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「ポメラ日記37日目 文学は役に立たない(のか?)」

何の役にも立たないのが小説?

 こんにちは、もの書きのkazuma(@kazumawords)です。ひとりで夜な夜な原稿に向かっているとき、あるいは、ライティングの記事を仕上げてネットの海へと放流するとき、問いかけることがあります。『僕が書いたものは果たして誰かの役に立つのだろうか?』と。

 結論から言うと、小説は人生において何かの役に立つものではありません。読んで心の病が治ったりするわけではないし、どん底から掬い上げてくれるものではないし、お腹が減ったときに空腹を満たしてくれるものでもありません。

 本を読んでも、どん底は相変わらず目の前にあって、それが却ってよく見えるようになったりはするかもしれません。作品を書き続けていたら、ある日べつの何者かに変身していた、なんてこともありません。小説を読んでも、書いても、やっぱり僕はずっと僕のままだし、あなたはあなたのままです。

 そうです、文学は何の役にも立ちません。じゃあなんでそんな不毛なことをやってんのと言われると、他にしたい生き方なんてないもんね、ということになりそうです。

福沢諭吉の『学問のすすめ』に感じていた違和感

 ぜんぜん話が変わってしまうのですが、2024年から新紙幣になるそうですね。僕は一万円札が福沢諭吉で、五千円札が新渡戸稲造で、千円札が夏目漱石の時代に生まれているのですが、なぜ福沢諭吉が万札で、漱石が千円札なのか、昔からよく分からないんですよね。

 学生の頃、福沢諭吉の『学問のすすめ』を読んで、すぐに感化されてしまった同級生がいて、急にのめり込むように猛勉強をはじめたやつがいたのですが、僕は何というかそういう感化のされ方はちょっと危ない方向に行くんじゃないかと思っていました。

 僕は福沢諭吉という人物があまり好きではなくて(自分の懐に入らないやっかみも多少ありますが)、『学問のすすめ』をまともに読んだことはありません。というか、当時の同級生の様子を見ていると、これは僕のような人間にとって対極にあるような思想を詰め込んだ代物じゃないかなと。

 福沢諭吉は『学問のすすめ』のなかで、生活の役に立たない知識や学問──もっぱら文学を槍玉に挙げて、こういった学問は世間を渡っていくのに役立つものではないから、一旦後回しにして、先に日常生活で使えるような「実学」を学ぶべきだと言うんですね。

 学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実なき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。

『学問のすすめ』福沢諭吉 青空文庫より引用

 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤しむべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。 

『学問のすすめ』福沢諭吉 青空文庫より引用

 なんというか、ほぼほぼ文学全否定の文面です。ようは文学って生活にすぐ役立つような代物じゃないし、身を持ち崩すような輩まで出てきて明らかに『間に合ってない』ので、そういうものを尊ぶよりも、とりあえず人間として生活を維持するための学問や知識を身につけた方がよくね? という問いかけみたいですね。

 諭吉さんからすれば、いい年して未だに文学ばっかりやってるお前の方が危ないわ、と名指しで批判されそうですが、そうやって『役に立つ』ことばかりを有り難がり続けた結果が、いまの息苦しい社会じゃね? というのが僕の言い分なんですよね。世間的に作家志望への風当たりが強いのも、どうもこの辺りから来ているような気がする。役に立つか、否かの二元論。

 『学問のすすめ』をぜんぶ読み通したわけじゃないんですが、福沢諭吉がこの箇所でやっていることは明らかに学問の順位付けですよね。高校の国語の教科書から現代文が消えて、「論理国語」が生まれたのも、源流を辿っていくとこの辺の思想に行き着くんじゃないかな。

 学問に先に学ぶべきものと、そうでないものがある。そういう風に見ないとやっていけなかった時代背景が明治にあったというのは文学阿呆の僕にもうっすらと理解できますが、だからといって、永久に後回しにすべきだってものではないし、役に立たないから全員やらんでもええわー、ではないと思うんですよ。

 役に立つものが優れていて、役に立たないものは優れていない。そういう意識の刷り込みが根底にあって、これが段々とエスカレートして差が開いていくと、役に立つものはすべて善で、役に立たないものはすべて悪、という両極端なことになってくると思うのです。でもそれはほんとうに正しいのか? 福沢諭吉というお偉いさんが言ったからそれは正しい、正しいはずだ、みたいになっていないだろうか。

文学は「役に立たないこと」を言い続けることに価値がある

 僕は文学にもし役割のようなものがあるとすれば、「役に立たないもの」や「社会で顧みられず、見捨てられているもの」に光を当てて、もう一度そこへ目を向けさせることにあると思っています。社会の影で見えなくなってしまっているものを舞台に上げて、それを言葉で見えるようにするというか。

 生活の「役に立つ」ことばかりを追求し続けた結果、誰かの「役に立つ」ためにへとへとになるまで働かなくてはならなかったり、社会で「役に立たなくなったもの」を冷笑したり、通勤電車に飛び込むことになったり、果てはミサイルを飛ばし合ったり、戦争でひとを殺めるようになるのなら、いったい何のための豊かさなのかと思います。役に立つことは常に善で正しい、わけがないんです。

 僕はもっと「役に立たない」ものの価値を認めた方がいいと思っています。僕が文学や作家を信頼しているのは、こういう「役に立たない」ものを真っ正面から堂々と言い続けてくれるからです。端から見れば、あいつは空想に耽って、文字ばかり読んだり書いたりして、そんな人生が何になるのかと思われるでしょう。でもね、こういう風にしか生きられなかった人間もいるのです。そして「役に立つこと」しか言えない世の中は、「役に立たないこと」を言える世の中よりもずっと貧しい。文学がやっていることはいつの時代でも現実に対する抵抗です。

 世間から見れば僕はほとんど何の役にも立たなかった、むしろお荷物の厄介者でしょう。こんな僕がもし何かの役に立つことがあるとすれば、それはたぶんこの社会の端っこでじたばたもがきながら、死ぬまでものを書き続けること、「役に立たない」ことをくじけずに言い続けることです。

 投稿日がエイプリルフールですが、これはエイプリルフールではありません。

 2023/04/01  12:00

 kazuma

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