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ごまめのごたく:ロシアのもろもろ(8)異界幻想(後)

「ロシア異界幻想」(栗原成郎 2002 岩波新書)の後半です。
プーチンの今の動向の思想的背景がユラユラと浮かび上がってきます。
最後に、前回も出てきたムソルグスキーの「展覧会の絵」の絵画は何だったのか、という昔のドキュメンタリーがすごいので、紹介します。


「聖なるロシア」の啓示 ー民衆宗教詩『鳩の書』ー

第四章です。
 ロシア民衆文化の土壌に深く根をおろしている口承文芸(フォークロア)ジャンルの一つに、「霊歌」と呼ばれる歌謡形態の民衆宗教詩があり、
11世紀から15世紀にかけて発達し、「モンゴル=タタールの軛(くびき):1240年から1480年まで続いたキプチャクハン国による支配」から解放されてモスクワ公国の隆盛とロシア正教会の発達に新たな展開が開けた15世紀末に成熟期を迎えました

 16世紀から17世紀にかけて、キリスト教がロシアの隅々まで浸透し、それにともない「巡礼者」たちにより、民衆宗教詩も各地に広がっていきました。
 時代が下って、農民階級の出身者の詩人たちが民衆宗教詩の伝承者となりますが、これらの人々には目の不自由な人が多くいました。
 彼らは世間が見えない代わりに常人には見えない霊的世界を見る目が与えられており、キリストの霊性にあずかることができる「神の人々」として民衆の尊敬を集めました。

 このような伝承者は、帝政時代のロシアには実在していて、民衆宗教詩の歌詞の主要なものは19世紀半ばに採録・集成されましたが、以後、このような盲目の巡礼者によって歌われてきた民衆宗教詩は衰えを見せ始めます。

ロシア革命後の、ソヴィエト連邦では、唯物論的共産主義の思想の元、教会は徹底的に破壊され、民衆宗教詩は顧みられることはなくなりました。

しかし、20世紀の90年代にはいると、ペレストロイカの流れの中、民衆宗教詩の再評価がおこり、
 死滅したと思われていた民衆宗教詩が主として古儀式派教徒の民族宗教的な生活環境の中で伝承されていることが確認されています。

『鳩の書』とは

 『鳩の書』は、ロシアに最も広く流布した作品で、民衆宗教詩の形をとった「啓示」の書として、特別な位置を占めています。

 ”この詩が民衆のあいだに広く人気を保った理由は、それが読み書きのできない常民に天地創造に関する最も重要な問題に対する回答を与え、宇宙の神秘と地上階のさまざまな不思議な現象についての民衆の好奇心と想像力を満足させたことにある。”

 まず初めに、あまたの王侯貴族をはじめ「正教を奉じる」「名も無き人々」が集いきたった山上の大集会の荘厳な雰囲気の中で、「キリストご自身が書かれた」大いなる『鳩の書』が天より降り、聖なる戦慄が参集者を襲います。

 神の書に歩み寄る者一人とてなし
 この書のもとに来たりしは、いと賢き王
 ダヴィド・エヴセイェヴィチ至賢王
 彼ひとり神の書に至れり
 書は王の前にて開かれたり
 聖なる言葉はすべて王に解き明かされたり
 いま一人この書のもとに来たりしはヴォロディミル公
 ヴォロディミル・ヴォロディミロヴィチ公なり(注)

本書「付録」の『鳩の書』より

 注解:988年に東方正教のキリスト教をルーシ(ロシア)の国教と定めたキエフ大公ヴラジーミルを「聖なるルーシの王」として理想化した人物像 
ロシア人の姓名はどうも、名で語られることが多いようです。
ヴォロディミル・ヴォロディミロヴィチは、父の名が同じヴォロディミルであって、その息子のヴォロディミル、ということです。
  たまたま?現ロシア大統領のプーチンは、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンです
 もともと、ヴァイキングは、支配権奪取のための兄弟肉親同士の争い、殺し合いが常態化していて、血縁、地縁から来ている姓は大きな意味を持たなかったのでしょう。

