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ナチス「安楽死計画」と、「持続的深い鎮静」による「安楽死」の類似

 ナチスの「安楽死計画」と言われても、ご存知の方は少ないかも知れません。第二次世界大戦中に、ナチスによって精神障害者・知的障害者・身体障害者などが「生きるに値しない命」として秘密裏に大量殺害されていたのです。ナチスの行った犯罪として、ユダヤ人のホロコーストが喧伝され良く知られている一方で、同じ人道に反する大量殺戮であった「安楽死計画」が、タブー視され無視されてきた理由は、それがナチスによって実行された訳でも、ナチスの命令があった訳でもなく、現場の医師と看護婦により計画され、実行された大量殺人だったからなのです。

 『緩和ケアという名の「安楽死」ビジネス』の記事で書きました様に、私の弟は 緩和ケア病棟の医師に「お薬で日中ウトウト過ごす」「お薬で眠る」 などと騙されて「持続的深い鎮静」に掛けられ、1日半後に殺害されました。この「持続的深い鎮静」は一種の「安楽死」として、日本中の緩和ケア病棟で広範に行われています。実は、私の弟が犠牲になった現在の緩和ケア病棟での「安楽死」と、ナチスドイツが行った「安楽死計画(T4 計画)」との間には多くの類似点が有るのです。今日の緩和ケアの現場で、医師が極めて安易に末期がん患者を「持続的深い鎮静」に掛け殺害している重大性を考える時、ナチスドイツで行われた「安楽死計画」との比較を試みる事は充分意味が有ると思います。

ナチスの「安楽死計画」

 「T4作戦」と呼ばれた「安楽死計画」は、ユダヤ人大量虐殺のホロコーストが始まる約 2 年前、「生きるに値しない命の根絶」を目指すナチス最初の大量殺戮計画として始まります。ナチス党員だった身体障害者の父親が、生まれながらに盲目で片腕・片足のない知的障害の娘の殺人を、ヒトラーに陳情した事が切っ掛けとも言われます。実際に計画が始動するのは第二次世界大戦開始直後の事で、ワルシャワ攻防戦の最中に側近と医師を集めた特別会議で、ヒトラーは「戦争遂行の必要上、不治の精神病者に苦痛のない死を与える計画が実行されるべきである。本計画は、より国家的優先順位を与えられる患者に対して、不足している病院のベッドと看護施設を開放する事になる」として「安楽死計画」を俎上に載せたのです。進行中のポーランド戦の後にも、フランス・ソ連との戦争を考えていたヒトラーにとって、戦争の拡大により急増が予想される負傷者に対応する医療機関の確保が重要課題となっていたのです。

 当時ドイツには 70~80万人の精神病患者がおり、そのうちの約10%は「永久入院」患者で、約25万ベッドと医師・看護婦が治療に当たっていたと言います。 この数字を聞いた「ヒトラーは驚愕して、そのような事態は許されない。ドイツ民族の純血を汚す証例でもあると言い、少なくとも「永久入院」患者の40%~60%は密かに処置すべきだ」(『第二次世界大戦・ヒトラーの戦い④』児島襄著)と述べたと言われます。 この後、ヒトラーは総統の私用便箋に書かれた略式命令を発出します。そこには「帝国指導者フィリップ・ボウラーと医学博士カール・ブラントに、人知では治癒不能と判断される人間に対して、病状の最も慎重な診断の上に安楽死がもたらされるよう、指名される特定の医者の権限を拡大する責任を与える」(『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』ヒュー・グレゴリー・ギャラファー著)と書かれていました。実際の日時は不明ですが、日付は遡ってポーランド侵攻の始まった1939年9月1日となっています。

