見出し画像

カンボジアの夜に思い出す、梶井基次郎『闇の絵巻』

当たり前のことながら、カンボジアに来てから「夜は暗いものだ」ということを改めて思い出しました。

都会で暮らしていると、真夜中であってもどこかに灯りがついているものです。ところが、カンボジアに来てから、夜が暗い。思っている以上に真っ暗です。


もちろん今住んでいるシェムリアップも、カンボジアの中ではかなり賑わっている街でもあります。でも、中心地をひとたび離れてしまえば、街灯のない真っ暗な道が続きます。


ある日ふと、梶井基次郎の『闇の絵巻』を思い出しました。昔から何度も読み返している好きな作品です。

闇! そのなかではわれわれは何を見ることもできない。より深い暗黒が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえできない。何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。

梶井基次郎『闇の絵巻』より


現代の日本で暮らす人間とは、梶井基次郎の「闇」の捉え方がだいぶ違ったようですね。

もちろん今の日本でも、場所によっては真っ暗な夜を体験できる場所もあるはずですが、人が集まって住んでいる場所では珍しいのではないでしょうか。

ちょっと話が脱線しますが、高校の研修旅行(いわゆる修学旅行)で長野県の廃村に泊まったとき、人生で初めての「真っ暗な夜」を体験しました。色々な意味で怖かったです……!


暗闇は、本能的に「恐ろしさ」を感じさせます。その奥に何が潜んでいるのかわからない、不気味さがあるからでしょうか。


一方で、暗闇の中では、何だかホッとする感覚もどこかにあります。

真っ暗な闇の中で、一日をリセットするような感覚です。暗くなると同時に辺りも静かになって、ふっと眠気が降りてきます。

闇のなかでは、しかし、もしわれわれがそうした意志を捨ててしまうなら、なんという深い安堵がわれわれを包んでくれるだろう。この感情を思い浮かべるためには、われわれが都会で経験する停電を思い出してみればいい。停電して部屋が真暗になってしまうと、われわれは最初なんともいえない不快な気持になる。しかしちょっと気を変えて呑気でいてやれと思うと同時に、その暗闇は電燈の下では味わうことのできない爽やかな安息に変化してしまう。

深い闇のなかで味わうこの安息はいったいなにを意味しているのだろう。

梶井基次郎『闇の絵巻』より


暗闇の中で、あらゆるモノから遮断されることによって、解放された感覚になるのでしょうか。畏怖と安堵、一見相反する二つの感情を抱かせる、実に不思議な存在です。



ちなみに、今のところカンボジアの夜はきらいではありません。

基本的に遅い時間には外出しないので、夜は家でゆっくりと過ごしています。ゆったりと静かに過ごす時間がとても心地よいです。

闇の中ならではの安らぎを贅沢に味わいたいと思います。



みな

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?