 こうして、ルーシ(ロシア)の地の支配者ヴォロディミル公と至賢王ダヴィドとの問答の形式により『鳩の書』の幽玄な奥義が解き明かされます。

 はじめに、ヴォロディミル公はダヴィド王に、天体と自然現象(太陽、月、星、風、雨)ならびに人間の起源について問いかけます。

我らが白き自由なる世界はいずこより生ぜしか(注)
我らが麗しき太陽はいずこより生ぜしか
・・・・・・・

 注:白き自由なる世界
天と地を統合する概念で、すべての被造物を包括する。
ことばの意味は、「白き」と「自由なる」はほぼ同義の枕詞
たとえば、ベラルーシ(Belarus') という国名は、直訳では「白きルーシ」だが、意味は「自由ロシア」を表す。

と始まって、一つ一つの事象に対して問いかけが続きます。
これに対してダヴィド王は

我らが白き自由なる世界は神の裁量(さばき)に寄りておこる
麗しき太陽は神の聖顔(みかお)より出ず
・・・・・・・

と一つ一つ答えてゆきます。
 続いて、山河、植物、動物をつつむ母なる大地に関わり、また神性の主要なシンボルである教会に関わる問答が続き、
それぞれの現象にはその首位権を持つ「母」ないし「父」があります。

王の王なる者はいずこの王なるか
すべての地の母なる者はいずこの地なるか
すべての頭の母なる者はいずこの頭なるか
すべての教会の母なるものはいずこの教会なるか
・・・・・・
このいと賢き王 答えて曰く
王の王なる者は我らが国の白帝なり
いかなれば白帝は王の王なるか
我らが白帝こそはキリスト教を奉じ
十字架の信仰 祈りの信仰を保ち
キリスト教を庇護し
至聖生神女(しせいしょうしんじょ:聖母マリア)の家の護りに立つ
それゆえに白帝は王の王なり
すべての地の母なる者は聖なるルーシの地なり
・・・・・
すべての町の父なる者はイェルサレムなり
いかなればかの町はすべての町の父なるか
イェルサレムがすべての町の父なる所以(ゆえん)は
このイェルサレムの町の中にこそ
我らが地の中心が存することによれり(注)

 注解:ここで、イェルサレムは Ierusalim とつづられています。
 その俗語形にRusalimがあり、その語の中にRus’(ルス=ロシア)が含まれています。
 以降、「イェルサレムの地」は、ロシアの地と拡大解釈もしくは同一視されて詩が歌われています。たぶん、『鳩の書』が謡われたころ、世界地図を持たないその地の民衆にとって、イェルサレムの場所など単に遠く離れた聖なる地、という印象しか持てなかったでしょうから。
 
 
 続いて、イェルサレムの町の中心に立つ合同(ソボール)の教会(聖墳墓教会)と、イエス・キリストの活動の地の詩がうたわれ、
黒海(オケアン)と、聖クリメント教会の詩に入ります。

 すべての海の母なる者は黒海(オケアン)の海なり(注1)
 いかなれば黒海はすべての海の母なるか
 黒海の海のただ中に
 出でたるは公同の教会
 公同の 祈りの教会
 ローマ教皇 聖クリメント(注2)の教会
 ・・・・・・
 公同の 祈りの教会より
 天の女帝(至聖生神女=聖母マリア)出でませり
 天の女帝は黒海の海の波に洗われ
 公同の教会の上に立ち 神に祈れり

 それゆえに黒海はすべての海の母なり

注解1:オケアン
 ロシア語で「すべての海」はmoreで、当時、大洋、外洋を表す語がなく、okeanはギリシャ語からの借用で、場合によって黒海を指す。

注解2:聖クリメント
 初期の教父でローマ司教の聖クレメンス。聖クレメンスはトラヤヌス帝の時代に迫害を受け、現在のクリミアに当たる黒海沿岸地方に流刑され、最後には海に投げ込まれて殉教の死をとげた
・・・
九世紀後半にスラブ人に文字と文語をもたらしたメトディオスとキュリロスの祈りによって聖クレメンスの聖骸は奇跡的に海底から海上に浮かびあがり、遺骨はローマに運ばれてサン・クレメンテ教会に安置されたという。

