず3日。3日間は歯を食いしばる。3日頑張れたら、次は3週間。さらにその次は3か月。そして、3年。3年は一生懸命がむしゃらに働きましょう」
トヨタでの3年間は決して「歯を食いしばって耐える」ようなつらいだけのものではなかった。むしろ、たくさん鍛えてもらい、貴重な経験をさせていただいた先輩方を心から尊敬しているし、今でも仕事、プライベートを問わず関係を続けられるその懐の深さには感謝の気持ちしかない。
でもぼくは、結果だけ見ればトヨタを3年でやめた。
最初に書いておくが、ぼくはこの文章のなかで、トヨタを批判するつもりはまったくない。3年ぽっちで見えている部分なんて、ほんのごく一部に過ぎないし、そもそもぼくはトヨタのことが嫌いになって辞めたのではない。
ぼくは日本企業で働く人が抱える「閉塞感」を変えたくて辞めたのだ。
「まあ、サラリーマンなんて、そんなもんだよ」
2016年4月、ぼくは大学を卒業し、新卒社員としてトヨタ自動車株式会社に入社した。第一志望だった。泥臭く、現地現物で、ものづくりを支える。そんなかっこいい先輩たちに、心の底から憧れた。
配属第1志望は調達部。就職活動でお世話になった先輩のほとんどが調達部で、サプライヤーと一緒に原価低減に取り組み、Win-Winの関係を築いてゆく、そんな社会人にぼくもなりたいと思った。第2志望、第3志望はどちらも工場の生産に関わる部署にした。とにかく現場の近くで、ものづくりを学びたかった。
全体の集合研修を終え、工場実習前の研修最終日。待ちに待った配属発表。大ホールに700人が集められ、1人ずつ、人事部長が配属を読みあげていく。
「髙木一史」
ぼくの名前が呼ばれた。
「人事部」
……え?
一瞬、耳を疑った。
毎年10人程度、新卒から人事部に配属されていることは耳にしていたが、まったく志望していなかった自分が、まさか人事部に配属されるなんて思ってもみなかった。
先輩達からは、腐らずに仕事を続けていれば、必ずまた異動の機会はある、まずは目の前の仕事を頑張ろう、と励まされた。たしかに、ぼくの会社人生は始まったばかりだった。
同じく人事部になった同期達もみんな気が合いそうだったし、スタートとしては上々だ。何度もそう、自分に言い聞かせた。
配属初日、当時の人事部長からこんな言葉をもらった。
「採用、配置・異動、賃金、評価、時間管理、健康…….。こうした人事労務管理の仕組みはすべて、トヨタが成長し、また、社員がいきいきと元気に働く上で必要不可欠なものです。『花よりも花を咲かせる土になれ』。この言葉を胸に、一生懸命、会社と社員の幸せのために頑張ってください」
社員がいきいきと元気に、幸せに働くサポートをする。とても素敵な仕事だと思った。まだ調達で働くことを諦めきれない自分もいたが、人が幸せになることをサポートできる、というのは誇らしいことだと思った。
人事での最初の仕事は、給与計算や福利厚生制度を委託している子会社に出向して、税務や社会保険、資産形成に関する制度を運用・改善することだった。
同じくトヨタから出向している上司に、まずはここで4年、しっかりと人事パーソンとしての基礎を固めよう、と言われた。調達へ異動する可能性はない。暗にそう宣言されたようで、少しだけ、悲しい気持ちになった。