 この作戦は、本部の在ったベルリンのティーアガルテン通り4 番地から「T4 作戦」と 呼ばれます。そして「処分者」の選別には、各地の病院・精神医療施設・養護施設等にアンケートを装った質問票を配布し、それを 3人一組の医師が評価して「安楽死」させる「処分者」を決定しました。つまり医師は患者に会う事なく、書類審査だけで被害者の生死を決定したのです。質問票には患者の就労能力・精神疾患・ドイツ人以外の血統・犯罪歴・5年以上の養護施設での監禁歴などの記入が要求されました。こうして選別された「処分者」は、外から見えない様に窓を塗り潰された灰色のバスに乗せられ、 家族にも行き先は秘密にして 6 箇所に設けられた「処分場」へ移送されました。ハルトハイム・ブランデンブルク・ベレンブルク・ゾンネンシュタイン・グラーフェネック・ハダマーの 6ケ所の安楽死施設です。そして移送されて来た犠牲者はガス室に入れられ、一酸化炭素ガスを使って殺害され、遺体は隣接する焼却炉で焼却されたのです。機械化が進んだ施設では、死体はベルトコンベアでガス室から焼却炉へ運ばれたと言います。そして、焼却炉からかき集められた遺灰は、架空の死因が記載された死亡証明書とともに遺族のもとに送られました。一方で、腕時計、宝石、金歯などの貴重品はスタッフによって盗まれ、遺族に返還される事は無かったと言われます。戦後、犠牲者が着ていた古着の山が、病院の屋根裏で見つかっています。

 しかし、この秘密作戦も徐々に知られる様になり、やがて教会関係者などから反対の声が上がり始めます。そして、1941年8 月にはミュンスターのフォン・ガーレン司教が説教で公然と「安楽死は殺戮である」と安楽死政策を批判してから連合国にも知られる様になり、ローマ教皇ピウス 12 世も批判を強めます。こうしたなか、同じ 8 月にヒトラーは「安楽死計画」の中止を命令します。しかしこの 2 年ほどの間に、約 7万人もの心身障害者がガス室で殺害されたと言われます。これで公式には「安楽死計画」は中止となった訳ですが、実はこれで終わりにはならなかったのです。これ以後は、国家の統制を外れて医師と看護婦が主導する形で、一層巧妙に隠蔽されドイツ全土の広範な保護施設に拡大して行きました。以後、殺人の決定権は現場の医師に移り、また殺害手段もガス室に代わってより秘密の方法として致死薬が使われる様になります。それが、弟の殺害にも使われた劇薬のフェノバルビタール注射です。

 そして、1943 年6 月からは「治療しても仕方がない精神病患者」の殺害が始まり、医療施設から患者の大規模な移送が行われます。また反社会的分子や労働忌避者、ジプシーなど「劣等人種」 とされた人々も対象になって行きます。1943 年4 月からは、障害のある子供を対象とした「安楽死」が本格化しましす。また強制収容所においても、治癒不能な病人・身体障害者・労働能力の欠如・反社会的分子・ソ連軍捕虜・エホバの証人信者などが殺害されました。この安楽死政策により、精神病患者など 8~10 万人、ユダヤ人が 1000人、乳幼児が 5000~8000人 、強制収容者の 1~2 万人が犠牲になったとされます。しかし、実数はこの 2 倍とも言われ、20 万人以上の犠牲者が殺害されたと考えられています。1939 年にはドイツ全土で約 30万人いた精神病患者が 1949年には 4 万人に激減し、安楽死計画を逃れて生き延びる事が出来たのは精神病患者のわずか 15%と言われます。また、患者数の激減は多くの病院を閉鎖に追い込みました。「安楽死計画はドイツのほとんどすべての重度障害者と慢性的精神障害者の命を奪った」 のです。

 また、ドイツ占領下のポーランドやソ連でも、療養施設に入居していた障害者が大量射殺やガストラックによって殺害されました。そしてドイツ国防軍はこの虐殺作戦によって空いた施設を、兵舎や病院、軍需物資の補給基地として活用したのです。

 ホロコーストに先立って実行された「安楽死計画」はその予行演習ともなり、この経験が強制収容所でのユダヤ人大量虐殺に生かされて行きます。作戦中止後、T4 の職員は強制収容所に配置され、T4 の為に特別に設計されたガス室や遺体焼却炉などの技術が利用されて行くのです。社会ダーウィニズムに基づく優生学思想から「生きるに値しない命の根絶」を目指した安楽死計画は、思想面で「劣等民族」のユダヤ人大量虐殺に結びつくと同時に、その実行面でも深く繋がっていたのです。

 ナチスの「安楽死計画」で注目して欲しいのは、それが単純にナチスが行った人道に反る犯罪と言うのではなく、医師が主導して計画し殺人まで実行した大量殺戮だったと言う点です。 その辺の事情について、自身も障害者であるヒュー・グレゴリー・ギャラファーは、著書の中で怒りを込めて次のように述べています。