 次に、すべての魚の母なる鯨、すべての鳥の母なる駝鳥、すべての獣の父なる一角獣について語られ
 最後に、正義と不正の闘いの話になります。

「正義」と「不正」の闘い

 ヴォロディミル公は、浅い眠りの中で二頭の猛獣が闘争する夢を見て、その夢解きをダヴィド至賢王に頼みます

至賢王 答えて曰く
そは不正(よこしま)と正義が出会うなり
かたみに闘い、せめぎあうなり
不正 正義に勝たんと欲す
正義 不正を打ち負かせり
正義は天に凱旋す

天の王なるキリストのもとに帰りけり
しかして不正は我らがもと全地にあまねく来たりけり
ルーシの地全地にわたり

キリスト教徒の国民(くにたみ)すべてに及べり
・・・・・・・
不正によらず生きる者は
主に望みをおく者なり
かかる者の魂は
天国をつがん

こうして「正義」と「不正」の闘いは終わらず、その最終的な決着は、民衆宗教詩では「最後の審判」でつくことになります。

ロシア的終末論

第五章です

地の嘆き

母なる湿れる大地は主なる神の前に
泣きくずれ 嘆き訴えるー
「主よ わたしは人間の下に立っているのがつらい
それよりも人間を支えているのがもっとつらい
罪深い 律法を守らぬ人間を支えているのが
彼らは重い罪を犯す
父母を侮辱し
恐るべき殺戮や窃盗を行う」
イエス・キリスト 地に答えて言いたまうー
「おお 母よ 母なる湿れる大地よ
汝はすべての被造物のうちで最もつらい定めにあり
人間の所業によりて汚されたり」

民衆宗教詩「知の嘆き」

終末期待

 権力に勝つ力をもたない民衆は、世界の終末を期待する
民衆宗教詩『イェルサレムの巻物』はロシア民衆版「黙示録」であり、世界の終末を予言する。
終末論の根底にある思想は、「死者の復活」と「最後の審判」と「キリストの再臨」である。

終わりの時のしるし~中世の反キリスト伝説

 では、最後の審判の日、キリスト再臨の日はいつ来るのか。世の終わりとキリスト再臨の前には反キリストが現れるという

 中世ロシアの人々は、反キリストはかならず西方のローマ・カトリック教会に現れる、と確く信じていた
 反キリストとは、その名を象徴的に表す数字(注)666が意味するところからみてローマ教皇にほかならない、と考えられたからである。
 そして、ロシアでは反キリストの出現の年は1666年に違いない、と考えられた。

注解:古代ギリシャ語や中世スラブ語写本では、数字は算用数字ではなく文字によって書かれた。

 次に、古儀式派の成立の話になるが、どうも最近のプーチンの行動の背景には、彼自身が古儀式派の宗旨に基礎を置いているように見受けられるので、本書の本文をそのまま抜粋する。

 これに先立つ1654年に総主教ニコンは教会会議を開き、幾世紀にもわたる写字生の手を経たことによる典礼書の誤謬個所を指摘し、ギリシャ語とスラブ語の古写本に基づいて典礼書を改訂し、国際的なものに近づけようとした。
 このような典礼書の改訂・典礼の改革は、多くの人々からカトリックへの信仰の堕落、反キリストの出現の前触れとみなされた
 皇帝アレクセイが総主教に抜擢したニコンの6年にわたるロシア正教支配(1652-58年)によって、教会権力と国家権力に抵抗する教会分離運動が生じた。ニコンは失脚するが、皇帝アレクセイはニコンの改革を支持し、ロシアおよび東方の正教会高位聖職者大会議を招集した。この会議は、モスクワ古来の典礼を正統としてニコンの改革に反対する古儀式派を呪詛し、破門した。1666年から1667年にかけての出来事である。
 古儀式派は、総主教ニコンあるいは皇帝アレクセイに反キリストの影を見た。彼らと典礼書校訂者の名前の文字数字を合計すると魔の「獣数字」666になる、という算定である。
・・・・・
 教会分離により公認のロシア正教は国家権力とますます強く結びついていき、一方、古儀式派は「分離派」として迫害を受けながら、民衆のあいだに信奉者を増やしていく
 1666年が過ぎると、人々は1668年の秋から世の終わりが始まり、1669年には反キリストが出現すると考えた。・・・
この年が過ぎると、終末の時は1702年まで延期された
・・・・・・・・・・
 時代が過ぎても、天使の喇叭(らっぱ)が鳴り響くことはなかった。19世紀に入ると、人々は「獣の数字」を別の歴史上の人物に名を求め、ナポレオンや革命家が反キリストと見なされた。
 古儀式派の解釈によると、反キリストの王国は総主教ニコンによる典礼書の改訂の時から始まった歴史的現実を神の啓示として見る独特の黙示観的傾向から、聖俗両界のあらゆる権力を反キリストの道具と見なし、聖職者を不要とする無司祭派(無僧派)が生じた。
 『ヨハネの黙示録』16章によれば、「神の怒りが盛られた七つの金の鉢」を七人の天使が地上に注ぐと、次々に災いが起こる。第七の天使が第七の鉢、すなわち「神の激しい怒りの葡萄酒の杯」を空中に注ぐと、神殿の玉座から「事は成就した」という声が響く。古儀式派の人々の多くは、第七の災いの杯はすでに地に注がれ、天恵は天に取り上げられた、と考えた。世界は反キリストの酒に酔っており、泥酔状態から覚めていないという。

