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保育の質ってなんだ?という視点から

保育の質ってなんだ?
園長のマネジメントとどう関わるの?

先日、そんなディスカッションを
させていただきました。
お相手は教育経済学者の中室牧子先生。

ディスカッションを終えて
思っていたこと、感じたことなどを
振り返ってみたいと思います。

保育の質って?

そもそも「保育の質」という言葉が
漠然としてるよね?ってのは、
これまでの「保育の質」研究の中でも
たくさん言われてきてる。

つまり保育の質は、
社会や文化、価値観、時代によって変わるし、
一面的ではなく多面的(多層的)だよねと。

たとえば、
Society5.0の時代が到来すると
いわれているけれど
時代によって教育のあり方は
大きく違うはず。

Society1.0(狩猟社会)では、
獲物を捕る力を授けることが
教育の重要課題だっだろうし、
それをうまくできた部族や家族が
栄えたんじゃないかと思う。

実は教育ってのは
普遍的なものではなくって、
社会、時代によって変わることを
踏まえなければならないし
(だから学習指導要領や保育指針も
 10年毎に見直される)、
これから訪れるSociety5.0(新しい社会)では
求められる保育も変わってくると思う。

一方で、こうした見方は、
教育・保育のアウトプット
(どういう結果につながるか)に着目してて、
子ども期を将来への準備期として、
また、いわゆる投資期間として
見ているんじゃないか?
別の見方もあるんじゃないか?

という議論もある。

子どものいまを大切にする視点

ぼくらはいずれ老人になっていくけれど、
老年期への準備期間として
今を生きているわけではない。

にもかかわらず、
子どもに対しては、
いつの間にか将来への準備期として
捉えている。

子ども自身が
養護・教育の客体という視点は
もちろん必要だけど、
それだけでなく、
権利の主体として認められ
十分にそれを発揮できること。
そして、子ども期が充実することは
とても大切。

そうしたとき、
大人への準備期として捉えるのに比べて、
保育の質への答えは
また違ったものになりうる。

さらに!
保育の場というものを、
子どもを養護・教育する場ではなく、

子どもが一人の市民として生きる
コミュニティであるという見方に立った時、
保育の質の定義も変わってくる。

以下に示す本、
「『保育の質』を超えて」では、
保育施設のことを
「子どもたちと親が社会的、文化的、政治的、経済的に重要なプロジェクトに参加する、市民社会における公共のフォーラム」
という見方を示してる。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b594005.html

こうした見方は、
実はこれからの時代において、
結構重要になるのではないかと思っている。

質への議論に目を背けないこと

ただ、保育施設を
市民社会における公共のフォーラム
という見方をしたとしても、
アウトプットへの視点は欠かせない。

なぜなら、
お金をいただいてサービス提供してる以上、
じゃあそういうフォーラムが成立してるって、
何を見て判断するの?
という外形的な視点が
やっぱり必要になるから。

だから、どういう視点に立ったとしても、
何をもって評価するのかは
常に考えつづけなければならないし、

評価する/されるということについて
真摯に向き合わなければならないと思う。

属人的な保育の質

今回、中室先生からあったお話の中で
とくに興味深かったのは(その1)、
同じ地域でも園によって質の程度が違うし、
同じ園でもクラスによって違う。
ということ。

つまり、保育の質が
属人的になっているということだと思う。
だから、担任が変われば保育が変わるし、
園長が変われば保育が変わる、
なんてことになってしまう。

「前のA先生のときは
 あんなこともやってくれた」
という意見が寄せられるのは、
そういった背景もある。

それを裏付けるかのように、
中室先生の研究では、
日本の保育園を
保育環境評価スケール(ECERS)で
評価したところ、アメリカに比べて
「活動」の項目が低いことが
見えてきたとのこと(興味深かったその2)。

「活動」の項目とは何かというと、
たとえば積み木遊びとか科学遊びとか、
数に関する活動とか、
そういうものが万遍なくあって、
かつその周辺のやりとりが、
充実しているということ。