「ヒトラー帝国の医者は慢性病患者を殺害する計画に参加したのである。20 万人以上のドイツ市民が自分達の医者の手によって計画的に効率よく殺されたのである。命を失ったのは社会の良き市民だった。多くは死病にかかっていた訳ではない。絶え間なく苦痛を訴えていたのでもなければ、著しく苦しんでいたのでもない。殺されたのは、施設に収容されていた精神障害者、重度の障害者、結核患者、知的障害者である。医者の目で「生きるに値しない」と判断された生命だった。この計画はヒトラーが承認し、第三帝国の国家社会主義政権の支持のもとで実行されたのは事実だが、だからこれをナチス計画と片付けるのは誤っている。これはナチス計画ではなかった。この計画の生みの親は医者であり、実行者も医者だった。医者が殺したのである。ナチス党員の医者も多かったが、大多数の医者はナチス党員ではなかった。計画を強力に支持した有力な参加者はドイツの指導的立場にあり、国際的にも定評ある医学教授や精神病理学の権威だったのである。」 (『ナチスドイツと障害者「安楽死」計画』ヒュー・グレゴリー・ギャラファー著)

 このナチスドイツの医師により実行された(T4)安楽死計画は、現在の私達から見れば考えられない常軌を逸した大量虐殺ですが、実は「持続的深い鎮静」による弟の安楽死殺人と奇妙なほど多くの類似点があるのです。以下で、一つ一つ見ていきたいと思います。

法律の枠外での殺人

 1939 年にヒトラーの秘密命令が発令される訳ですが、「安楽死」の根拠となる法律が存在しないまま実行に移されています。法務省は「生きるに値しない命の根絶」に関する法律を準備するのですが、ヒトラーに拒否され、最後まで安楽死制度は法制化されず、法律の枠外で大量殺人が行われたのです。
  
 日本でも「安楽死」を認める法律は存在せず、弟を「持続的深い鎮静」にかけ殺害した医師の行為は、法律の枠外での違法な殺人そのものです。主治医もそれは良く分かっていて、実態から言えば明らかに「安楽死」であるにも拘わらず、同意書の中にわざわざ「薬剤で意識を下げて眠ることが、安楽死を意味するものではない事」と言う一文を入れて責任回避を図っています。またこの医師は、ここでも「持続的深い鎮静」を「薬剤で意識を下げて眠ること」と、単に睡眠薬を服用して眠るだけの様な嘘の説明をしています。実際には「安楽死」に使われている劇薬を24時間連続して注入し続け、同時に水分・栄養補給の点滴も止めてしまいますので、この処置は患者にとって死への片道切符になっており、数日で確実に死亡する事になるのです。それを恥知らずにも「薬剤で意識を下げて眠る」と、真実を隠蔽して犠牲者を騙していた訳です。

 ナチスドイツのような独裁国家ではなく法治国家の日本に於いて、法律の枠外で法に背いて医師の手で公然と末期がん患者の殺処分が行われているのです。現状では、日本国民は法律によって、頭のイカれた人非人の悪徳医師による犯罪からは守られていないのです。

医師が主導して行なった殺人

   確かにヒトラーの秘密命令で「安楽死計画」が始まる訳ですが、ヒトラーは医師に「安楽死」の権限を与える命令書に署名しただけで、実際に障害者の大量殺戮を計画し実行したのはドイツの精神科の医師と看護婦だったのです。誰を「処分」するかの決定も、実際の殺害も、医師と看護婦の手で行われたのです。秘密命令書に中の「病状の最も慎重な診察の上に」の文言は、ヒトラー自身が強く主張したものと言われます。ヒトラーの秘密命令書で「医者が得たのは殺人の免許であり、殺人を犯すように命じられたのではなかった」訳です。20 万人以上の犠牲者を出したと言われる大量殺戮は、医師によって計画され実行された犯罪だったのです。

