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主体性の名のもとにおかしなことになってない?

「主体性」が
保育の重要なキーワードであることは間違いない。

一方で、
なんだかモヤモヤしたものも感じるのだ。

そんなホンネを綴ってみたい。

何がモヤモヤするのか?

それは、
「主体性」の名のもとに
「放任」になっていないか、ということ。
そして、「主体性」に過剰反応するあまり、
大人の側が保育者としての意図性を
手放していないか、ということだ。

たとえば、
クラス活動をする場面において、
「やりたくない」と言うAくん。
それに対して、
「じゃあ、やらなくていいよ」という保育者。

クラスで「散歩に行く」とか
「畑の野菜を収穫に行く」といった場面でも、
「行きたくない」と言っているという理由で、
園や保育室に残り、
別の保育者と時間を過ごす、
なんてこともあると聞く。

そこに違和感を感じるのだ。

もちろん「やりたくない」「行きたくない」
というその子の思いは
大切にされなければならない。

嫌だと言ってるのに、
無理矢理参加させるようであってはいけない。

ただ、
「やりたくない」「行きたくない」
という理由だけで、
子どもが経験する機会を奪っていいのだろうか?

大切になるのは、
なぜ「やりたくない」「行きたくない」
と思っているのか?を読み取ることであり、
話し合うことであり、考えることであり、
対処することであるはずだ。

子どもの言動には必ず理由がある。

それを考えることを放棄してはいけない。


子どもは何によって育つのか?

そして、忘れてはいけないのは、
「子どもは何によって育つのか?」
ということだ。

子どもは「経験」によって育つ。

ものと関わる経験、いじくる経験、
人と関わる経験、ぶつかる経験、
出会う経験、失う経験、
うまくいく経験、うまくいかない経験。

さまざまな経験を通して、
子どもは育っていく。

とすると、保育者の仕事とは、
「経験をデザインすること」
と言っても過言ではないと思っている。

だから、
「やりたくない」と言っているから
「やらなくていいよ」では、
その子の「経験」する機会はどうなるのだ?
ということになる。

しかし、こんなことを言うと
「保育者の押し付けになる!」
「子どもの主体性が尊重されてない!」
という声が聞こえてきそうだ。

そして、そうした意見はもっともらしさを持ち、
想像以上に影響力を持っている。
言われた側は、それが正論に思えてしまって、
抗えないというか、
何と言えばいいのか分からなくなってしまう。

ここはモヤモヤpart2だ。

何がモヤモヤするのか?Part2

つまり、主体性の名のもとに、
保育者の意図性が
何か悪いもののように扱われていないか?
と思うのだ。

保育者が意図的であると表すのを
躊躇する状態になっていないか?
とも言い換えられる。

さて、
保育者は意図性を持ってはいけないのか?

いや、そんなはずはない。

なぜならば、保育は教育であるからだ。

教育には「ねらい」がある。
つまりそれは、
保育者(教育者)としての意図性だ。

教育者として、こう育ってほしい、
こういうチカラを身に付けてほしい、
という「ねらい」があるからこそ、
「〇〇を経験してほしい」という
「保育内容」があるはずだ。

その経験によって、子どもは育まれるのだ。

だからこそ保育者は、
子どもがそうした経験を
できるよう(したくなるよう)、
あれやこれやと考え工夫し関わるのではないか。

「やりたくない」と言っているなら、
クラスの子どもたちと考えたり、
話し合うことだってできるはずだ。

主体性とは何か?

「やりたくない」子には「やらせない」
という保育者が勘違いしているように思うのは、
「主体性」の意味だ。

主体性と似た言葉である
「自主性」について考えてみると、
「主体性」の解像度がググっと上がるはずだ。

「自主性」とは、
やるべきことが決まっている状態で、
率先して行動しようとする姿勢のこと。

一方で、「主体性」とは、
何をすべきか決められてないことを
自分の意思で決断し行動しようとする姿勢だ。

言われなくても宿題をする姿は、
「自主性」だ。

なぜなら宿題は、
やると決まっているから。

一方で、宿題でも何でもないのに、
興味があることを調べたり、
探しに出かけたりするような姿は主体性だ。

そう考えると、
「やりたくないからやらない」というのは
「主体的」な姿ではない。
「主体的」とは、もっと目的志向で、能動的なのだ。

だから、
「やりたくないからやらない」を
尊重してたとしても、
主体的であることを尊重しているとは言えない。

「ほかにやりたいことがある!」
というのなら別だ。

ただ、
ほかにやりたいことががあったとしても、
保育者として経験してほしいことを、
すぐに放棄していいとは思わない。

もうちょっと粘ってもいいはずだ。

あるいは、そのときはやらなかったとしても、
別の機会で同じような経験ができるよう
工夫する必要がある。

なぜなら、繰り返していうが、
保育とは経験をデザインする仕事だからだ。

なぜいま主体性なのか?

そもそも
なぜいま主体性が大切になっているのか?

それは、変動性が高く、
不確実で複雑で曖昧な世の中(VUCA)では、
言われたことをうまくやる力だけでは足りず、

自ら目標を持ち、実現したい未来に向けて、
思考し、行動するといった、
未来を切り拓いていく力が必要となるからだ。

そのために保育者は、
子どもの経験をデザインする。

そこには確実に、
保育者の意図性があるし、
なければならない。

そして、主体性の名のもとに、
保育者の意図性が否定されたり、
意図性を主張するのが
はばかられる環境であってはならない。

と思うのだ。


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