つまり、
「活動」項目の点数が低いってことは、
どんな活動を保障するかが
明確になっていないということだと思う。

じゃあそれを明確にすればいいじゃないか!
と思うのだけれど、
それはそれで変な力学がはたらくのだ。

例えば、『どんな活動をするかを
あらかじめ明確にするってことは、
大人主導になるじゃないか!』という
批判的議論を呼ぶ。

その視点は確かに大切だ。
ただ、こうも問う必要がある。

新人さんが「保育所保育指針」や
「幼稚園教育要領」を読むだけで、
保育実践ができますか?と。

それを読むだけで、
保育環境を作れますか?と。

答えはNOだと思う。

それらのナショナルカリキュラムは
大切な方向性を示しているけれど、
保育者の側にそれらをしっかりと読み取り、
実践につなげる力が求められる。

それを保育者任せにしておくから
属人的な保育が展開される、
なんてことになる。

保育を構造として捉えるということ

ではどうしたらいいか?
それには、ある程度
保育を構造化して捉える必要が出てくると
思っている。

たとえば、
コーナー保育をしている園は多いだろうけど、
必要なコーナーの数や種類は
明確になっているだろうか?

もし明確になっていなければ、
担任が変わったら環境が大きく変わる
なんてことは普通に起こる。  

必要なおもちゃやコーナーが、
ある日突然なくなってしまう、
なんてことにもなりかねない。

そういう状態だとすると、
園として
保育サービスの質を保障しているとは
言えないのではないか。

誰にとっての保育の質か

そしてまた、
保育の質について考える上で、
とても重要なポイントがある。

それは、誰が評価するの(できるの)?
ということ。

どういうことかというと、
一般的なサービスの場合、
サービスの受け手と評価者は同じ。

例えば
ラーメンの味の良し悪しは、
食べた人が判断する。

しかし保育の場合は、
サービスを受ける人(乳幼児)は
判断する人ではなく、
サービスを受けていない人(保護者)が
それを評価し、契約者であるという構造。

もちろん保護者の方々も
子どもを預けるという
サービスの受け手であって、
評価者であることは間違いないのだが、
保育・教育サービスそのものを受けているのは
子どもなのだ。

しかも、その保育・教育サービスは
即効性があるものではなく、
10年後、20年後、
いやもっともっと先の人生にまで
じわじわと影響を及ぼす、
わかりにくいものなのだ。

だから、サービスの受け手である乳幼児が
それを評価できるかというと、正直難しい。

一方で保護者は、
サービスの直接の受け手ではない
(その場にいない)。

という、とても複雑な状況にある。

だからこそ、
保育の質について語るとき、
それは誰にとっての質なの?
いつを基準にした質なの?
誰が評価するの?(できるの?)
という視点は大切になる。

マネジメントと保育の質

さらに中室先生からのお話で、
とくに印象に残ったものが(その3)、

園長のマネジメントは保育の質に、
実は大きく影響しているのではないか?
という仮説。

これは間違いない!という実感を持っている。

というのも、
ぼく自身も園長だったころがあって、
まだまだ駆け出しでポンコツ状態のときは、
保育の質を語る以前の状態だった。

やっぱり園長のマネジメントは
保育の運営そのもので、
保育の質がマネジメントの影響を受ける、
というのはその通りだろうなあと
思う。

因果関係なり相関関係が出るのは、
なんだか怖いけど、
でもやっぱりそうだと思う。

質の良し悪しに向き合う

つらつらと
保育の質について書いてきたけれど、
なんだかんだで言いたいのは、
保育の質の議論を避けてはいけない、
ということ。

お金を頂いてサービスを提供している以上、
質が問われるのは当たり前だし、
向き合わなければいけない。

それはどの業界だって
当たり前のことであって、
保育界が例外じゃあない。

一方で、保育・教育は
目に見えない未来への投資でもある
という点は他のサービスとは違う。

それは短期的な視野では語れない世界。

だからこそ、私たち保育者は、
サービスをリアルに受けてない人たちへ
そのサービスの意味・意図を
伝えていくチカラを
身につけなければならない。

と思います♪

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