 戦後、「安楽死計画」の主要な関係者は ニュルンベルク継続裁判で裁かれ処刑され、あるいは自殺しますが、実行した精神科医・小児科医の多くは犯罪行為の責任をヒトラーやナチスに転嫁して頬かむりを決め込み、関与した医師の中には戦後大学教授の職に復帰した者もいたと言います。ドイツの精神医学会が、障害者の殺害に加担した事実を認め謝罪したのは、戦後 65年も経った 2010年の事なのです。つまり、このおぞましい犯罪に直接手を染めた医師のほとんどが死亡した後で、初めて事実を認め謝罪したという訳です。

 弟が犠牲になった緩和ケア病棟での安楽死殺人も、医師によって巧妙に計画され実行された事は論を待ちません。どちらも医師が主導して、病院内で実行された大量殺戮だったのです。

フェノバルビタール注射で殺害

 弟の殺害に、ナチスドイツの「安楽死計画」と同じフェノバルビタール注射が使われた事は象徴的です。海外では、フェノバルビタールは現在でも死刑執行・安楽死・動物の殺処分に使われている劇薬です。しかも、現在では「持続的深い鎮静」の第一選択薬はベンゾジアゼピン系鎮静薬のドルミカムとされているにもかかわらず、弟の主治医はあえて日本で推奨されている一般的な手法ではない劇薬のフェノバールを使用していたのです。

 フェノバール(フェノバルビタール)はバルビツール酸系の古いタイプの鎮静・抗てんかん薬で、治療域と毒性域が近く、過剰摂取が死に直結する取り扱いの難しい危険な劇薬です。その上、フェノバールは半減期が長く徐々に体に蓄積していく特徴があり、注意深く扱わないと簡単に致死量を超えてしまう危険性が有るのです。その為、今日ではドルミカムで効果の出ない場合などに限定して使われるだけなのです。ところが、主治医はこの危険極まりない劇薬を、死亡まで10日間も連続投与し続けていたのです。患者を確実に死亡させるには、劇薬のフェノバールの方が好都合だったと言う事なのでしょう。

簡単な数枚の紙切れで生死を決定

 当初の「(T4) 安楽死計画」では、療養施設や医師から回収したアンケートの検討だけで、安楽死させる「処分者」の選別を行っていました。つまり、ナチスの医師達は紙切れの書類審査だけで人間の生死を決めていた訳です。弟の場合も、主治医が「鎮静カンファレンスシート」と「苦痛緩和のための鎮静・・・・フローチャート」の 2枚の簡単なアンケート様式の紙切れにチェックを入れるだけと言う、考えられない程杜撰な遣り方で弟の死を決定しているのです。しかも、この 2枚の紙切れの記入欄は全て空白のままで、参加者や記入者の署名も無いと言う杜撰極まりないものです。

 下の図4・5)見てもらえば分かりますが、「鎮静カンファレンスシート」の、 1)耐え難い苦痛があるー 別紙にて検討、2)治療抵抗性の検討、3) 全身状態・生命予後の予測、4)患者・家族の希望の確認、の記入欄が全て空白のままになっています。結局、7箇所にチェックを入れ、患者の氏名と日付を記入しただけなのです。これでは、カンファレンスで患者の生死に直結する「持続的深い鎮静」の実施について、真剣に検討したとは絶対に言えないでしょう。また、これを作成したのは当然主治医のはずですが、どちらにも記入者の署名が有りません。誰が作成したのか責任の所在も不明で、適当にチェックを入れただけのいい加減でぞんざいな書類で、患者の生死が決定されていたのです。そればかりか、本当にカンファレンスが開かれたのか、それ自体が大いに疑問なのです。というのも、カルテにはこのカンファレンスの記録が全く存在しないのです。なぜ弟を「持続的深い鎮静」に掛ける必要が有ったのか、その経緯を含めてカルテには一切記録が残されていないのです。この件に関して、何故か主治医は完全な沈黙を決め込んでいるのです。ここから見えてくるのは、この医師が明確で合理的な理由もなく、真剣な検討を加える事も行わずに、極めて杜撰な遣り方で一人の患者の命を奪っていたと言う事です。この点に関しては、別の記事で改めて触れたいと思います。

 両者の「安楽死計画」に共通するのは、信じがたいほどの人命軽視です。犠牲者を手に掛けた医師達は、野良猫や野良犬でも殺処分するかの様に、杜撰極まりない方法で犠牲者の生死を決め殺戮を実行していた訳で、文字通り患者の命を虫けら同然にしか考えていなかったのです。

