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Dual Residence: サくら&りんゴ#4

都庁が遠くにそびえ、坂を下ると神田川。
水平線から朝日が昇り、窓辺で水鳥の飛来を眺めるシムコー湖畔。
そんな東京とカナダ・オンタリオの二重生活を綴ります。

My True North  April 2021
奈良から戻った翌日、東京は穀雨であった。
窓を開けると濡れたさみどりの空気が入って来る。
新しい命の香りである。

母が亡くなった後の家をようやく片付け終えた。奈良市の生駒市とのきわ、かつての新興住宅地にある一軒家である。

新しい家は日当たりがええよ。窓がたんとあるさかい。

そんな母の言葉を覚えている。私が小学1年生の時のことである。
京都の古い家から引っ越して、そこには母が欲しかったダイニングキッチンが南西の角を陣取っていた。当時はまだ台所を南側に作るのは稀だったかもしれない。母は家族のために毎日の食事を作っていた。多分、料理が好きだったわけではない。近くにコンビニもない時代である。義務感でというのがぴったり来るけれど、思い出すのは決まってこのダイニングキッチンに立っている母の姿である。

小中高大と学生時代を奈良の家で過ごした。それなのに片付けをしながら思い出すのは、小学生の時の事ばかりである。
キッチンの引き出しからプラスティックのマドラーが出てくると、夏休みに氷入りの冷たいカルピスを飲んだことを思い出す。水滴がいっぱいついたガラスコップを前に、どれを使うか迷ったこと。選びながらすでにカルピス味になっている口の中の感覚さえ蘇ってくる。

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押入れの奥まで這って入り、いったいいつからそこにいたのかわからない物たちも、ひとつひとつ手に取って確かめる。
フルーツ缶が入っていたのであろう古びた箱が出てきた。幼い字で おわん とある。私はこれを書いた時の事さえ思い出したのだ。小学校の低学年だったろうか、慎重に書いたにもかかわらず、 “お”の形が気に入らなかったのである。

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中からは新年を祝うお椀と重箱がでてきた。それらは丁寧に しかしすっかり黄ばんだはながみで包まれている。

洗面所の引き出しからは滅菌ガーゼ。まだ未開封である。昭和なパッケージを見て、これは果たしてまだ滅菌状態が続いているのだろうかと思う。

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母を毎朝写していた三面鏡。引き出しにはセルロイドの小物入れ。京都の家でも見た覚えがあるから、私が生まれる前から母は大事に持っていたのかもしれない。

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おしろいの匂いが残っている。


父を習って母も三行日記を毎日つけていた。亡くなる前日のものもあった。
右腕と足が上手く動かないと、へなへなの筆跡。このあと、母はスカイプでカナダにいる私と会話をしていた。

こういった物たちにはまだ母の体温が残っていて、私には捨てられない。これだけは、と思ったものが次々と増えて、段ボール箱に詰めているうち結局10箱分にもなり東京の家に送る。いずれは捨てるから、と思いながら。
お参りに来てくれた京都のお寺の住職が、父がしたためた写経や旅を共にしたらしい朱印帳を手に取って、

まだぬくもりが残ってるもんは、しばらくはそばに置いておかはったらよろしいんちがいます?

その言葉を大事に折りたたんで、片付けているのに捨てていない自分への言い訳にしている。

結局一軒の家の片づけに、考えていた何倍もの時間を費やしてしまった。寄付するもの、古本買取りに送るもの、家電リサイクルに出す電気製品、ピアノ、残しておきたい東京に送るもの、滞在中のゴミの日に出せるゴミ。しかしより分けているだけで、ちっとも物の数が減らず、私は途方に暮れた。仕方なく途中で置いてまた来週と、仕事のため東京に戻る。そんなことが三ヶ月続く。粗大ごみも住人でなければ回収に来ないというので、結局最後は業者に頼むこととなった。スケジュールを合わせて片付けの見積もりに来てもらう。
ところが驚いた。値段のばらつきに。
20万円 26万円 29万円 そしてなんと80万円と言った会社もあった。結局最後に来た業者が26万円の提示から20万円に下げたことで、その会社に決める。
埃まみれのあわただしい日々であったが、最後の日、やってきた業者のお兄さんが面白かった。
作業をしながら、
なんやこれ!なんでや!ほんまや!
威勢よく発せられる言葉がおかしくて、私はそのたびに笑った。漫才でも始まる気がして。しかしこのあと会いに行った、小学生時代からの友人かんなにその話をすると、

