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“パンパンガール”を語る「金ちゃんの紙芝居」6~【オンリーさんの部屋の店屋もん&ハニーさんに愛された食堂】


戦争に負けた日本。埼玉・朝霞の米軍基地周辺には、パンパン(=ハニーさん)と呼ばれた女性たちが集まった。当初は野宿だったが、次第に、民家などに間借りする女性が増えていく。

ただし、部屋を借りられるのは、パンパン(=ハニーさん)の中でも、オンリーさん(=特定の相手がいる)と呼ばれる女性たち。高い家賃を払ってくれる恋人がいたからだ。

今回の金ちゃんの話は、前回も紹介した、ピンクの布団のオンリーさんの部屋から始まる。
この部屋は、昭和25,6年ごろ、化学肥料を扱う肥料屋が、ハニーさんたちが借りることを当て込んで、2軒の一戸建て(6畳一間・玄関・お勝手)を建てた、そのうちの一軒だという。

前回、「鏡台を持つことが豊かさのステータスシンボル」という話があったが、他にも“豊かさの象徴”があった。

オンリーさん 約束された豊かな生活

━━ これは豪華な生活ですね。

金ちゃん) うん、これはかなり豊かなね…ゆとりのあるお姉さんですよ。

部屋に必ずあるのが、店屋もん

豊かな生活の一端が、画面の右下角に見える、食べ終わった丼(どんぶり)。

「店屋もんの丼」の上、「鏡台」の下に描かれている「蚊取り線香」も、ある意味、豊かさの象徴と言えるかもしれない。

金ちゃん) この人たちは決して炊事をしない。近くに蕎麦屋さんがあって、そこから出前を取っている。

━━ ああ、出前を取っていたんですね?

こちらも前回紹介したが、元髪結いの家の玄関に間借りするオンリーさんの絵。足元に、同じ蕎麦屋から出前した丼(どんぶり)が描かれている。

ちなみに、『値段の明治 大正 昭和 風俗史』(朝日文庫)によると、当時は、もり・かけそば一杯の値段が17円(昭和27年)、ラーメンが25円(昭和25年)、ついでに言うと生ビール(ビヤホールでのジョッキ一杯)が135円(昭和25年)の時代だった。

ハニーさんたちが愛した「かめさん食堂」

金ちゃんによると、朝霞には当時、出前をしてくれる店は2軒しかなかった。上記の2枚の部屋に出前した蕎麦屋と、もう一つが「かめさん食堂」。

━━ 「かめさん食堂」のメニューは、主にどういったものが?

金ちゃん ) 「かめさん食堂」は何でもありました。頼めば何でも作ってくれる。「卵焼き」って言えば卵焼きを作ってくれるし、「秋刀魚、焼いてくれ」って言えば、秋刀魚の開きを焼いてくれる。

━━ なるほどなるほど。

金ちゃん)  だからハニーさん方は、ずいぶん重宝というか便利にしてました。

金ちゃんに言わせれば、「かめさん食堂」ほど、ハニーさんたちに愛された食べ物屋はない。それは、単にメニューが豊富だからではなかった。

おかみさんは差別をしなかった

金ちゃん)  「かめさん食堂」は、おかみさんが、お姉さん方を差別、区別しない。

━━ あぁ。

金ちゃん) 良いおかみさんなんですよ。

他のお店はね、お客で来るから「お姉さん、お姉さん」ってね、そんときだけ、あれだけれども、普段は「パン助」呼ばわりですからね。
まあ、面と向かって「パン助」っていう言い方をするのは、私は聞いたことはないけど、お姉さん方が離れたあと、そこへ買い物に来たお客さんと話している時に、「あのパン助はよう」っていうような言い方してましたよね。

そういう店が多かった中で、「かめさん食堂」のおかみさんは決して蔑む言葉を使わなかった。だから、自然とお姉さん方も集まったんです。

お姉さん方は自分で炊事はしませんから…というより、炊事をする場所がなかったから、「かめさん食堂」を頼りにしていた。「かめさん」が、だいぶ安かったってこともありますけどね。

━━ なるほど。そうすると、お客さんの中で、ハニーさんの割合というのは、どんな感じだったんですか?

金ちゃん ) 殆ど(笑)。限りなく100%に近いんじゃないですか。

━━ ハニーさんばっかりだった!?

金ちゃん ) そうですよ!  結局ね、お客さんって変なもんで、ハニーさんがいるところへ行かないと言うか、行きにくい。
というのは、差別しているから、行きにくくなっちゃうんじゃないですか。

━━ あぁ~…

金ちゃん) ハニーさんたちが大勢いるところへ行ったって、一緒にテーブルで食べるってことが出来なくなっちゃった。
ハニーさんをよく思ってない人たちが、ハニーさんがいっぱいの「かめさん食堂」に行くっていうことは、難しかったんだと思います。

“パンパン”に向けられた、まなざしの変容

僕が、このシリーズで留意しているのは、”パンパン”と呼ばれた女性たちに向けられた、人々のまなざしの変容である。

* 差別があったのか?
* あったとすれば、それは初めからなのか?
* 逆になかったとすれば、差別は、いつごろから生まれたのか?

これまでの金ちゃんの話から分かるのは、

* ”乞食パン助”という言葉でわかるように、野宿で、必ずしも清潔でない 
  ハニーさんたちは、当初は、住民にとって歓迎すべき存在ではなかった

* しかし、オンリーさんが増え、高い家賃を払ってくれたり、商店街に
  お金を落としてくれたりするようになると、揉み手で歓迎した
* とはいえ、心の中では、蔑む者も少なくなかった

そんな中、「かめさん食堂」のおかみさんは違った。
数年前、地域の歴史の勉強会に招かれ、大略、次のようなことを話したという。

金ちゃん) 「私がこうやって、今、生きていられるのはお姉さん方のおかげなんだ」と。「お姉さん方が良いお客さんでいてくれたから、私は食べて来られたんだ」というようなことを言ったんですよね。

ただ、「かめさん食堂」のおかみさんのように、パンパンへの感謝の念を忘れない人は少数派だ。

それは、朝霞に限った話でない。
戦後、繁華街や米軍基地の周辺には、全国どこでもパンパンがいた。
そして、家賃や買い物という形でパンパンが落とす金で、人々は明日の糧を得た。
しかし、昭和30年代、日本が高度成長期に入り、人々の生活が豊かになると、パンパンに経済的に助けられたという地域の歴史は、全国どこでも、”不都合な真実”であり、”なかったことにしたい黒歴史”となっていったのだ…。

「かめさん食堂」は、今も朝霞駅近くにある。
けれども、おかみさんの体調のこともあるようで、シャッターは長い間、下ろされたままだ。

再開を待ち望む声は大きい。



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