しかし、確定拠出年金や年末調整の運用改善、退職金の計算等、実際の業務が始まると、先輩たちから温かく指導いただき、仕事の進め方や業務知識も徐々に身について、成長している実感も持てた。また、直接従業員の電話に応え、感謝の言葉をもらうことは素直に嬉しかった。いつの間にか人事の役割を楽しんでいた。
次第に仕事に慣れてくると、大きめのプロジェクトにもアサインされるようになった。労務の知識を付けたいと思い、社会保険労務士の勉強も始めた。
段々とやりがいを感じてきた2年目の12月、突然、上司に呼び出された。
「来月から本社の労政室に異動してもらうから」
……今持っている仕事も、やっと形になり始めたところだった。まずは4年、ここでしっかりと基礎を固めるという方針はいつ変わったのだろうか。仲の良かった先輩たちに相談すると「まあ、サラリーマンなんて、そんなもんだよ」と言われた。
もちろん、日本で大企業の正社員として雇用された時点で、会社都合の人事異動があることは頭では理解していた。もしかすると、ぼくのためを思っての配置転換なのかもしれない。それでも、自分で希望していない部署への異動を実際に経験すると、そこにはある種の無力感があった。自分の人生を自分で決められない、一抹の寂しさを感じた。
新天地は社内のコミュニケーションを通じて、約7万人いる従業員に、一体感を持ってもらったり、トップの想いを伝えていくための制度・施策を考える部署だった。
社内イベントや有志団体の運営サポート、またコミュニケーションに関わる人事制度の企画改善など、業務内容は多岐に渡り、社内のさまざまな部署の人達と交流を深めていった。役員から職制、また工場で働く技能職から、研究開発等を担う技術職まで、ほぼ全年代、全職種の人達から職場での問題意識を聞くことができた。
何よりも、ものづくりの現場で働く人達から、職場でどんな困りごとがあるのかをヒアリングし、制度企画にフィードバックすることは、もともとやりたかったものづくりの現場サポートに近いところもあった。
いつしかぼくは、当初希望した調達部で働くことはあきらめ、人事の中でやりたいことを叶えよう、そう思い始めていた。
はたらく、に個性はいらない?
入社から3年が経ったころ、ほんの少しだが仕事の進め方を覚えて、徐々に余裕が出てきたこともあり、ぼくは、自分の働く環境に目が向くようになっていた。
最初に疑問を持ったのは、「場所と時間の柔軟性」についてだった。
現在のように新型コロナの影響もなかった当時、3年目のぼくには在宅勤務が許されていなかった。全社的に見ても、制度を使えるのは一部の人に限られていた。
また、基本的にPCしか使わない事務系の仕事でも必ず豊田市の本社で勤務しなければならず、実際、東京や地元で働きたいが我慢している、という同僚や先輩はたくさんいた。
働く時間についても、フレックスタイム制が導入されており、時間帯は比較的柔軟だったが、同期・先輩たちをみると、みんな一律で(もちろん、法定の範囲内ではあるが)、かなりしっかりと残業していることを知り、違和感を覚えた。
人によっては早く家に帰って勉強したいだろうし、プライベートな時間を大切にしたいという人もいる。なかには、給料が減っても、週4日や週3日の勤務でいい、という人だっているだろう。当時もすでに時短勤務制度はあったが、理由が育児に限定されていた。
働く場所と時間。いちばん基本的な労働条件なのに、選択肢が少ないのはなぜだろう?