反キリストは東方より


 民衆宗教詩においては、最後の審判に際して義人たちの霊は東から、罪人たちの霊は西から来る、とうたわれる。
  
 ロシアでは、中世以来、反キリストは西から出現すると考えられてきたが、19世紀も末になると、東から来る可能性が予想されるようになった。

 こうして、前回の「異界幻想(前)」の最初で述べた、本書序章のソロヴィヨーフ(1853-1900)に戻る。
 ソロヴィヨーフは、プーチンが2014年の年初め、クリミア半島への侵攻前に、クレムリンの重要な5000人の官僚たちに、「読め!」といって配った本の著者三人の内の一人である(他の二人が、イリインとベルジャーエフ)

 ソロヴィヨーフ最後の仕事の一つは『戦争および世界史の過程と終末に関する三つの会話』の出版である。
 その著においてソロヴィヨーフは、史上最後の大戦争は20世紀に起こると予想した。ヨーロッパは、日本を主導者として反モンゴル主義の旗印のもとに統合された異教アジアと戦う。キリスト教ヨーロッパは、個々の国家の民族的利害を超えて全ヨーロッパ理念のもとに団結すれば、非キリスト教アジアの猛攻に抗戦できる、とソロヴィヨーフは考える。そして、21世紀にはヨーロッパから全人類の庇護者の仮面をつけた反キリストが世界の支配者として出現する。ソロヴィヨーフの終末論においては、ロシアを含むヨーロッパの崩壊は歴史の終焉と結びついて考察された。
 世界の終末はひとりソロヴィヨーフの世紀末幻想であるのみならず、ロシアの歴史の節目に繰り返しあらわれる民衆の共同幻想であった

 締めくくりに、私の印象:
 民衆宗教詩、終末論、古儀式派などは、民衆の苦しみに満ちた生活に根差した感性から出てきたものであって、あくまで、民衆サイドの宗教観なのだと思う。いつの時代の歴史も、日本もそうだが、権力者はそれを、外部の危機に対する民衆の結束に利用するための有効な手段として、最大限に利用しようとする。(オーム真理教の信者は、日本よりロシアのほうが多かった)

 これでなんとなくわかった。プーチンが、ウクライナ侵略の口実に、ネオナチが攻めてくる、と言っている意味が、

 彼の宗教では、聖地イェルサレムは黒海の岸、クリミア半島付近にあって、ウクライナの地は、今のパレスチナに対応する。ウクライナへの侵攻は聖地を追われたルーシ(現在のイスラエル、つまりユダヤ人の歴史に対応する)の聖地イェルサレム奪還作戦であり、ウクライナはそれに対抗するネオナチ、
 そういうことなのだ・・・・

 そして、キリスト生誕の約1000年後、ヴォロディーミル公がキリスト教に改宗し、その約1000年後にウラジーミル・プーチンがロシア大統領として権力を握った。
 彼は、自分が特別な使命を帯びているという幻影を信じていて、どういうわけか、千年紀に起きるはずの最後の審判が、神が不在のまま過ぎ去って行くことに対して、永遠に繰り返される不義に対する正義の戦い(神がこの地上に現れなくとも、不義に対する戦いは神の意志であり、聖戦なのだ)に臨んでいる、と信じているのだ。

天国と地獄の幻景

 最終章です。
天国と地獄は天上界にあるのか、天上と地の底にあるのか、
この地上にあるのか、という宗教教理上の問答です。
 詳細は省略します。
 ただ、古儀式派にとっては、地獄は現在この地上にある、ということなのでしょうか。精読できていません。

追跡 ムソルグスキー「展覧会の絵」

 大変貴重なドキュメンタリーだと思います。

 第四曲「ビドロ(牛車)」の絵の探索の所から、始まるように埋め込んでいます。