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ごまめのごたく:千里丘陵から茨木へー茨木とケシ栽培ー


イントロ

 山田の周辺(2)で述べたように、千里丘陵の東北、西国街道沿いに道祖本(サイノモト)という旧地名があって、その北東1kmの所に紫金山古墳が、南側2kmほどの所に、紫金山公園があること。また、明治初期のプロイセン皇孫遊猟事件や、山田別所のイザナギ神社に、中国遼東半島の金洲城の瓦を模したカメレオンみたいな狛犬が奉納されていること(これは、「脇見歩きのつぶやき:山田という所」参照)などを書いた。どうも、明治から大正にかけての外国と交友のある著名人がかかわっている地域だな~ とイマジネーションを膨らませているわけです。
 ちょうどそのタイミングで、父母の遺品の書類の中から「茨木とケシ栽培―知られざる日本のアヘン政策―」という冊子を見つけました。
今回は、その内容(+検索調査して得た情報)と、今まで並べてきたご託との関わりです。

二反長音蔵:ケシ栽培への道

茨木とケシ栽培より

 二反長音蔵(にたんちょうおとぞう)が、ここでの中心人物です。
 二反長音蔵は、現在の茨木市福井にある川端家の川端七郎氏の四男として1875年(明治8年)に生まれました。名前は川端音二郎でした。
 20歳のころからケシの栽培に興味を示し、農家の裏作としてのケシ栽培が換金作物として有利な点を考え、自ら品種改良を重ねながら、村の人たちにもそれを説いて回りました。
 その頃、南隣の二反長家に養子縁組し、二反長家の一人娘レンと結婚して、二反長家の若婿となっています。

ケシという植物について

 ケシという植物は、地中海沿岸から中東が原産地で、古来より、眠気を誘って快楽を伴う陶酔感をもたらす植物として知られていたそうです。
 ケシの実から出る液汁を乾燥して得られるのがアヘンで、アヘンからは麻酔鎮痛剤として使われるモルヒネが抽出され、そのモルヒネから麻薬であるヘロインが合成されます。
 そして、モルヒネの鎮痛効果は、アメリカの南北戦争をはじめ、19世紀中に行われた多くの戦争において、治療の際に利用されてきました。

 わが国でのケシの栽培は、はやく14世紀後半に、インドまたは中国から津軽に伝わって、薬草として栽培されていたようです。
 三島地方では、1840年ごろから、現在の茨木市南部から西部にかけて、栽培が始り大阪道修町薬店を通して、薬草として販売されていたようです。

千里丘陵とのかかわり

 正直なところ分かりませんが、こじつけの私見を書きとどめておきます。
要は、この地域の、時代を超えた地政学です。

阪神凸凹地図より:関連地域図
左上が福井、茶色の点線が街道
上方から右下へ流れているのが安威川

茨木市においてケシ栽培がおこなわれてきた地域は、
 一つは、安威川流域であるということです。

 次に、この地域の西側に千里丘陵があって、その境界を南北に亀岡街道が走っています。亀岡街道を北へ行くと、西国街道と中川原で交差して福井を通って亀岡に向かっていて、丹波(京丹波)は亀岡の西隣です。
 南へ行くと、大阪天満橋に至り、薬問屋街の道修町はすぐ近くです。
 中川原の西に椿の本陣があって、その南が道祖本です。

 街道筋は大概江戸時代に整備されたようですが、ルートの一部は古来から利用されていたと思います。
 大雑把に言って、南北の街道は、生産業者が必要な原材料や、半製品の商い、流通にもっぱら使用していた生産者のルートであって、
西国街道など東西の道は、武士や大名、公家などの公務、遊行、通信に利用されていている、消費者のルートと見れそうです。
そして、河川は、生産者にも消費者にも利用される大変重要なルートです。
安威川、淀川水系は、北東は京の都、南西は大阪湾に至り、そこから瀬戸内海、九州へと水運でつながっています。

 縄文時代、千里丘陵周辺には海が迫っていて、人々は千里丘陵で狩猟採集生活を行っていました。

 弥生時代に入って海岸線が後退し、千里丘陵周辺には平野が広がりました。安威川や淀川、当時の河内湖では、漁業も盛んにおこなわれるようになります。

 丁度その頃に、大陸から稲作が伝わり、この地帯は肥沃な水田地帯となりました。そして、集落ができて村社会が大きくなっていくと、統率者が出て来て、分業も始まります。
 近くの千里丘陵からは、山菜や鴨などの食材、住居や農具などに必要な材木などが入手できます。ここは、豊受大御神が祀られる世界です。

 自給自足以上の生産ができるようになると、生産物の販路を広げるようになります。
 それらは、西国街道周辺に立つ市や宿場で、また、安威川から淀川を通って船で遠く大阪や京都に運ばれて、消費者に届くようになります。
 つまり、このような地域は、生活に必要な品物を作り出す、最初の生産地であり、初期の生産技術発展に欠かせない重要な地域で、当時、大いに栄えた地域であったわけです。
 見方を変えて、当時の消費者側からみれば、ありがたい、あがめるべき地域であったはずです。

 しかし、今までは村社会だったのが、首長が支配するような大きな体制ができてきますと、コメなどの生産物を税として治める制度が確立して、支配者と生産者の格差が大きくなります。そして、経済・社会活動における身分と豊かさの逆転現象が起こります。
 大王と呼ばれる支配者が権力を握ると、政策決定のための占い、まつりごとをおこなう巫女が祀る神としてして天照大御神を祀るようになりました。
(ここでつぶやき:天つ神に遣わされた月読の尊やスサノオノミコトは、国つ神となった豊受大御神の子孫を切り殺してしまいます。)
 また、戦争や、大王の都が遷る、河川の流域が変化する、などの、大きな変化があると、今までの流通路から取り残される地方も出てきます。
 そして、時代が下って、過酷な年貢の取り立てもひどくなります。
これらの地域では、より収益の出る作物を積極的に取り入れようとする人たちが出てくるわけです。
 このような地域で、ケシが栽培が始まったのではないでしょうか。