上司や先輩に聞いてみると、「コミュニケーションが取りづらくなるとか、安全配慮の観点とか、評価とか、リソースとか、いろいろ理由があるんだよ。お前ももっと知識や経験を付けていけばいずれ分かるよ」と諭された。
たしかに、何も分かってないのに、愚痴を言うだけの若手にはなりたくなかった。働くうえで、多様な個性に配慮することは必要ないのだろうか? そんな問題意識も、一旦は胸にしまって、目の前の仕事を誠実にこなすことで周りからの信頼を得よう。そう心に誓った。
しかしそれから1つひとつ、任された仕事に取り組んでいく中で、次第に、また別のもやもやを感じるようになってきた。
それはマネジメントも含めた社内コミュニケーションの仕方だった。
とにかく情報がクローズで、それを知るには上の人の承認が必要、あるいは、話が順番に降りてくるのを待たなければならなかった。
組織改編、重要な会議体での議事録、制度の背景が載っている決裁書……。例を挙げればキリがないが、下っ端の手元にある情報は限られていた。
自分から情報を取りに行こうとしても、そもそも何の情報がクローズになっているのかを知らなければ、情報を聞き出すこともできない。同じ人事部の中でさえ、隣のグループが持っている情報を1つもらうために、いちいち、そのグループの上長に確認が必要なことも多かった。仕事を進める時に、「その情報さえ先に知っていたらこんな資料作らなかったのに」ということが往々にしてあった。
そして、そうした情報を得るために最も効果的な方法は、部の飲み会や社内のイベントに出る、あるいは残業して長く会社に残っている先輩たちと直接話すことだった。
しかしそれは当然、時短で帰る人や、飲み会が苦手な人、あるいはオフィスに出社しない人たちとの間で情報格差が生まれることになる。
「仕事ができる人は上から情報を引き出すのがうまい」
そんなことを教えられたこともあったが、そもそも同じ理想を持った人事のチーム同士なのに、どうして情報を遮断しておく必要があるんだろう? これだけ世の中にITツールがある時代、プライバシー情報以外はみんなが見える場所に置いておけばいいじゃないか。そこまで人として信頼されてない、ということなのだろうか。
そんな問題意識を抱いているのはぼくだけではなかったようで、隣のグループの先輩が、ITを活用した情報共有を主導していた。しかし、その先輩も突然異動してしまい、徐々に改善の気運は消えていった。
働く時間や場所の選択肢を増やす、さらにはコミュニケーションの仕方を変えることで、もっともっと社員がいきいきと元気に働ける環境をつくりたい。そして、それができるようになるには、組織の中で信頼され、また、その変革を実行できるだけのスキルが必要になってくる。
そう思ったぼくは、どんどん目の前の仕事に没頭するようになった。情報を得るために社内の飲み会、イベントにはできるだけ参加したし、たまの休みも労働法やビジネススキルの勉強に時間を費やしていった。
しかしそんな矢先、ある尊敬する先輩がメンタル不調で休職してしまった。ものすごく仕事ができる、そして精神的にもタフだと思っていた先輩だった。ショックだった。
その時ふと、自分の働き方を振り返った。ぼくは今、元気に働けているだろうか。かなり根を詰めていたせいか、顔色が悪いと言われることも増えていた。飲みすぎで睡眠時間も減ったからか、食欲も以前より減退していた。
少ししんどいなと思った時、気軽に自分の精神状態について相談できたり、心身のアラートが出ていないか、セルフチェックできればいいのだが、会社の健康施策といえばつまづいて転んだ事例の展開や、昼のラジオ体操など、工場勤務を前提とした一律のものが多かった(もちろん、それも大事なことは重々承知しているが)。
役割や個性によって、健康に必要な情報、支援はさまざまなはずなのに、どうして一律の施策ばかりなのだろうか。
またいざ相談するとなっても、いきなり産業医はハードルが高いし、マネジャーだと医学的知識がないために精神論に終始することも多い。
実際、少し疲れていることを先輩達に伝えると「社内駅伝大会もあるし、一緒に明日から会社の周りを走るか!」と言われることもあった。(「そうじゃないんです!先輩!」と心の中で叫びながら、結局、走った)