 また、図5)「苦痛緩和のための鎮静・・・・フローチャート」では、「予測される生命予後」の欄で「 2~3週以上」の処にチェックが入れられています。これは、弟が退院可能な状態であった事実と合わせて、翌々日に死亡するような死期が差し迫った状況では無かった事を証明しています。つまり「持続的深い鎮静」に掛けられる事さえ無ければ、弟がこんなに早く死ぬ事は無かったのです。

図4

図5


「安楽死」の事実を患者に隠す

 「(T4) 安楽死計画」を実行した医師や看護婦は、犠牲者に殺害の意図を悟られない様に細心の注意を払っていました。移送用の灰色のバスの車内は快適で、温かいコーヒーやサンドイッチが振る舞われたと言います。安楽死施設に到着した犠牲者は、受付手続きが終わると看護婦から「移動でお疲れでしょうから、シャワーを浴びて綺麗にして休んでください」 と声を掛けられてシャワー室に案内され、全員が入室するとドアを閉め鍵をかけてシャワーノズルから毒ガスが注入されたのです。

 弟の主治医も、数日程度で死亡する事実を徹底して隠し、「お薬で日中ウトウト過ごす」「お薬で眠る」などと患者と家族を騙して、その危険性・その真実を悟られない様に細心の注意を払いながら説得していました。ナチスドイツの医師と看護婦が、ガス室をシャワー室と偽って犠牲者を騙して殺害したのと同様に、主治医も睡眠薬で眠るだけの様に患者をペテンに掛け、毒薬を注射・点滴して殺害していたのです。実際、弟は「持続的深い鎮静」開始直後に「今睡眠薬を入れている」と私に話しており、睡眠薬で眠るものとばかり誤解していたのです。医師と看護婦は何ら良心の呵責を感じる事なく、平然と患者と家族を騙して「持続的深い鎮静」へ誘導し殺害していたのです。

ペテンを使って犠牲者を集める

 ドイツの医療殺人の中心地の一つであったハダマー精神病院では、1943年4月以降生贄にする子供を集める為に、孤児院や青少年療養施設に手紙を送り、ハダマーに移送されるべき子供の基準を示しています。そこには若い患者が、健康的な活動・優れた教育・適切な治療が受けられると書かれていたと言います。もちろん、これらは真っ赤な嘘で「計画全体がペテン」だったのです。

 実は私達の場合も、病院関係者から入院を強く勧められていました。緩和ケア病棟に入院する以前に 1ヶ月間ほど自宅療養していたのですが、その時訪問看護に来ていた 3人の看護婦の内の一人がこの病院の元婦長で、非常に熱心に緩和ケア病棟への入院を勧められたのです。その内容は、「2週間程度の短期症状コントロール入院が可能で、栄養管理された食事やリハビリも受けられる。がん患者専門の受け入れ施設なので、スタッフが専門的で安心。全ての個室が庭に面しており、直接車椅子で庭園に出て散歩できるなど環境が良い。病床数が少なく入院待ちの患者が多いので、まずは予約だけでもをして置く事が大事」と言ったものでした。そして 「入院待ちの患者が多く数ヶ月待ちの状況で、申し込んでもすぐには入院できない。とにかく先に予約だけでも取っておかないと駄目よ」。また「医師はペインコントロールのプロなので、痛みが取れて食欲が出てきて却って体重が増える人もいる」とも話していました。そして、入院環境がどんなに素晴らしいかを熱心に述べ、「松野さんは絶対に■■病院に入院すべきよ」と言われました。つまりこの元婦長は、入院すれば「持続的深い鎮静」に掛けられ程なく殺害される事を良く知っていながら、営業マンさながらに緩和ケア病棟に入院すればどんなに素晴らしい入院生活が送れるかと、笑顔を振り撒きながらの熱心なセールストークで強く入院を勧めていたのです。

 当時、私は元婦長が親切心から善意で■■病院への紹介の労をとってくれたものとばかり思っていました。しかし弟の死後、病院の対応に不信を抱きカルテの開示請求をすると、その中にこの看護婦の紹介状が入っていたのです。それを見て私は強い違和感を覚え、単純に親切心から紹介したのでは無かったと分かったのです。病院への紹介状としては、何か異質で場違いと思える内容で、そこには患者への思いやりや親切心を感じさせるものは全く無く、■■病院の医師への業務報告と言った内容だったのです。ですから今では、この元婦長は訪問看護で家庭内の情報収集をしながら、■■病院の営業活動を行っていたのだと考えています。

