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ポメラ日記75日目 町の本屋

 実は先月から暮らしはじめていたグループホームのアパートを退去することになって、ここ二週間ぐらいは引っ越しに追われていた。

 入って1ヶ月も経たないうちに退去することになってしまったので、名残惜しさとかもとくに感じないまま町から去った。

 グループホームの職員の方は暮らしやすくなるように尽力してくれたのだけど、たまたま隣にいた住人が運悪く壁を叩いて文句を言う人だったので、トラブルになる前に引き払うことにした。

 またふりだしに戻ることになって、なかなかうまくいかないものだなと思う。部屋の方は住みやすくできても、人の方は変えられない。

 最後にグループホームから退去する前に本屋さんに寄った。知らない町で迷ったときに行く先はいつも書店の棚の前だ。

 本屋といっても有名な大型書店ではなく、スーパーに併設されているような小さな書店だ。本屋の屋号すら付いていない。買い物客が「ついでに」立ち寄る位置にある。

 僕は昔、東京の駅ナカの書店で一瞬だけ書店員のアルバイトをしていた時期があって、そこは駅の乗り換えで待っているお客さんが本や漫画、雑誌などを急ぎ足に買っていくところだった。

 お客さんを見ていると、買っていくのは小説というよりも、名の売れた漫画の新刊や雑誌(とくに付録付き)が多く、ときどき時代小説を買っていく年配の方がいたり、学生っぽい若者が新潮の文庫を買っていったりしていた。

 どんな書店に行くときも、とりあえず小説のコーナーはすべて一通りタイトルを見るのだけど、一見、個性がないように見える町中の書店にも、実は棚にこだわりがあるのが垣間見えることがある。

 たとえば、僕が立ち寄った併設の書店では、作家の新刊本にだけシュリンク(ビニールの包装)が掛けてあった。

 シュリンクが掛けてあると、中身を立ち読みできないじゃないかと思うけれど、その作家の作品が好きな人のなかには、装丁やカバーを少しで汚さないようにして家に持ち帰りたいと考えるお客さんがいる。

 僕が書店のレジに立って、一週間もしないうちに店長から教えられたのは、シュリンクを外すかどうかはお客さんに尋ねてからにしろ、ということだった。

 またシュリンクが掛かっていると、そのコーナーでは事実上、立ち読みができなくなるので、棚の前に客が留まりにくくなる。

 僕が立ち寄った書店がそこまで計算しているかは分からないが、その作家の単行本コーナーは、ちょうど店の入ってくる入り口付近にあって、そこに客が留まってしまうと、通路が狭いので店のなかに入りにくくなってしまう。

 普段、何気なく立ち寄るスーパーなども、フロアはすべて客が購買しやすい、購買点数が増えるようにきっちり計算されていて、スーパーに併設された書店にはそういう独自の導線に関する理論があるのかもしれないなと思ったりした。

 あと、これは他の町中の書店でもよくある手法だけれど、一般的なタイトルの文庫本などは背表紙(つまりタイトルと著者名のみがある面)が棚に差してある(棚差し)。

 書店のなかでもとくに売れ線の本は、ちゃんと表紙が見えるように面を見せて置かれており(面陳)、ちょうど立ったとき(だいたい160cm~170cm)に自然と目線が合うようになっている。

 昔、書店の他の社員さんに訊くと、一般的な女性の身長(165cm前後)の目線に合わせて棚が設計されているようだった。

 よくある付録付きの雑誌は、主に婦人用に向けて作られているものが多く、大人が使えるポーチや、子どもが喜びそうなキャラクターものの行楽用品などが並んでいる。

 何が言いたいのかっていうと、書店に来るお客さんは必ずしも小説などを目当てに来店するわけではなく、むしろそれ以外のコミックや雑誌を楽しみに来ているお客さんの方が多いってことだ。

 前回の「ポメラ日記 74日目」では、カポーティが書いた短編小説がアメリカの高級ファッション誌に載っていた時代があると少し話した。

 昔から言われていることだけれど、文学ファンだけが小説を読んでいるようなやり方は、いずれ小説というジャンルごと駄目になってしまう気がする。

 何となく、どこまで行っても閉鎖的というか、内輪だけで盛り上がっている、そんな感じは否めない。

 たとえばハリー・ポッターの文章に優れた文学技法が使われているかというと、そうではないかもしれないが、21世紀に書かれた物語で、あれほど多くの人を動かした魔法使いの話はないと思う。

 サリンジャーの「ライ麦畑」も、中学か高校生くらいまでの未熟な子どもの読みものと酷評されることもあるけれど、全世界中のティーンエイジャーの気持ちを捉えたという意味では、やっぱり右に出るものはないんじゃないか。

 文学的な作品の評価と、世の中からの評価ってかならずしも一致するわけではなくて、むしろその正反対になることが多い。

 社会全体というか、国を超えて巻き込んでしまう作品って日本からはあまり生まれていない気がする。

 世界で名が知られている作家というと、21世紀に入ってからは村上春樹さんぐらいしか、思い浮かばない。そこで止まっている感じはやっぱりある。

 日本語の母語や、翻訳の面で不利なところはあると思うんだけど、スケールの大きな話を書くよりも、小さな世界を細やかに描く方が日本人の性質的に向いているからかもしれない。

 それが駄目だっていう話ではなくて、たとえば村田沙耶香さんの「コンビニ人間」みたいに、コンビニという小さな世界のなかで起きる出来事や、人間の愛憎などを、他の人が持っていない感性で描くやり方は、海外でも通用する物語になっていたりする。

 海外の人は、自分たちが持っていない感性で描かれたものに出会うと面白がるところがあると思う。エキゾチックなところを作品にも求めるというか。

 僕が少し気に掛かっているのは、書店の棚から「海外文学」がどんどん消えていっていることで、まだ大型の書店にはスペースが残されているのだけれど、海外文学の新刊のスペースは縮小ぎみになっていることだ。

 新潮文庫やハヤカワ文庫、河出文庫など、スタンダードな古典海外文学の文庫は引き続き置かれているのだけれど、単行本の方はもうどの書店に行っても軒並み減っている。

 これは最近の傾向で、少なくとも2~3年前は中型規模の書店でも翻訳文学の新刊が並んでいた。

 もちろん商売だから「売れないものは消えていく」原則になるのだけれど、僕は海外の翻訳文学ばかり読んで育った人間なので、町中から消えていくのは惜しい。

 僕には小説を書く才能がなくて、まともな作品ひとつこさえることも出来なかったけれど、ほんとうに文才がある子どもが海外文学に触れながら育つ土壌は残っていて欲しいと思う。

 人と同じものを読んだり、書いたりしているだけでは、新しいものは生まれてこない。小説というジャンルや活字の外にある、ぜんぜんべつの畑に、お話のタネは植わっていると思うから。

 2024/06/22 10:47

 kazuma


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