 さて、ここからは、ずっと苦手だった歴史の話で、あちこち調べた教科書的な記述を並べてみます。

アヘンを巡る東アジア情勢


 アヘン喫煙の習慣は18世紀半ばに中国から全世界に広がったそうです。
そのもとはというと、大航海時代にジャワを領有したオランダが、住民の抵抗をそぐためにアヘンを持ち込み、その後、ジャワの華僑が中国南部や台湾に伝えたと言われています。

アヘン戦争 

 イギリス東インド会社は、18世紀末以降インド産アヘン輸出を中心に中国貿易を強化します。
 1839年には、清の高官であった林則徐(りんそくじょ)は、アヘンを厳禁し、イギリス商管区の封鎖などを強行、それに対して1840年、イギリスが出兵してアヘン戦争が勃発。イギリスが勝利します。
 イギリスは、インド、ペルシア、トルコなどの生産地からのアヘンを独占して、アヘンの輸出を増やしていきました。

 このころ、茨木から高槻にかけての三島地方にケシ栽培が広がっていったわけです。

日清戦争

 1894年(明治27年)、日本と清国が朝鮮の支配権を争った日清戦争が勃発。清国との海戦で日本の勝利が続き、
 1895年、4月17日に下関講和条約が結ばれ、日本は中国から、朝鮮の独立の承認、遼東半島、台湾の割譲などを取り付けました
 しかし、4月23日に、ロシア、ドイツ、フランスから、三国干渉を受け、5月4日、日本政府は遼東半島放棄を決定しました。

このころから、二反長音蔵はケシ栽培に興味を示して、品種改良を始めていたことになります)

割譲された台湾のアヘン事情

 当時の台湾には、多くのアヘン吸飲者がいて、そのため、アヘンの輸入が膨大で、台湾の銀は国外へ多量に流出するようになっていました。
 1895年(明治28年)5月29日より日本軍が台湾に駐留し、台湾総督府が設置されました。この時、台湾住民の関心の一つに、アヘン吸飲に対する日本の対応がどうなるのか、ということがありましたが、日本側は何の布告もしませんでした。
 そのこともあって、日本はアヘン吸飲者に対する強圧的な政策を行おうとしているといううわさが広がり、島民の激しい抵抗運動がおこることになります。

 アヘンの中毒患者にとって、アヘン吸飲を続ける以外に生命を存続させることはできないといわれており、吸飲者にとって、吸飲禁止は死を意味する以外の何物でもありませんでした。
 そこで、内務省衛生局長後藤新平は、伊藤内閣に対して、「アヘンを厳禁しようとすると、一師団以上の兵の駐留を要する」との建白をおこない、ケシ栽培とアヘン製造を限定的に許可して、アヘンの国内生産を図ること、アヘンを政府の専売として、アヘン吸飲者に厳禁主義を取るのではなく、新規のアヘン吸飲者は認めない漸禁主義などを提言しました。

 ちょうどその頃、音蔵も、日本国内でのケシ栽培の必要性を提言した建白書を、内務省の担当衛生局員に手渡すことに成功し、後藤新平にも伝わります。

 1898年(明治31年)2月、小玉源太郎総督府長官・後藤新平総督府民生長官コンビが就任します。
 こうして、国の政策の裏打ちを得て、二反長音蔵はケシの品種改良とアヘン増産を進めていきます。

日露戦争

1904年(明治37年)2月8日、日本と帝政ロシアが満州・朝鮮の制覇を争って、日露戦争が勃発。海軍が遼東半島突端の旅順港を包囲、陸軍が朝鮮半島に上陸して制圧しました。
 5月、遼東半島の南山の北にある金洲城を第4師団が攻略して、南山で激戦が行われ、日本は南山を奪取しました。
 黄海海戦などを経て、制海権を獲得し、奉天海戦や日本海海戦などでの日本の勝利を経て、1905年9月アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋によってポーツマスで講和条約が成立しました。
 この条約によって、日本は、大連、旅順港を含む遼東半島(関東州)と南満州鉄道の支配権を獲得、ロシアは、南満州の中国への変換に同意し、日本の朝鮮支配権も認めました。
 関東軍は、この関東州と南満州鉄道付属地を拠点に、さらに満州・中国本土への侵略を狙いました。そのための謀略に自由に使える機密費を得るために考えられたのがアヘンでした
 こうして、大連は中国各地に対する麻薬密輸の中心地となっていきます
 

韓国併合から第一次大戦以降

 稿を改めます。
 最近、コミックで売り上げを伸ばしている「満州アヘンスクワッド」というのがあるようで、朝日新聞がコラボ企画をしていたので、それを参照していただく方がはやいかも・・・です。

最後のつぶやき

 ここで、南山の戦いを戦った帝国陸軍の第四師団は、大阪城本丸に司令部を置く大阪の師団です。
 「脇見歩きのつぶやき:山田という所」で述べた、山田別所のイザナキ神社の境内にあった、カメレオンみたいな狛犬ですが、
 「明治末期、大連にあった金洲城の屋根の飾りを模して製造し奉納されたものです。」(神社HPより)という記述と、
 1904年(明治37年)に、金洲城を第四師団が奪取した、という歴史的事件が、どこかで結びついているようにおもいます。