 つまり、ナチスドイツの医師達も現在の緩和ケア病棟のどちらもが、ペテンを使った宣伝活動で盛んに犠牲者を掻き集めていた訳です。

上辺だけの親切な演技

「(T4) 安楽死計画」に関わった医師や看護婦は、犠牲者に対して上辺は大変親切に振る舞っていた言われます。これは、犠牲者に感付かれない様に殺害する事が重視されていた為です。

 上辺の親切さの一方で、ハダマー精神病院では 1万人目の犠牲者を記念してパーティーを開いています。生花で派手に飾られた焼却炉の前に病院の職員が集まり、花と鉤十字の小旗で飾られた 1万人目の犠牲者の全裸の死体を前に医師がスピーチを行い、その後哀れな生贄は焼却炉に投入されたのです。パーティーが始まると、職員の一人が聖職者の物まねをして「死人へのおどけた追悼演説」行い、笑いが巻き起こりました。そしてバンドの生演奏、ダンスと笑い、大量のビール振る舞われ、泥酔した連中が敷地内で放歌高吟したと言います。 こういう連中によって、障害者の大量殺戮が行われたのです。

 自宅に訪問看護に来ていた元婦長も、訪問中は異様にハイテンションな状態で、盛んに笑顔を振りまきながら甘えた声で話しかけてきました。しかしその笑顔、話し方がなんとなく押し付けがましいわざとらしさ、演技と言う匂いのするもので、私は当時から違和感を感じていました。今では、これは商売人が顧客の前で揉み手をしながら笑顔を振りまいているのと同じ構図なのだと思っています。元婦長は営業活動として作り笑いを振りまきながら、患者思いの善良で親切な看護婦という役回りを巧みに演じていたのです。入院した緩和ケア病棟でも、医師と看護婦は親切そうに振る舞っていましたが、彼らが実際に行なっていたのは毎日患者に劇薬を飲ませて苦しめ衰弱させる事であり、患者との会話で最も力を注いだのが「持続的深い鎮静」に同意する様に欺瞞を使って説得する事だったのです。つまり、上辺の親切そうな演技の裏では、患者を騙しての「安楽死」に追い込もうと虎視眈々と隙を狙っていた訳です。親切そうな上辺は、患者と家族をペテンにかける為の隠れ蓑に過ぎなかったのです。

目的は金儲け

  1941年8 月に公式の「(T4) 安楽死計画」が中止された後も、この医療殺人は却ってドイツ全土に拡大して継続されます。実は、犠牲者が殺害されると、遺族には死亡証明書の送付と共に治療費の請求も行われました。医師や病院は、障害者を殺害すればするほど金儲けになったのです。つまり、大量殺戮がビジネスになっていたのです。

 また、「安楽死計画」の従事者には「大盤振る舞いの特別報酬、ふんだんな休暇」が与えられ、「トントン拍子の出世が約束されていた」と言います。元々ドイツの医師は、ナチス運動から大きな経済的利益を得ていました。 国をあげての健康志向の下、健康診断・X 線・手術といった新たな保健活動により、ナチス時代には医師の収入はうなぎ登りになっていたのです。医師の平均課税所得を見ると、ヒトラーが政権を握った1933 年の9280マルクから、1938 年には1万4940マルクに急上昇したと言います。医学部定員の削減とユダヤ人医師の追放で医師の飽和状態が解消された事もあり、ナチス時代に医師は成金になり裕福になり続けたのです。 「ヒトラーとナチスを医者以上に熱狂的に支持した集団がいなかった」と言われます。当時、ドイツにいた1万5000人の医師の半分近くがナチス党員で、これほど高比率の職業は他に無かったのです。

 患者を殺害するのに高い医療技術は必要は有りませんし、治療する場合の手間を考えれば極めて容易かつ手間なく金儲けができる訳です。道徳心や良心の欠落した医師にとっては、これほどボロい商売も無かった事でしょう。生贄を屠る祭壇である焼却炉の前で、パーティーでも開きたくなろうと言うものです。