別に普通やよ。特に面白いわけやないし。

私は関西人のノリと言うものをすっかり忘れていたのである。自分は関西人だと思っていたのに、気づけば関西を離れてずいぶん経っていた。

一日がかりの業者の片づけが済むと、家の中はがらんと音を立てた。金茶色の屋根瓦の家は、私が育ったあのお日様の匂いがする家ではなくなってしまった。

最後の確認に一部屋ずつ見て回わる。するとそこには昭和色を背景に、よみがえってくる物語がまだあった。

引っ越ししたばかりの頃、母は毎日くまなく掃除をしていた。新築祝いにやって来た親戚のおばさんが、母の磨きすぎた廊下で滑って転んだっけ。それも、二人も。

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家の中心には応接室。
そこは私の友達が遊びに来ても入ってはいけない部屋であった。ワイン色のガラスブロックは母のお気に入りである。

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洗濯機置き場は海の中のあぶくの様なタイル。

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脱水機能が洗濯機についていなかった当時 母は洗濯機の横についているローラーのようなものに濡れた衣類を挟み、くるくるとハンドルを回して絞っていた。

勝手口に続く外の門扉は、何年前だろう、夫が日本に来たときに塗りなおしたものだ。私が知らない間に夫は、自分がカナダで使っているスクレイパーをスーツケースにほりこんでいた。ふたりで古いペンキをがりがりはがした。

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こんな風に、この家にあるひとつひとつのすべてに、物語が付随している。それらはもう私の心の中しか行き場がなくなり、そしていつかは私の心の中からも消えていく。
私はいったいいつ慣れることができるのだろう、この幾百もの物語を読み返す場所がないことに。
大切だった物がまたひとつ、私のそばから消えていく。私の心はTrue northを見失った船のように頼りなくなった。

体温を失った家に別れを告げるときが来た。
玄関ドアにキーを差し込む。カタリと音を立て鍵が閉まる。

人手に渡ることとなった家は解体されることが決まっている。

翌日、湖畔の住人かんなに会いに行った。滋賀とInnisfil。私たちは地球半分離れたところに住む湖畔友達である。
何千人もの子供たちと出会う職業についた彼女。その子供たちをひとりずつ大切に愛してきたのだろう。彼女の湖畔の家の裏庭で、それぞれの色を生かされて育っている植物を見ると、それが分かる。
彼女のとっておきの場所にも案内してくれた。それはチェロの練習部屋。そこからは弦に指を添えながら、湖を見下ろすことがきる。湖の対岸には、藍の濃淡で織りなす山々の稜線。
朝日がそこからのぼるのだと言う。
そうか、彼女がここで見送った太陽は、今度は私の住むカナダのシムコーから朝の光を携えて昇ってくるのだ。

そして私が太陽を見送った夜、朝日に照らされてかんなの指はここで何を奏でるのだろう。

夫のいる湖畔に戻りたくなった。

しかし私は気づく。
何を言っているのだ。
太陽は変わらず動かずそこにあって、日々動いているのは私たちの方であった。シムコーのあるInnisfilにいれば13時間ここから遅れるということも、人が勝手に日付変更線を引いたせいである。
ふっと私は自分が、人間が勝手に決めたことや、正しいと思い込んだことで振り回されている気がした。正しいも間違いもその根拠は曖昧なのに、人は正しいことを決めたがるのだ。

そうしないと 心が不安なのかもしれない。

Innisfilの湖畔に戻ろう。
航空便を予約しよう。
戻ったら去年と同じようにキュウリを植えよう。
種類はやっぱりブラックスパインとマーニーがいいかな。
それからLaurieが注文してくれている変わりトマト。
Erikが言うバターナッツスクワッシュも植えてみよう。
これは育てたことがないので、戻ったら夫に聞いてみよう。
今年の土はどうすればいいかも聞いてみよう。

そしてその次の瞬間、
地球を半周したInnisfilでシムコーを、夫が見ている気がした
夫はずっとかわらずそこにいる気がした
私のそばにいるために
私だけのTrue Northであるために

日本とカナダの子供たちのために使いたいと思います。