採用、配置・異動、時間、場所、コミュニケーション、健康管理……。
入社してから感じているもやもやはすべて、社員にいきいきと元気に働いてもらうためにあるはずの人事労務管理の仕組みに起因しているということに、ぼくは薄々、気が付いていた。あらゆる仕組みにおいて、多様な個性は尊重されない。そしてそれは、じわじわと、一人の人間として重視されている感覚を奪っていく。
自社の同期、また他社にいる大学時代の同期と話しても、みんな似たような働きづらさを抱え、すでに辞めている者もいた。
そもそも、こうした会社の仕組みは誰が改善するのだろうか。 それはまさに、いまぼくが所属している人事部であるはずだった。
もやもやが最高潮に達していた時、四半期に一度の評価面談があった。上司からのフィードバックは、現場の声を聴いてよく頑張っている、これからも現地現物で頑張ってくれ、というものだった。
せっかくの機会だと思い、ぼくは思い切って理想を話してみた。もっと一人ひとりの個性を大事にする、主体性をもって働けるような人事労務管理のしくみに変えていけないか。未熟な知識と経験を搔き集めて、毎日のように夢想していた構想を恥ずかしげもなく語った。
聞き終わった上司はこう言った。
「いつか髙木が偉くなれば、そういうのもできるようになるから」
ぼくは「はい、これからも頑張ります」とだけ返事をして部屋を出た。
「変えられない」を変えられない無力感
当時の上司を悪く言うつもりはまったくない。事実、そうなのだ。
それだけの変革をこの会社で進めるには肩書が必要だ。想いだけでは何もできない。つべこべ言わずに偉くなることが大事だった。
でも、ぼくは知っていた。年功要素の強い評価制度下では、偉くなるまでにあと10年、いや、20年はかかるということを。
ぼくは知っていた。10年、20年後、偉くなった先に待つのは、中間管理職として、さらに上の上司とメンバーの間を取り持ち、本当に自分が挑戦したいと思っていたことをぐっとがまんして働く姿であることを。
ぼくは知っていた。会社の人事労務管理の制度・仕組みにメスを入れようとすれば、その旗を振れるだけの専門性が必要になる。制度全体のコンセプト作りはもちろん、労働組合との協議や、不利益変更が発生する場合の移行措置、人事システム刷新も含むオペレーション業務の設計……。まだまだ勉強することは山のようにあった。でも、ジョブローテーションでどこに異動させられるか分からず、社内政治も多分に絡んでくる環境では、それらを学び、人事のプロフェッショナルとして生きていくことはとても難しい。
そもそも、何十年も待っていたら、この変化の激しい時代において、事業環境も、組織内部の環境だって大きく変わっているだろう。
想いを胸に20年待って、それをその時代に実行しようとすれば、20年ずれた感覚で変革を実行することになってしまうかもしれない。
もちろん、年功的な評価制度になっている歴史的背景も勉強していたし、一気に数万人いる社員の評価制度を変えることが難しいのも分かっていた。
でも評価制度の仕組みだって、選択肢を増やすことならできるのではないか。
そこでも、ふと気が付いてしまう。それをするにも、まずは偉くならないと。変えられない、という現実を変えるすべを、ぼくは持っていなかった。
3年目も後半に差し掛かってきて、ふと周りを見渡すと、10人いたはずの人事同期は既に半分以上が辞めていた。
「閉塞感に、耐えられなくなった」
そう言って辞めていく同期達に、ぼくは何も言えなかった。
それでも、ぼくは諦めたくなかった。ぼくはトヨタが好きだった。
現地現物で泥臭く改善を続け、厳しくも温かい人間関係がある、そのカルチャーと、人事労務管理の仕組みにもっと選択肢を増やす、そして個性を重視するものに変えていくことは背反しないはずだった。
結局、うだうだ言っても、自分が力をつけるしかないことは分かっていた。日本の雇用慣行の歴史、海外との比較、そして数々の判例も本で勉強した。また大組織の変革を考えるなら、統計や、財務の知識も付けたかった。