社会的弱者の大量殺戮

  現在の「持続的深い鎮静」による「安楽死」とナチスの「安楽死計画」に共通するのは、どちらも大量殺戮だという点です。■■病院が緩和ケア病棟を開設したのは 2005 年8 月ですから、弟が殺害された 2018 年5 月まで約 13 年間に渉ってがん患者の「持続的深い鎮静」を実施してきたと思われます。 月に数件の頻度で「持続的深い鎮静」を実施したと考えても、年間では数十人の計算になります。ですからこの 13 年間に、数百人規模の患者が「持続的深い鎮静」に掛けられ殺害された可能性が有るのです。

 しかも、■■病院は特殊な例ではなく、「持続的深い鎮静」の施行率が 68%にもなる緩和ケア病棟も存在する事は以前にも触れました。日本の緩和ケア病棟数は、2019 年で 431棟です。日本ホスピス緩和ケア協会会員施設の平均死亡患者数が 2017 年で 154人になっていますので、全国 431病棟では 6万6374人程が毎年亡くなっている計算になります。「持続的深い鎮静」の施行率は 6.7~68%と散らばっていますが、 累積患者数から計算した施行率は 28%と言いますので、日本全体で年間1万8584人の末期がん患者が医師によって殺害されている計算になります。大雑把な推定ですが、現在の日本では、毎年数万人規模のがん患者の大量殺戮が、医師の手で実行されている可能性が高いのです。日本の一部の緩和ケア病棟は、ナチスの安楽死施設と同じく殺人施設と化してしまっているのです。

 これは、ナチスドイツの行った障害者の「安楽死計画」と同規模の患者の大量殺戮です。ナチスドイツでは、1939 年から 1945 年の 6 年間で 20万人の障害者が殺害されたとして、年平均で約 3万3000人になります。つまり、現在の日本では、ナチスドイツの「安楽死計画」に匹敵する大量殺戮が、医師によって毎年実行されている可能性が有るのです。当時のナチスドイツのように戦時下の独裁国家ではなく、平和時の民主国家・法治国家である日本において、法に背いて病院内で医師の手によって公然と大量殺戮が行われているのです。日本のがん死亡者数は 2018 年で 37万3584人ですから、その数%が医師の手で殺害されている計算になります。

見て見ぬ振りをする医師

 ドイツの(T4) 安楽死計画に直接関わった医師は 350人程度と言われますが、他のほとんどの医師も計画の存在を知っていたはずです。なぜなら、全ての医師は自分の慢性患者の病状について、詳細な文書に記入する事を要求されていたからです。 そして、この文書に基づいて犠牲者が選定された訳です。しかし「安楽死計画」の進行とともに「病棟がガラガラになり」自分の慢性患者がいなくなっても、ドイツの医師は異議を唱え抗議する事も無く「現実は、医者は救おうと試みすらしなかった」のです。

 今日の日本でも、一部の緩和ケア病棟で異常に高い頻度で「持続的深い鎮静」が行われ、がん患者の大量殺戮が行われている事は、ほとんどの医師は薄々感付いているはずです。しかし、それに対する抗議は全くと言っていいほど聞こえてきません。現在の日本の医師も、ナチスドイツの医師と同様に見て見ぬふりを決め込んでいるのです。医師にとって、患者の人権など何の重要性もなく、自分の金儲けの他には興味が無いという事なのでしょう。

 このように書き出してみると、ナチスの「安楽死計画」と弟が犠牲になった緩和ケア病棟での安楽死殺人との間には、大変多くの類似点がある事が分かります。その理由を考えると、両者の「安楽死計画」の背景に、医師の金儲けという共通の動機が有った事が分かります。つまり、これは「安楽死ビジネス」だったのです。患者を治療する場合と比較すれば、患者を毒殺する事はあまりに簡単容易で、どんな無能なヤブ医者でも手間を掛けずに安易に金儲けが出来ます。こうなれば、一人でも多くの患者を血祭りにあげれば、それだけ多く金が入ってくる事になります。こうして医師達は、金儲けの祭壇に生贄を投入し続けてきたのです。金儲けが目的だからこそ、医師は患者と家族を騙してペテンに掛け、巧妙な罠を仕組んでまで犠牲者を誘い込み、執拗に大量殺戮を実行し続けたのです。

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