ふと、何かを自分が学びたいと思った時、それをトヨタの考え方も交えて教えてもらえるような仕組みがあったなら……。そんなことも考えたが、社内の研修は「偉くなるために必要」な一律の階層別研修がほとんどだった。
一方、ちょうどそのタイミングで、ぼくは工場で働く約4万人を対象とするコミュニケーション制度の改善にアサインされた。ぼくは夢中になって改善に取り組んだ。アンケートに加え、全11工場を回り、現場をよく知る部門人事の方や、実際にラインで働く250人以上の方にヒアリングして、困りごとをなくすための改善策をいくつか起案した。
ぼくは充実していた。工場現場の人から「ありがとう」と言われると、本当にうれしかった。もう同期や先輩、そしてぼく自身が感じている閉塞感なんて、どうでもいいじゃないか。そんなのは、きっと他の誰かが改善してくれる。このもやもやも慣れてしまえば、じきに何も感じなくなるだろう。流された方がきっと楽だ。そう自分に言い聞かせている間にも、同期や先輩は一人、またひとりと辞めていく。
「自分の人生を生きている感じがしない」
「自分1人では何も変えられない」
みんな最初はトヨタの中でやりたいことや希望を持っていた人たちばかりだった。中には、将来的に副業も考えているから、という人もいた。
他にも話を聞いてみると、現職の先輩の中にも、実はコツコツと本業以外にやりたいことを見つけている、という人もいた。
みんな会社では本当の自分を隠している。そう思うとやり切れなくなった。
どうして、一社終身雇用を前提とした契約の形しかないのだろう、とぼくはふと思った。副業、業務委託、あるいは雇用でも週3正社員など、もっと多様な契約の形があれば、こんなゼロイチの苦しみを味あわなくて済むのに。
もちろん、トヨタはものづくりの会社だ。工場現場の人達が日々、クルマを作ってくれているから会社が成り立っているし、ぼく自身も工場で働く人達が大好きだ。
でも、トヨタは7万人のチームだ。当然、役割に応じて事情も違えば、困りごとも違う。いいクルマをつくるために、多様な距離感の人達が活躍できる組織になることは、そんなに悪いことなのだろうか。
十把一絡げにではなく、一人ひとりの個性に合わせた契約ができるようになれば……。気付けばまた、どうすればトヨタで多様な人が生き生きと働けるかを考え始めていた。
……でも。
ぼくの目の前にはとてつもなく大きな壁があった。時間、場所の自由は利かず、情報伝達のコミュニケーションは一方通行で限定的。健康管理の支援は期待できず、突然、想像もしていなかった部署に配転・転勤させられてしまうかもしれない。
数多ある一律の研修を潜り抜けて、うん十年と年齢を重ねてもなお、気づけば専門性はなく、その頃には評価の軸が変わっている可能性だってある。
今の時代、すべてを会社に捧げるのがリスクだと言っても、副業や、会社との多様な距離感が禁止されているこの会社では、もはやしがみつくしか道はない。
そんな中、ぼくは今の想いを持ち続けたまま、トヨタの人事労務管理の仕組みを改善することができるだろうか。あまりの壁の巨大さに、ひどい無力感を覚えた。
「退職」
いつしか、ぼくの頭の中にも、そんな言葉が浮かんでいた。
好きなのに、やめる。好きだから、やめる。
退職。同僚たちと冗談で口にすることはあっても、本気で選択肢に入ることはなかった言葉だ。なんだかんだ言ってもトヨタが好きだったし、なんとかして、社員が閉塞感を感じない組織に改善したいと思っていた。
そもそも退職するにもかなりの勇気が必要だ。基本的に出戻りはNGで、一度辞めてしまえば、もう内部からその変革をサポートすることはできない。
正直、その理屈もよく分かっていなかった。むしろ、外の世界を見て新しい知見を持ち、かつ、トヨタの内部事情も分かっている人こそが、豊田社長の言う「100年に一度の大変革期」を支える人材になり得るんじゃないのか。
そんなことも考えたが、もう、それを言うだけの気力も残っていなかった。
もし本当に退職するとなれば、当然、次の仕事を見つけなければならない。
ちょうど、起業を呼びかけてくれる仲間も何人かいたが、ピンと来なかった。
大企業が変革するにあたって、日本社会の構造そのものがネックになっている部分があることも分かっていたから、法律に影響を及ぼせる仕事もいいかもしれない。
政治家? 国家公務員試験を受けなおして官僚になる? ……現実的じゃなかった。
そんな時、ぼくはサイボウズというITの会社に出会った。
時間や場所は柔軟で、副業ももちろん自由。評価に年功的要素は少なく、報酬は市場価値で決まる。そして配置・異動に会社都合の強制は一切ない。契約の仕方、会社との距離感も100人100通りだ。
……本当にそんなことが可能なのだろうか? 最初は正直、疑いの気持ちしかなかった。
でも、やらない後悔より、やる後悔だ。思いきってサイボウズに応募してみると、ありがたいことにご縁があった。
もしかしたらこの会社なら、企業の閉塞感を破るヒントを発見できるかもしれない。トヨタが創業した約80年前にはなかったテクノロジーを使って、1人ひとりの個性を重視できる人事労務管理の仕組みを作ることができるかもしれない。そんな希望を胸に、ぼくは転職を決めた。
転職の報告を上司にすると「心から応援しているよ」と言ってくれた。
「ただし、必ずこれまでお世話になった人に挨拶すること。そして、あの時辞めたのは正解だったと言える人生にしてほしい」
今でもよく連絡を取りあうが、この人が最後の上司で本当に良かったと思う。
人事部内で辞めることを告白しても、みなさんこれまで通り、いや、それ以上に温かく接してくれた。現場でお世話になった組長さん、工長さんたちに挨拶に行くと、「馬鹿野郎!」と羽交い絞めにされながらも「つらかったらいつでも戻ってこい。うちの組で面倒見てやる」と言ってくれた。涙が出るくらい嬉しかった。
12月の出社最終日前日。その日は100人近くが集まる人事部の大忘年会だった。そして、幹事はぼくだった。
もう退職することが分かっていたから、できるだけ裏方に徹する予定だった。でも、最後の異動者挨拶の段になって、突然、上司が「髙木、檀上に上がれ」と呼び出してくれた。
そこで上司から、人事部全員の前で、はなむけの言葉をもらった。最後の最後まで、本当に温かくて、素敵な会社だと思った。
だからこそ、だからこそ、本当につらかった。嫌いになって辞めるのなら、話は簡単だった。むしろ、合わない組織なら辞めた方が両者にとって幸せだ。
でもそうじゃない。好きなのに辞めざるを得ない。そんな状況を生む、この会社に巣食う「閉塞感」を、ぼくは打ち壊したいと思ったのだ。
そして翌日、ぼくは3年間勤めた大好きなトヨタの人事部を、やめた。
会社で働く人が抱える「閉塞感」をなくしたい
これが、ぼくがトヨタという会社を辞めるまでに至ったすべてだ。
改めて、ぼくが感じていた会社の「閉塞感」を因数分解してみるとこうなる。
「1人の人間として重視されている感覚の薄さ」×「自分1人では何も変えられないという無力感」
そしてそれらは、採用、契約、場所、時間、配置・異動、評価・報酬、健康(安全配慮)、コミュニケーション(含むマネジメント)、育成、退職という、人事労務管理の代表的な10領域に選択の余地が限られていること、かつそれらが複雑に絡み合っていて、自分1人では何も変えられないことに起因しているとぼくは考える。
「誰かのせい」ではなく、今ある「会社」の仕組み・構造が問題だ、と。
トヨタを辞めてから2年、ぼくはサイボウズという会社で、人事制度の企画や労務管理、研修の設計を主業務としながら、どうすれば会社の持つ閉塞感をなくせるのか、ずっと考えてきた。
そして、いま、ある程度ぼくの中に見えてきた仮説がある。その仮説を、少しずつnoteで発信していこうと思う。
……といってもしょせん、ぼくはまだ社会人5年目のぺーぺーで、突っ込み所も多いだろう。
でも、ぼくは絶対に会社の閉塞感をなくすことはできる、と信じているし、その壁を打ち壊すための知恵があれば、ぜひ沢山のアドバイスをいただきたい。人が自分らしく働ける組織を、一つでも多く増やすために。
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